第51話『飢餓』
最初に限界へ近づいたのは、餌だった。
増えた。
たった四体。
だが、それだけで巣の空気は変わる。
音が増える。
匂いが増える。
熱が増える。
そして何より、空腹が増える。
生まれたばかりの幼生たちは、一体目や二体目ほど動けない。
まだ外皮も柔らかい。
脚も弱い。
巣の奥で、ただ口を動かし、餌を求める。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
その小さな鳴き声が止まらない。
一匹だけなら耐えられた。
二匹でも、まだ良かった。
だが四匹同時となると違う。
飢餓が重なる。
細い針のような空腹感が、絶えずグレイへ流れ込む。
食わせろ。
もっと。
足りない。
温かい肉。
柔らかい肉。
生きるための肉。
グレイは、眠れなくなっていた。
身体を休めようとしても、幼生たちの飢餓が感覚を揺らす。
特に二体目が強く反応する。
匂いに敏い二体目は、肉が減る匂いを誰より早く察知する。
保存場所へ何度も行く。
黒鼠の残り。
腐肉獣の柔らかい部分。
骨喰い虫の殻。
どれも少ない。
それを嗅ぎ、焦りを感じている。
一体目は巣の入口へ向かう回数が増えた。
外へ出ようとしている。
狩りを手伝おうとしている。
以前の一体目なら、ただグレイの後ろをついてくるだけだった。
今は違う。
群れの飢餓を感じている。
だから動く。
幼生なのに。
まだ完全には戦えないのに。
グレイは、その成長を頼もしく思いながら、同時に恐ろしくも感じていた。
群れは、空腹によって急速に変わる。
そして飢えた群れは危険だ。
グレイは巣の奥を見た。
四体の新しい幼生。
少しずつ動けるようになってきている。
黒岩の上を這う。
一体目や二体目へ寄る。
グレイの匂いを追う。
そして、空腹になると一斉に鳴く。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
その声は、巣の空気を震わせる。
白鳴き種の残響と混ざり、頭の奥へ響く。
グレイは、入口近くの保存肉を見た。
もうほとんど残っていない。
黒殻狩りの肉は硬い。
幼生には向かない。
腐肉獣の肉も減った。
骨喰い虫だけでは足りない。
狩るしかない。
もっと。
今まで以上に。
グレイは巣を出た。
一体目がすぐについてこようとする。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
駄目だ。
一体目は止まる。
だが、不満が強く流れてくる。
行ける。
手伝える。
そう思っている。
グレイは、一体目を見た。
以前より身体が大きい。
脚も硬い。
骨を鳴らさずに歩ける。
小石で注意を逸らすことも覚えた。
守ることも。
だが、まだ弱い。
地上近くでは人間がいる。
水場には大型も来る。
死ねば終わる。
グレイは強く鳴いた。
「グ!」
一体目が身体を縮める。
ようやく止まった。
二体目は、新しい幼生たちのそばへ戻る。
巣を守る側に回っている。
役割が自然に分かれていた。
グレイは巣を出た。
空腹が背中を押す。
自分だけの空腹ではない。
六体分。
七つの命の飢餓。
その重さが、狩りを急がせる。
水場。
黒鼠。
蛇型。
腐肉獣。
何でもいい。
柔らかい肉。
量。
グレイは通路を走った。
最近、下層の魔物の動きも変わってきている。
黒殻狩りの死骸が匂いを呼んだ。
骨喰い虫が増えた。
腐肉獣も集まり始めている。
餌場ができれば、別の捕食者も来る。
グレイの巣の周囲は、以前よりずっと危険になっていた。
それでも、狩るしかない。
水場へ近づく。
匂い。
黒鼠三。
骨喰い虫二。
そして。
人間。
遠い。
だが近づいている。
グレイは止まった。
人間の匂いが増えている。
最近、下層へ来る人間が増えた。
助けての声。
黒い影。
白鳴き種の音。
それらが地上で広まったのかもしれない。
巣へ近づかれている。
グレイは、水場の天井へ張りついた。
まずは黒鼠。
一匹。
落ちる。
首を噛む。
終わり。
二匹目が逃げる。
追う。
速い。
以前のグレイなら、追わなかった。
だが今は違う。
餌が必要だ。
グレイは壁を走り、逃げ道の先回りをする。
黒鼠が止まる。
その瞬間、落下。
押し潰す。
終わり。
三匹目。
さらに逃げる。
骨喰い虫まで逃げ始める。
水場が騒がしくなる。
駄目だ。
音が大きい。
人間に気づかれる。
だが、止まれない。
グレイは骨喰い虫まで噛み砕いた。
柔らかい中身だけを取る。
さらに腐肉獣の幼体も見つける。
狩る。
噛む。
裂く。
以前より荒い。
狩りが雑になっていた。
空腹が判断を急がせる。
その時。
遠くで、人間の声がした。
「今、何か暴れてないか?」
まずい。
グレイは死体を咥え、すぐに影へ入った。
だが、量が多い。
持ちきれない。
黒鼠二匹を置いていくか。
腐肉獣を捨てるか。
迷う。
その一瞬。
人間の灯りが通路の奥で揺れた。
近い。
グレイは腐肉獣を捨てた。
黒鼠を咥える。
柔らかい。
幼生向き。
骨喰い虫の中身も持つ。
急いで巣へ戻る。
だが、背後で人間の声が追ってくる。
「血の匂いだ」
「近いぞ」
速い。
追跡に慣れている。
探索者か。
討伐班か。
グレイは走りながら、焦りを感じた。
巣へ戻れば危険だ。
しかし戻らなければ、幼生が飢える。
一体目と二体目だけでは、四体を守れない。
グレイは通路を曲がり、黒殻狩りの死骸近くまで戻った。
人間の匂いが近い。
三人。
前より慎重。
グレイは考える。
巣へ直行は駄目。
なら。
誘導。
グレイは黒鼠一匹を横道へ放り投げた。
血の匂い。
柔らかい肉。
探索者はそちらへ反応する。
「こっちに死骸!」
一人が叫ぶ。
足音が分かれる。
グレイはその隙に巣方向へ走った。
だが、完全には逸れていない。
一人はまだ追っている。
匂いを辿っている。
しつこい。
グレイは天井へ移動した。
骨の配置。
匂いの流れ。
全部を思い出す。
どこで鳴らす。
どこへ誘う。
どこが崩れやすい。
一体目と二体目と一緒に作った巣の構造。
それが頭へ浮かぶ。
グレイは、入口近くの細い横道へ飛び込んだ。
追ってきた人間が、後ろから灯りを向ける。
「いた!」
その瞬間。
グレイは壁へ身体をぶつけた。
以前から削っていた黒岩。
崩れやすくしていた場所。
そこへ衝撃を加える。
ごり。
黒岩が崩れる。
細い通路が一気に埋まる。
人間が叫ぶ。
「うわっ!」
石が落ちる。
灯りが消える。
完全には埋まらない。
だが、足止めにはなる。
グレイはその隙に巣へ戻った。
入口の骨。
からり。
一体目がすぐに来る。
「グレ!」
強い感情。
心配。
飢餓。
焦り。
グレイは肉を落とした。
二体目がすぐに新しい幼生たちへ運ぶ。
きゅ。
きゅ。
一斉に群がる。
柔らかい肉を食べ始める。
グレイは、入口へ戻った。
人間の気配。
まだ遠くない。
崩れた通路を迂回しようとしている。
面倒だ。
しつこい。
飢えている時に、人間まで来る。
群れの感情が荒れる。
新しい幼生たちも、グレイの緊張に反応して落ち着かない。
一体目は入口近くで伏せている。
戦うつもりだ。
まだ弱いくせに。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
下がれ。
一体目は動かない。
代わりに、骨の位置を少し変えた。
人間が通りそうな場所。
鳴りやすいように。
防衛。
学んでいる。
二体目も入口近くへ来た。
黒殻狩りの体液を骨へ擦りつける。
匂いで人間を遠ざけるつもりだ。
二体も、飢餓と危険を理解している。
巣を守らなければならない。
新しい幼生がいるから。
グレイは、その光景を見ながら理解した。
飢餓は群れを変える。
守るものが増えたことで、全員が動き始めている。
狩り。
防衛。
匂い操作。
骨配置。
以前なら全部グレイだけだった。
今は違う。
群れ全体が、生き延びるために働いている。
その時。
奥で、小さな争う音がした。
きゅっ!
グレイが振り返る。
新しい幼生の一体が、別の幼生へ噛みついていた。
餌の取り合い。
肉が足りなかった。
弱い一体が、他の幼生を押しのけようとしている。
もう一体が悲鳴を上げる。
きゅう!
二体目がすぐに間へ入る。
押し分ける。
だが、新しい幼生は興奮している。
空腹。
肉。
奪う。
その感情が荒く流れてくる。
グレイは、一瞬で理解した。
飢えれば、共食いが始まる。
以前の自分と同じ。
死肉を食い、幼生を食い、飢えを満たしたあの頃。
今度は群れの中で起きる。
グレイは低く唸った。
「グ……!」
強い威圧。
巣全体へ響く。
新しい幼生たちが固まる。
一体目も振り返る。
二体目が、噛まれた幼生を庇う。
グレイは争った幼生へ近づいた。
小さい。
まだ柔らかい。
今なら簡単に噛み潰せる。
その瞬間、幼生の中に強い恐怖が流れた。
死ぬ。
食われる。
それは、昔のグレイ自身と同じ感情だった。
グレイは止まった。
牙を閉じる。
そして、残っていた肉をその幼生の前へ押した。
食え。
幼生が震えながら肉へ食いつく。
他の幼生たちも群がる。
グレイは、それを見ていた。
飢餓は群れを壊す。
だが、餌が足りれば、まだ繋がる。
問題は。
もう餌が限界だということだった。
グレイは、入口方向を見た。
人間はまだ近くにいる。
狩り場は減っている。
群れは増えた。
そして、幼生たちは成長していく。
もっと食う。
もっと動く。
もっと外へ出る。
このままでは足りない。
下層の小さな狩りだけでは。
グレイは、そこで初めて考えた。
もっと大きな獲物。
もっと広い狩場。
あるいは。
地上。
その考えが浮かんだ瞬間、空の感覚が頭の奥で揺れた。
青。
風。
草。
一体目が見た空。
群れが共有した空。
そして、人間。
グレイはゆっくり牙を閉じた。
地上は危険だ。
だが、飢餓もまた危険だった。
巣の奥で、新しい幼生たちが肉を食べながら小さく鳴く。
きゅ。
きゅ。
その音を聞きながら、グレイは理解した。
もう、自分一体の生き方では足りない。
群れは増えた。
なら、必要な餌も、生きる場所も、以前とは違う。
飢餓は、群れを動かす。
そして、その先にあるのは。
きっと、もっと大きな変化だった。




