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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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50/61

第50話『増殖』

空の匂いが、巣から消えなかった。


一体目が地上から戻ってきた後、グレイは何度も巣の匂いを整えた。


入口の骨を動かし、黒殻狩りの死骸から流れる匂いを外へ逃がし、水場の黒岩粉を持ち込んで床へ擦りつけた。


地上の匂いを消すためだった。


草。


土。


風。


光を浴びた外皮の熱。


それらは、洞窟の匂いではない。


巣には不要なものだ。


外の匂いは、魔物を呼ぶ。


人間を呼ぶ。


幼生たちを外へ向かわせる。


だから消す必要があった。


だが、消えなかった。


外皮についた匂いは薄れた。


水で洗えば落ちた。


黒岩粉で擦れば隠せた。


それでも、空は残った。


匂いではなく、感覚として。


一体目が見た青。


草の隙間から見上げた広さ。


風に押される不安。


人間の声が近づいてきた恐怖。


それらが、一体目からグレイへ流れ、二体目へも薄く流れた。


そして巣の中に残った。


もう匂いではない。


記憶に近い。


群れの中に生まれた、見たことのあるものとして。


二体目は、空を直接見ていない。


それでも時々、巣の天井を見上げる。


黒岩しかないのに。


そして、小さく鳴く。


「そ……ら」


そのたびに、グレイの腹の奥が冷える。


二体目は見ていない。


なのに、空を呼ぶ。


一体目が見たものを、二体目も知っている。


完全ではない。


ぼやけた夢のように。


だが、知っている。


それが共鳴だった。


グレイは、巣の奥で身体を低くした。


一体目と二体目は、近くで骨を並べている。


以前より手際が良くなった。


一体目は通り道を作る。


二体目は匂いの流れを読む。


二体で、骨の位置を変える。


から。


からり。


音を確認する。


失敗すれば鳴りすぎる。


成功すれば、小さく鳴るだけで済む。


グレイが教えた。


いや、見せた。


そして、二体が自分たちで学んだ。


その光景を見るたび、グレイは力と不安を同時に感じる。


群れは賢くなっている。


巣は強くなっている。


だが、グレイ一体だけならあり得なかった速度で、変化している。


そして、その変化は止まらない。


腹の奥で、また熱が動いた。


グレイは硬直した。


前にもあった。


一体目が生まれた時。


二体目が生まれた時。


外皮の内側が痒く、熱くなり、薄い膜が破れ、濡れた命が出てきた。


それと同じ感覚。


だが、今回は違った。


一つではない。


腹の下だけではない。


節の隙間。


背の奥。


脇腹。


複数の場所で、薄い熱が蠢いている。


グレイは黒岩に爪を立てた。


駄目だ。


そう思った。


これ以上は駄目だ。


二体ですら、餌が増え、危険が増え、巣が変わった。


さらに増えれば。


餌が足りない。


匂いが濃くなる。


人間に見つかる。


地上を求めるものが増える。


群れの声が増える。


グレイという音が、さらに巣へ広がる。


そう分かっているのに、身体は止まらない。


ぬる。


最初の膜が破れた。


濡れた灰色の塊が、黒岩へ落ちる。


一体目と二体目がすぐに反応した。


「グレ」


「グレ」


近づこうとする。


グレイは低く鳴いた。


「グ」


止まれ。


二体は止まった。


しかし、興味と不安が流れてくる。


生まれた。


また。


群れが増えた。


そんな感覚。


ぬる。


二つ目。


別の位置から。


さらに小さい幼生が、巣の床へ落ちる。


ぬる。


三つ目。


グレイの外皮が震える。


熱い。


気持ち悪い。


痛みは弱い。


だが、内側から勝手に命が剥がれ落ちる感覚が、どうしようもなく不快だった。


ぬる。


四つ目。


グレイは身体を丸めようとして、できなかった。


潰すかもしれない。


出てきた幼生たちは、柔らかく、弱く、濡れている。


まだ動けない。


黒岩の上で小さく震えるだけ。


一体目が、グレイの制止を破るように少し近づいた。


しかし、食べようとはしない。


匂いを嗅ぐ。


二体目も近づく。


新しい幼生を舐めるように触れる。


汚れを取るのか。


匂いを混ぜるのか。


分からない。


グレイは動けずにいた。


一匹。


二匹。


三匹。


四匹。


新たな幼生が生まれた。


これで六体。


グレイを含めれば、七つの命。


巣の中の音が一気に増えた。


小さな呼吸。


濡れた外皮の擦れる音。


弱い鳴き声。


きゅ。


きゅ。


きゅ。


きゅ。


それらが重なり、白鳴き種の残響のせいで、巣全体に広がっていく。


グレイは、頭が揺れるのを感じた。


多い。


音が多い。


匂いが多い。


空腹が多い。


不安が多い。


生まれたばかりの四体は、まだ意識が薄い。


それでも、空腹だけはある。


小さい。


弱い。


しかし、四つ同時。


その飢えが、細い針のようにグレイの中へ刺さってくる。


一体目と二体目の時とは違う。


数が増えたことで、感覚が重なり、波のようになる。


食わせろ。


温めろ。


隠せ。


守れ。


逃がすな。


そんな言葉ではない。


もっと原始的な、細かい要求の群れ。


グレイは、喉の奥で低く音を出した。


「グ……」


自分を落ち着かせる音。


だが、すぐに一体目が返す。


「グレ」


二体目も。


「グレ」


生まれたばかりの一体が、それに反応して小さく震える。


「グ……」


まだ音にならない。


だが、真似ようとしている。


グレイはぞっとした。


生まれたばかりでも反応する。


グレイという音に。


群れの中で、その音はもう名前以上のものになっている。


安心。


中心。


餌。


危険の合図。


戻る場所。


全部を含んでいる。


新しい幼生たちは、生まれた瞬間からその音に包まれている。


個体になる前に、群れの音を浴びている。


グレイは、黒岩へ牙を押しつけた。


増えた。


増えてしまった。


これは偶然ではない。


空を見たからか。


巣が安定したからか。


餌が足りたからか。


白鳴き種の感覚が広がったからか。


人間を食べた影響か。


分からない。


だが、身体は群れを拡大し始めた。


自分の意思とは別に。


いや、本当に別なのか。


幼生を守り、食わせ、巣を広げた。


それはグレイが選んだ。


その結果、身体が判断したのかもしれない。


群れは維持可能。


増やせる。


なら、増える。


生存本能。


適応。


それが、自分の意思よりも深い場所で動いている。


グレイは、新しい幼生たちを見た。


四体。


小さい。


弱い。


一体ずつなら食べられる。


今なら、簡単に。


増えすぎる前に。


そう考えた。


本当に、考えた。


このままでは危険だ。


餌が増える。


人間に見つかる。


群れが制御できなくなる。


なら、今、減らす。


食べる。


自分の身体から出たものを、自分へ戻す。


そうすれば危険は減る。


理屈は正しい。


グレイは、一匹へ顔を近づけた。


生まれたばかりの幼生。


濡れた外皮。


震える脚。


空腹。


弱い匂い。


牙を立てれば終わる。


その時、一体目が間に入った。


グレイは動きを止めた。


一体目は、グレイと新しい幼生の間に立った。


小さい身体。


まだグレイよりずっと弱い。


それでも立った。


守るように。


二体目も、別の幼生のそばへ寄る。


グレイは、牙を開いたまま固まった。


一体目から流れてくる感情。


守る。


それだけだった。


グレイが教えた。


巣を守る。


二体目を守る。


弱いものの前に立つ。


それを、一体目は覚えた。


そして今、グレイから新しい幼生を守ろうとしている。


グレイ自身から。


その事実が、グレイの中に重く落ちた。


自分は群れの中心だ。


同時に、群れに止められている。


自分が食べようとした時、幼生が止めた。


グレイは一歩後退した。


牙を閉じる。


一体目の緊張が少し緩む。


二体目も、幼生を舐めるように触れる。


新しい四体は、まだ何も分かっていない。


ただ弱く鳴いている。


きゅ。


きゅ。


その音が、巣の中に満ちる。


グレイは、食べなかった。


また。


食べることはできた。


でも、食べなかった。


その選択が、群れをさらに大きくする。


分かっている。


それでも、食べなかった。


《眷属幼体の複数孵化を確認》


《群体規模が拡大しました》


《眷属間保護行動を確認》


《群体中枢に対する行動抑制反応を確認》


《増殖適応が進行しています》


増殖適応。


グレイは、その言葉を聞いた。


増殖。


もう、ただの群れではない。


増えていくもの。


必要なら勝手に数を増やすもの。


それが自分。


グレイは巣の中を見た。


一体目。


二体目。


新しい四体。


合わせて六体の幼生。


全員がグレイの匂いを持ち、グレイの声に反応し、グレイを中心に集まる。


このまま成長すれば。


このまま増えれば。


巣は巣ではなくなる。


巣群。


巣窟。


災害。


その言葉が浮かぶ。


レオンの記憶か。


人間側の言葉か。


魔物が増え、道を塞ぎ、餌を求め、地上へ出る。


それを人間は災害と呼ぶのだろう。


グレイは、自分の巣を見て、初めてそう思った。


これは、守るべき群れだ。


だが同時に、外から見れば危険そのものだ。


人間が見れば、焼く。


討伐する。


捕獲する。


間違いなく。


グレイは、一瞬だけラグドの顔を思い出した。


生きたいなら、人を食うな。


地上へ向かうな。


その言葉の意味が、前より重くなった。


人を食わなくても。


地上へ向かわなくても。


こうして増えるだけで、人間は許さないかもしれない。


なぜなら、増えるものは怖い。


一匹なら避けられる。


六匹なら。


十匹なら。


百匹なら。


人間は、それを放置しない。


グレイは、餌のことを考えた。


今ある保存肉では足りない。


生まれたばかりの四体には柔らかい餌が必要だ。


黒鼠一匹ではすぐ消える。


黒殻狩りの肉は硬い。


水も必要。


巣の奥を広げる必要もある。


匂いを隠す必要もある。


声を漏らさない必要もある。


やることが、一気に増えた。


グレイは疲労を感じた。


だが、新しい幼生たちの空腹が容赦なく流れ込んでくる。


待てない。


すぐに餌が必要だ。


グレイは、一体目と二体目を見た。


二体とも、新しい幼生のそばにいる。


一体目は防衛。


二体目は匂いを嗅ぎ、幼生たちを整理するように動いている。


小さな身体を、巣の奥の安全な場所へ押す。


グレイがやってきたように。


二体が、新しい幼生を守り始めている。


グレイは短く鳴いた。


「グ」


待て。


一体目が顔を上げる。


「グレ」


分かった、に近い感覚。


二体目も不安を流しながら、幼生のそばに残る。


グレイは巣の外へ出た。


餌を取りに行く。


今度は、自分の空腹とは完全に違った。


群れの飢餓が背中を押す。


六つの小さな命。


そのうち四つは、今すぐ餌を必要としている。


グレイは水場へ向かった。


柔らかい魔物。


黒鼠。


蛇型。


腐肉獣の幼体。


何でもいい。


毒のないもの。


幼生が食べられるもの。


早く。


その焦りが、狩りを乱しそうになる。


グレイは自分を押さえた。


焦るな。


音を聞く。


匂いを読む。


水場の近くに黒鼠が二匹。


さらに、腐肉獣の幼体が一匹。


悪くない。


グレイは天井へ移動した。


まず黒鼠。


一匹目。


落ちる。


首。


終わり。


二匹目が逃げる。


追わない。


逃げた方向に腐肉獣がいる。


黒鼠の逃走音で腐肉獣が顔を上げる。


グレイは先回りし、天井から落ちる。


腐肉獣の幼体を仕留める。


二匹分。


足りない。


もっと。


グレイは黒鼠の死体を岩陰へ置き、腐肉獣の肉を咥えた。


持ち帰る途中で、骨喰い虫を一匹見つける。


殺す。


柔らかい中身だけを取る。


持てる量には限界がある。


口も前脚も使う。


それでも足りない。


巣へ戻る。


幼生たちの空腹が近づくほど強くなる。


入口の骨が鳴る。


二体目が入口近くにいる。


待ちきれなかったのか。


グレイの匂いを拾って迎えに来たのか。


グレイは低く鳴いた。


「グ」


奥へ。


二体目は戻る。


グレイは巣の奥へ肉を運んだ。


一体目と二体目がすぐに手伝う。


肉を裂く。


新しい幼生たちへ押す。


四体が一斉に反応する。


きゅ。


きゅ。


きゅ。


きゅ。


小さな口。


弱い顎。


肉を吸うように食べる。


グレイはひたすら裂く。


柔らかい部分を分ける。


硬い皮を外す。


毒のありそうな部位を捨てる。


一体目が肉を運ぶ。


二体目が匂いで食べやすい部位を選ぶ。


二体はもう、ただ食べるだけではない。


給餌を手伝っている。


群れが、群れを育てている。


その光景に、グレイは言葉を失った。


新しい幼生たちの空腹が少しずつ薄れていく。


代わりに、満たされた弱い安心が流れ込む。


四つ分。


それに一体目と二体目の満足も重なる。


巣の中が、感情で満ちる。


不快なほど濃い。


だが、静かでもある。


食べた。


生きた。


それだけで、巣全体が少し落ち着く。


グレイは、疲れた身体を黒岩へ沈めた。


餌は足りた。


今は。


でも、次はもっと必要になる。


四体はすぐに成長する。


六体が腹を空かせる。


さらに増えるかもしれない。


その先を考えると、巣の奥が狭く感じた。


グレイは、眠りかけた幼生たちを見た。


一体目。


二体目。


新しい四体。


全員がグレイの匂いをまとっている。


それぞれの小さな呼吸が、巣の中で重なっている。


きゅ。


きゅ。


きゅ。


きゅ。


そして時々。


「グ……」


生まれたばかりの一体が、まだ意味も知らずに音を漏らす。


グレイ。


その欠片。


もう始まっている。


声も。


匂いも。


空腹も。


群れの中で広がっていく。


グレイは、巣の天井を見上げた。


黒岩の向こうに、空はない。


だが、空の記憶はもう群れの中にある。


地上への興味も。


人間の声も。


死骸を運ぶ習性も。


骨を置く知恵も。


そして増殖する身体も。


これは、ただの生存ではない。


放っておけば、広がる。


グレイは、それを初めてはっきり感じた。


自分たちは、生きたいだけだ。


餌を探し、巣を守り、幼生を食わせる。


それだけ。


だが、それが続けば、外の世界からは災いに見える。


きっと。


グレイは、小さく口を開いた。


「グレイ」


自分を保つ音。


すぐ近くで、一体目が返す。


「グレ」


二体目も。


「グレ」


そして、生まれたばかりの四つの命が、眠りながら不完全に鳴いた。


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


巣の中に、六つの小さな返事が重なった。


グレイは、その音を聞きながら、静かに目を閉じた。


もう、一人ではない。


それどころではない。


増えている。


そして、増えたものすべてが、グレイを呼んでいた。

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