第50話『増殖』
空の匂いが、巣から消えなかった。
一体目が地上から戻ってきた後、グレイは何度も巣の匂いを整えた。
入口の骨を動かし、黒殻狩りの死骸から流れる匂いを外へ逃がし、水場の黒岩粉を持ち込んで床へ擦りつけた。
地上の匂いを消すためだった。
草。
土。
風。
光を浴びた外皮の熱。
それらは、洞窟の匂いではない。
巣には不要なものだ。
外の匂いは、魔物を呼ぶ。
人間を呼ぶ。
幼生たちを外へ向かわせる。
だから消す必要があった。
だが、消えなかった。
外皮についた匂いは薄れた。
水で洗えば落ちた。
黒岩粉で擦れば隠せた。
それでも、空は残った。
匂いではなく、感覚として。
一体目が見た青。
草の隙間から見上げた広さ。
風に押される不安。
人間の声が近づいてきた恐怖。
それらが、一体目からグレイへ流れ、二体目へも薄く流れた。
そして巣の中に残った。
もう匂いではない。
記憶に近い。
群れの中に生まれた、見たことのあるものとして。
二体目は、空を直接見ていない。
それでも時々、巣の天井を見上げる。
黒岩しかないのに。
そして、小さく鳴く。
「そ……ら」
そのたびに、グレイの腹の奥が冷える。
二体目は見ていない。
なのに、空を呼ぶ。
一体目が見たものを、二体目も知っている。
完全ではない。
ぼやけた夢のように。
だが、知っている。
それが共鳴だった。
グレイは、巣の奥で身体を低くした。
一体目と二体目は、近くで骨を並べている。
以前より手際が良くなった。
一体目は通り道を作る。
二体目は匂いの流れを読む。
二体で、骨の位置を変える。
から。
からり。
音を確認する。
失敗すれば鳴りすぎる。
成功すれば、小さく鳴るだけで済む。
グレイが教えた。
いや、見せた。
そして、二体が自分たちで学んだ。
その光景を見るたび、グレイは力と不安を同時に感じる。
群れは賢くなっている。
巣は強くなっている。
だが、グレイ一体だけならあり得なかった速度で、変化している。
そして、その変化は止まらない。
腹の奥で、また熱が動いた。
グレイは硬直した。
前にもあった。
一体目が生まれた時。
二体目が生まれた時。
外皮の内側が痒く、熱くなり、薄い膜が破れ、濡れた命が出てきた。
それと同じ感覚。
だが、今回は違った。
一つではない。
腹の下だけではない。
節の隙間。
背の奥。
脇腹。
複数の場所で、薄い熱が蠢いている。
グレイは黒岩に爪を立てた。
駄目だ。
そう思った。
これ以上は駄目だ。
二体ですら、餌が増え、危険が増え、巣が変わった。
さらに増えれば。
餌が足りない。
匂いが濃くなる。
人間に見つかる。
地上を求めるものが増える。
群れの声が増える。
グレイという音が、さらに巣へ広がる。
そう分かっているのに、身体は止まらない。
ぬる。
最初の膜が破れた。
濡れた灰色の塊が、黒岩へ落ちる。
一体目と二体目がすぐに反応した。
「グレ」
「グレ」
近づこうとする。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
止まれ。
二体は止まった。
しかし、興味と不安が流れてくる。
生まれた。
また。
群れが増えた。
そんな感覚。
ぬる。
二つ目。
別の位置から。
さらに小さい幼生が、巣の床へ落ちる。
ぬる。
三つ目。
グレイの外皮が震える。
熱い。
気持ち悪い。
痛みは弱い。
だが、内側から勝手に命が剥がれ落ちる感覚が、どうしようもなく不快だった。
ぬる。
四つ目。
グレイは身体を丸めようとして、できなかった。
潰すかもしれない。
出てきた幼生たちは、柔らかく、弱く、濡れている。
まだ動けない。
黒岩の上で小さく震えるだけ。
一体目が、グレイの制止を破るように少し近づいた。
しかし、食べようとはしない。
匂いを嗅ぐ。
二体目も近づく。
新しい幼生を舐めるように触れる。
汚れを取るのか。
匂いを混ぜるのか。
分からない。
グレイは動けずにいた。
一匹。
二匹。
三匹。
四匹。
新たな幼生が生まれた。
これで六体。
グレイを含めれば、七つの命。
巣の中の音が一気に増えた。
小さな呼吸。
濡れた外皮の擦れる音。
弱い鳴き声。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
それらが重なり、白鳴き種の残響のせいで、巣全体に広がっていく。
グレイは、頭が揺れるのを感じた。
多い。
音が多い。
匂いが多い。
空腹が多い。
不安が多い。
生まれたばかりの四体は、まだ意識が薄い。
それでも、空腹だけはある。
小さい。
弱い。
しかし、四つ同時。
その飢えが、細い針のようにグレイの中へ刺さってくる。
一体目と二体目の時とは違う。
数が増えたことで、感覚が重なり、波のようになる。
食わせろ。
温めろ。
隠せ。
守れ。
逃がすな。
そんな言葉ではない。
もっと原始的な、細かい要求の群れ。
グレイは、喉の奥で低く音を出した。
「グ……」
自分を落ち着かせる音。
だが、すぐに一体目が返す。
「グレ」
二体目も。
「グレ」
生まれたばかりの一体が、それに反応して小さく震える。
「グ……」
まだ音にならない。
だが、真似ようとしている。
グレイはぞっとした。
生まれたばかりでも反応する。
グレイという音に。
群れの中で、その音はもう名前以上のものになっている。
安心。
中心。
餌。
危険の合図。
戻る場所。
全部を含んでいる。
新しい幼生たちは、生まれた瞬間からその音に包まれている。
個体になる前に、群れの音を浴びている。
グレイは、黒岩へ牙を押しつけた。
増えた。
増えてしまった。
これは偶然ではない。
空を見たからか。
巣が安定したからか。
餌が足りたからか。
白鳴き種の感覚が広がったからか。
人間を食べた影響か。
分からない。
だが、身体は群れを拡大し始めた。
自分の意思とは別に。
いや、本当に別なのか。
幼生を守り、食わせ、巣を広げた。
それはグレイが選んだ。
その結果、身体が判断したのかもしれない。
群れは維持可能。
増やせる。
なら、増える。
生存本能。
適応。
それが、自分の意思よりも深い場所で動いている。
グレイは、新しい幼生たちを見た。
四体。
小さい。
弱い。
一体ずつなら食べられる。
今なら、簡単に。
増えすぎる前に。
そう考えた。
本当に、考えた。
このままでは危険だ。
餌が増える。
人間に見つかる。
群れが制御できなくなる。
なら、今、減らす。
食べる。
自分の身体から出たものを、自分へ戻す。
そうすれば危険は減る。
理屈は正しい。
グレイは、一匹へ顔を近づけた。
生まれたばかりの幼生。
濡れた外皮。
震える脚。
空腹。
弱い匂い。
牙を立てれば終わる。
その時、一体目が間に入った。
グレイは動きを止めた。
一体目は、グレイと新しい幼生の間に立った。
小さい身体。
まだグレイよりずっと弱い。
それでも立った。
守るように。
二体目も、別の幼生のそばへ寄る。
グレイは、牙を開いたまま固まった。
一体目から流れてくる感情。
守る。
それだけだった。
グレイが教えた。
巣を守る。
二体目を守る。
弱いものの前に立つ。
それを、一体目は覚えた。
そして今、グレイから新しい幼生を守ろうとしている。
グレイ自身から。
その事実が、グレイの中に重く落ちた。
自分は群れの中心だ。
同時に、群れに止められている。
自分が食べようとした時、幼生が止めた。
グレイは一歩後退した。
牙を閉じる。
一体目の緊張が少し緩む。
二体目も、幼生を舐めるように触れる。
新しい四体は、まだ何も分かっていない。
ただ弱く鳴いている。
きゅ。
きゅ。
その音が、巣の中に満ちる。
グレイは、食べなかった。
また。
食べることはできた。
でも、食べなかった。
その選択が、群れをさらに大きくする。
分かっている。
それでも、食べなかった。
《眷属幼体の複数孵化を確認》
《群体規模が拡大しました》
《眷属間保護行動を確認》
《群体中枢に対する行動抑制反応を確認》
《増殖適応が進行しています》
増殖適応。
グレイは、その言葉を聞いた。
増殖。
もう、ただの群れではない。
増えていくもの。
必要なら勝手に数を増やすもの。
それが自分。
グレイは巣の中を見た。
一体目。
二体目。
新しい四体。
合わせて六体の幼生。
全員がグレイの匂いを持ち、グレイの声に反応し、グレイを中心に集まる。
このまま成長すれば。
このまま増えれば。
巣は巣ではなくなる。
巣群。
巣窟。
災害。
その言葉が浮かぶ。
レオンの記憶か。
人間側の言葉か。
魔物が増え、道を塞ぎ、餌を求め、地上へ出る。
それを人間は災害と呼ぶのだろう。
グレイは、自分の巣を見て、初めてそう思った。
これは、守るべき群れだ。
だが同時に、外から見れば危険そのものだ。
人間が見れば、焼く。
討伐する。
捕獲する。
間違いなく。
グレイは、一瞬だけラグドの顔を思い出した。
生きたいなら、人を食うな。
地上へ向かうな。
その言葉の意味が、前より重くなった。
人を食わなくても。
地上へ向かわなくても。
こうして増えるだけで、人間は許さないかもしれない。
なぜなら、増えるものは怖い。
一匹なら避けられる。
六匹なら。
十匹なら。
百匹なら。
人間は、それを放置しない。
グレイは、餌のことを考えた。
今ある保存肉では足りない。
生まれたばかりの四体には柔らかい餌が必要だ。
黒鼠一匹ではすぐ消える。
黒殻狩りの肉は硬い。
水も必要。
巣の奥を広げる必要もある。
匂いを隠す必要もある。
声を漏らさない必要もある。
やることが、一気に増えた。
グレイは疲労を感じた。
だが、新しい幼生たちの空腹が容赦なく流れ込んでくる。
待てない。
すぐに餌が必要だ。
グレイは、一体目と二体目を見た。
二体とも、新しい幼生のそばにいる。
一体目は防衛。
二体目は匂いを嗅ぎ、幼生たちを整理するように動いている。
小さな身体を、巣の奥の安全な場所へ押す。
グレイがやってきたように。
二体が、新しい幼生を守り始めている。
グレイは短く鳴いた。
「グ」
待て。
一体目が顔を上げる。
「グレ」
分かった、に近い感覚。
二体目も不安を流しながら、幼生のそばに残る。
グレイは巣の外へ出た。
餌を取りに行く。
今度は、自分の空腹とは完全に違った。
群れの飢餓が背中を押す。
六つの小さな命。
そのうち四つは、今すぐ餌を必要としている。
グレイは水場へ向かった。
柔らかい魔物。
黒鼠。
蛇型。
腐肉獣の幼体。
何でもいい。
毒のないもの。
幼生が食べられるもの。
早く。
その焦りが、狩りを乱しそうになる。
グレイは自分を押さえた。
焦るな。
音を聞く。
匂いを読む。
水場の近くに黒鼠が二匹。
さらに、腐肉獣の幼体が一匹。
悪くない。
グレイは天井へ移動した。
まず黒鼠。
一匹目。
落ちる。
首。
終わり。
二匹目が逃げる。
追わない。
逃げた方向に腐肉獣がいる。
黒鼠の逃走音で腐肉獣が顔を上げる。
グレイは先回りし、天井から落ちる。
腐肉獣の幼体を仕留める。
二匹分。
足りない。
もっと。
グレイは黒鼠の死体を岩陰へ置き、腐肉獣の肉を咥えた。
持ち帰る途中で、骨喰い虫を一匹見つける。
殺す。
柔らかい中身だけを取る。
持てる量には限界がある。
口も前脚も使う。
それでも足りない。
巣へ戻る。
幼生たちの空腹が近づくほど強くなる。
入口の骨が鳴る。
二体目が入口近くにいる。
待ちきれなかったのか。
グレイの匂いを拾って迎えに来たのか。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
奥へ。
二体目は戻る。
グレイは巣の奥へ肉を運んだ。
一体目と二体目がすぐに手伝う。
肉を裂く。
新しい幼生たちへ押す。
四体が一斉に反応する。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
小さな口。
弱い顎。
肉を吸うように食べる。
グレイはひたすら裂く。
柔らかい部分を分ける。
硬い皮を外す。
毒のありそうな部位を捨てる。
一体目が肉を運ぶ。
二体目が匂いで食べやすい部位を選ぶ。
二体はもう、ただ食べるだけではない。
給餌を手伝っている。
群れが、群れを育てている。
その光景に、グレイは言葉を失った。
新しい幼生たちの空腹が少しずつ薄れていく。
代わりに、満たされた弱い安心が流れ込む。
四つ分。
それに一体目と二体目の満足も重なる。
巣の中が、感情で満ちる。
不快なほど濃い。
だが、静かでもある。
食べた。
生きた。
それだけで、巣全体が少し落ち着く。
グレイは、疲れた身体を黒岩へ沈めた。
餌は足りた。
今は。
でも、次はもっと必要になる。
四体はすぐに成長する。
六体が腹を空かせる。
さらに増えるかもしれない。
その先を考えると、巣の奥が狭く感じた。
グレイは、眠りかけた幼生たちを見た。
一体目。
二体目。
新しい四体。
全員がグレイの匂いをまとっている。
それぞれの小さな呼吸が、巣の中で重なっている。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
きゅ。
そして時々。
「グ……」
生まれたばかりの一体が、まだ意味も知らずに音を漏らす。
グレイ。
その欠片。
もう始まっている。
声も。
匂いも。
空腹も。
群れの中で広がっていく。
グレイは、巣の天井を見上げた。
黒岩の向こうに、空はない。
だが、空の記憶はもう群れの中にある。
地上への興味も。
人間の声も。
死骸を運ぶ習性も。
骨を置く知恵も。
そして増殖する身体も。
これは、ただの生存ではない。
放っておけば、広がる。
グレイは、それを初めてはっきり感じた。
自分たちは、生きたいだけだ。
餌を探し、巣を守り、幼生を食わせる。
それだけ。
だが、それが続けば、外の世界からは災いに見える。
きっと。
グレイは、小さく口を開いた。
「グレイ」
自分を保つ音。
すぐ近くで、一体目が返す。
「グレ」
二体目も。
「グレ」
そして、生まれたばかりの四つの命が、眠りながら不完全に鳴いた。
「グ……」
「グ……」
「グ……」
「グ……」
巣の中に、六つの小さな返事が重なった。
グレイは、その音を聞きながら、静かに目を閉じた。
もう、一人ではない。
それどころではない。
増えている。
そして、増えたものすべてが、グレイを呼んでいた。




