第49話『共鳴』
空が見えた。
グレイは、巣の奥で目を開けた。
見えるはずがなかった。
ここは下層。
黒岩の奥。
青白い結晶の薄い光と、湿った空気と、骨の鳴る音だけがある場所。
空などない。
風もない。
草もない。
地上の光もない。
それなのに、見えた。
青い。
広い。
洞窟の天井ではない。
どこまでも続く、上。
グレイは一瞬、自分が地上へ出ているのかと思った。
だが、身体は巣の中にある。
黒岩に腹をつけ、入口の骨の音を聞き、幼生たちの呼吸を近くに感じている。
自分は動いていない。
では、これは何だ。
空が揺れる。
木の枝。
葉。
風。
地面の匂い。
人間の匂い。
そして、小さな恐怖。
グレイのものではない。
幼生のもの。
グレイは身体を起こした。
巣の中を確認する。
一体目がいない。
二体目は奥にいる。
丸まっている。
不安そうに震えている。
一体目の匂いが薄い。
外。
巣の外。
遠い。
グレイの全身が硬くなった。
一体目が、外へ出ている。
それも、かなり遠くへ。
水場ではない。
巣の周辺でもない。
もっと上。
地上へ近い通路。
いや、地上そのものか。
グレイは、繋がりを探った。
一体目の感覚が薄く流れてくる。
匂い。
音。
視界。
完全ではない。
夢のようにぼやけている。
それでも分かる。
風がある。
草の匂いがある。
強い光がある。
一体目は、地上を見ている。
なぜ。
どうして。
グレイは入口へ走った。
骨が鳴る。
からり。
二体目が震える。
「グレ」
不安。
置いていかれる不安。
グレイは振り返り、低く鳴いた。
「グ」
奥にいろ。
二体目は縮こまる。
だが、グレイへの不安が薄く流れてくる。
一体目の恐怖。
二体目の不安。
自分の焦り。
三つが混ざる。
頭の奥がざわつく。
グレイは巣を出た。
一体目の匂いを辿る。
はっきりした足跡ではない。
むしろ、匂いは薄い。
一体目は、グレイの真似をしている。
骨を鳴らさない。
水場を避ける。
黒岩の影を使う。
匂いを残しにくい場所を選ぶ。
それがかえって厄介だった。
上手くなっている。
成長している。
だから、追いにくい。
グレイは、感覚共有を辿った。
薄い糸。
一体目の見ている世界。
風。
光。
怖い。
でも見たい。
その感情。
グレイ自身が初めて地上を見た時と、よく似ていた。
怖いのに、目が離せない。
隠れたいのに、もっと知りたい。
それを、一体目も感じている。
グレイの記憶が、群れに漏れているのか。
空への興味まで。
それとも、一体目自身がそう思ったのか。
分からない。
通路を上がる。
黒岩の質が変わる。
湿気が減る。
空気が軽くなる。
人間の痕跡が増える。
古い足跡。
煤。
布の切れ端。
薬草。
そして、封鎖用の金属片。
人間は、この道を監視している。
ラグドが言っていた。
地上へ向かうな。
一体目は、その危険な道を進んだ。
グレイの中に怒りが湧いた。
なぜ勝手に行った。
なぜ巣を離れた。
なぜ危険な場所へ。
だが、その怒りの下に、別の感情がある。
自分が見せた。
自分が空を知ってしまった。
自分の中の地上への興味が、幼生へ流れた。
一体目は、グレイを真似ただけかもしれない。
グレイが上へ行ったから。
空を見たから。
戻ってからも、空の匂いを記憶に残していたから。
それを幼生は拾った。
そして、自分でも見に行った。
模倣。
学習。
共鳴。
グレイはさらに速度を上げた。
風が強くなる。
出口が近い。
その手前で、グレイは止まった。
光。
強い。
まだ慣れない。
だが、一体目の感覚からは、もっと強く見えている。
幼生にとっては、痛いほどの光。
それでも、一体目は外にいる。
出口の影。
草の近く。
完全には出ていない。
だが、洞窟の境界を越えている。
グレイは影の中から外を覗いた。
そこにいた。
一体目。
小さい黒灰色の体。
以前より外皮は硬くなったが、地上の光の中ではあまりにも異物だった。
草の影に身を沈めている。
グレイの動きを真似て、低く、静かに。
だが、下層ほど影に溶けていない。
地上の光は、黒い外皮を浮かび上がらせる。
危険。
一体目は空を見ていた。
上。
青。
雲。
風で揺れる木々。
その感覚が、グレイへ流れ込む。
広い。
怖い。
きれい。
最後の感覚に、グレイは動きを止めた。
きれい。
それは人間の記憶から来た言葉かもしれない。
レオンが夕焼けを見た時の感覚。
ニルが地上を思った時の感覚。
グレイ自身が空を見た時、うまく言葉にできなかったもの。
一体目は、それを感じている。
そして、その感覚がグレイへ返ってくる。
自分が見た空ではない。
幼生が見ている空。
同じ空なのに、違う。
低い草の隙間から見る空。
大きすぎる木。
怖すぎる光。
洞窟の匂いがない不安。
グレイは、自分の空の記憶と、一体目の空の感覚が重なっていくのを感じた。
青が二重になる。
風が二重になる。
自分の恐怖と、幼生の恐怖が混ざる。
自分の好奇心と、幼生の好奇心が重なる。
頭の奥が揺れる。
これが共鳴。
そう理解する前に、グレイは一体目へ低く鳴いた。
「グ」
戻れ。
一体目が振り返る。
「グレ」
声は小さい。
だが、そこに興奮がある。
見た。
空を。
グレイが知っていたものを、自分も見た。
そういう感情。
グレイは強く鳴いた。
「グ」
今すぐ戻れ。
一体目が身を縮める。
だが、その時。
森の方から人間の声がした。
グレイの外皮が一瞬で冷えた。
一体目も固まる。
人間。
近い。
二人。
いや、三人。
地上側の道を歩いている。
探索者ではない。
村人か。
軽い装備。
金属の音は少ない。
会話が柔らかい。
危険度は低い。
しかし、人間だ。
見つかれば終わる。
叫ばれる。
逃げられる。
討伐隊へ伝わる。
あるいは捕まえようとされる。
一体目は草の中で固まっている。
動けない。
恐怖が強すぎる。
グレイは洞窟の影から動けなかった。
外へ出れば、光に晒される。
自分が見つかる。
だが、一体目を置けば、見つかる。
グレイは一瞬で判断した。
音。
一体目へ感情を送る。
低く。
動くな。
息を殺せ。
身体を伏せろ。
その感覚を流す。
一体目は従う。
草の影に沈む。
だが、地上の草は下層の影ほど確実ではない。
人間たちの声が近づく。
「さっき、何か動かなかった?」
若い声。
女。
「獣じゃないか」
男。
「洞窟の近くは危ないって言われてるよ」
三人目。
子供に近い声。
グレイは息を殺す。
一体目の心音に近い振動が、感覚として流れてくる。
どくどく。
幼生にも心臓のようなものがあるのか。
それとも、恐怖の震えか。
分からない。
だが、速い。
人間たちは近い。
草を踏む音。
軽い。
地上の土の音。
下層とは違う。
グレイには慣れない音。
一体目にも。
女が立ち止まる。
「やっぱり何かいる」
グレイは、二体目のことを思い出した。
助けての声。
人間を引き寄せる声。
今回は逆だ。
人間を遠ざける音がいる。
グレイは洞窟の奥で、白鳴き種の音を思い出した。
きぃ。
人間が恐れた音。
グレイは喉の奥を震わせた。
ただし、強くはない。
洞窟の奥から漏れる程度に。
「き……ぃ……」
低く、歪んだ音。
白鳴き種に似せた残響。
洞窟の黒岩に反射し、外へ滲む。
人間たちが止まった。
「今の聞いた?」
「白鳴き種じゃないのか」
「戻ろう。洞窟の近くは駄目だ」
効いた。
人間たちは後退し始めた。
完全に走るわけではない。
だが、近づくのをやめた。
一体目はまだ動かない。
グレイは低く感覚を送る。
今。
戻れ。
一体目が、ゆっくりと草の影から動く。
洞窟へ向かう。
一歩。
二歩。
その時、子供に近い声の人間が振り返った。
「何か黒いのいた」
グレイは動いた。
洞窟の影から、前脚だけを伸ばす。
一体目の首元を咥える。
乱暴に引き込む。
一体目が小さく鳴く。
「グッ」
だが、逃がさない。
洞窟の影へ。
黒岩の奥へ。
光が遠ざかる。
人間の声が遠くでざわつく。
「今の何?」
「見ちゃ駄目だ、戻るぞ」
足音が離れる。
グレイは一体目を咥えたまま、上層の暗い通路へ走った。
地上の匂いから離れる。
人間の声から離れる。
光から離れる。
一体目は抵抗しない。
恐怖と興奮と、少しの痛み。
そして、空を見た感覚。
それがまだ強く流れてくる。
グレイの頭の中に、青が残る。
幼生の見た青。
自分の見た青。
二つが重なり、消えない。
巣へ戻るまで、グレイは止まらなかった。
入口の骨が鳴る。
からり。
二体目が奥から飛び出してくる。
不安。
グレイ。
一体目。
戻った。
その感情が一気に流れてくる。
グレイは一体目を巣の奥へ置いた。
強くではない。
だが、逃がさない位置へ。
一体目は少し震えている。
しかし、恐怖だけではない。
興奮がある。
「そ……」
グレイは固まった。
一体目の口が動く。
「そ……ら……」
空。
グレイが以前、自分で出した音。
地上から戻った後、巣の中で小さく呟いた言葉。
一体目が、それを真似した。
いや、真似だけではない。
一体目は、自分で空を見た。
そして、その音と景色を結びつけた。
「そら」
二体目も、驚いたように一体目を見る。
空を見ていない二体目にも、感覚が薄く流れているのだろう。
青。
広さ。
風。
恐怖。
興奮。
二体目が震えながら鳴く。
「そ……」
グレイは低く鳴いた。
「グ」
やめろ。
しかし、声は完全には止まらない。
一体目は、グレイを見上げた。
「グレ」
その後に、また小さく。
「そら」
グレイの中で、何かが揺れた。
空が、群れの中に入った。
自分だけが知っているものではなくなった。
幼生も見た。
二体目も、共有で少し知った。
空という音が、巣の中に広がった。
グレイは、頭の奥が痛むような感覚を覚えた。
これは危険だ。
地上への興味が群れに広がる。
一体目だけではない。
二体目もいずれ見たがる。
もし増えれば、もっと多くが地上を求める。
洞窟に収まらなくなる。
ラグドの言葉がまた蘇る。
地上へ向かうな。
それはグレイ一体への警告だったはずだ。
だが今は違う。
群れそのものが地上を知り始めている。
グレイは、一体目に近づいた。
怒るべきか。
噛むべきか。
巣から出るなと教えるべきか。
しかし、一体目から流れてくる感情に、グレイは止まった。
見せたかった。
その感情。
グレイへ。
二体目へ。
巣へ。
空を。
そんな幼い感覚。
一体目は、ただ勝手に見に行ったのではない。
グレイが見たものを、自分も見て、群れへ持ち帰った。
死骸を運ぶように。
匂いを運ぶように。
空の感覚を持ち帰った。
グレイは、その理解に気味の悪さを覚えた。
群れは餌だけを運ぶのではない。
骨だけでもない。
感覚も運ぶ。
記憶も運ぶ。
一体が見たものを、他のものへ薄く分ける。
それが、共鳴。
グレイは、巣の奥で身体を低くした。
幼生二体が近づく。
一体目はまだ外の匂いをまとっている。
草。
土。
地上の光。
二体目はそれを嗅ぐ。
そして、小さく鳴く。
「そら」
グレイは目を閉じた。
頭の中に、また空が広がる。
自分のものではない角度から。
草の隙間。
低い位置。
震える幼生の視界。
広すぎる青。
怖くて、美しい。
その感覚が巣の黒岩に満ちていく。
もう、空は外にだけあるものではなかった。
群れの中に、空の残響が生まれていた。
グレイは、低く自分の名を呼んだ。
「グレイ」
一体目が返す。
「グレ」
二体目も。
「グレ」
そして、少し遅れて。
「そら」
その音が、巣の中で反響した。
グレイは理解した。
群れは、見たものを持ち帰る。
群れは、覚えたものを分け合う。
群れは、グレイの知らない場所へ広がろうとする。
それは力だった。
だが、同時に恐ろしい兆しだった。
グレイ一体なら、地上へ行かないと決められる。
だが、群れはどうだ。
一体が行き、見て、戻れば、全員が知る。
全員が知れば、また誰かが行きたがる。
知識は、餌よりも厄介だった。
一度入れば、群れの中で増える。
グレイは、幼生たちを囲うように身体を丸めた。
今日はもう外へ出さない。
そう決める。
だが、決めても分かっていた。
空の匂いは、もう二体の中にある。
自分の中にも。
巣の中にも。
グレイは、黒岩の天井を見上げた。
そこには空などない。
暗い岩があるだけだ。
それでも、今はその向こうに青を感じてしまう。
一体目が持ち帰った空。
群れの中で共鳴する空。
その広さが、巣をさらに狭くしていく。
グレイは、巣の奥で静かに牙を閉じた。
個体なら、見なかったことにできたかもしれない。
だが、群れは忘れない。
一体が見た空は、もう群れの空になっていた。




