第48話『擬態』
最初の声は、巣の奥から聞こえた。
「た……」
グレイは、骨を動かしていた前脚を止めた。
音が小さすぎた。
幼生の鳴き声とも違う。
骨の音でもない。
黒岩を引っ掻く音でもない。
もっと柔らかく、湿っていて、しかし明らかに意味を持とうとしている音。
グレイは振り返った。
巣の奥。
二体の幼生がいた。
一体目は入口側の骨を動かしている。
最近は、通り道を鳴らさないように調整することを覚え始めていた。
二体目は、奥の保存場所近くにいる。
黒鼠の骨を前脚で押しながら、何かを口の奥で転がしていた。
「た……す……」
グレイの外皮が、ぞわりと波打った。
それは、幼生の声ではなかった。
幼生はこれまで、グレイを呼んだ。
「グレ」
「グレイ」
それだけなら、もう聞き慣れ始めている。
気味悪さは残っている。
だが、群れの音として理解しつつあった。
しかし、今の音は違う。
グレイではない。
人間の声に近い。
二体目が、もう一度口を開く。
「たす……け」
巣の中の空気が変わった気がした。
助け。
その言葉。
グレイは意味を知っている。
人間が使う。
弱った時。
危険な時。
誰かを呼ぶ時。
命を繋ぐために出す音。
レオンの記憶にもある。
ニルの血にもあった。
逃げる時。
倒れた時。
仲間へ向ける声。
「助けて」
その言葉を、二体目の幼生が真似していた。
グレイはゆっくり近づいた。
二体目は、グレイを見る。
「グレ」
いつもの声。
安心。
それから、また首を傾けるようにして口を動かす。
「たす……け……」
幼生自身は意味を分かっていないのかもしれない。
ただ音として覚えたのかもしれない。
だが、どこで聞いた。
グレイは考えた。
レオンの記憶。
人間の声。
死にかけた者。
置いていかれた者。
下層で聞いた探索者の声。
そして、グレイ自身が食べた人間の肉。
そこから流れ込んだ言葉。
それらが、群体の奥に薄く滲んでいる。
二体目は、匂いに敏い。
感情にも敏い。
人間の匂いを遠くから拾う。
グレイの中に残る人間の記憶にも、触れているのかもしれない。
そこから音を拾った。
助けて。
それを真似した。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
やめろ。
そういうつもりだった。
二体目は止まった。
一体目も振り返る。
巣の中に不安が広がる。
グレイの感情が強く流れたからだ。
二体目は、身体を縮めた。
悪いことをしたのか分からないまま、不安だけを感じている。
グレイは、しばらく動けなかった。
叱った。
自分以外を。
言葉を止めようとした。
なぜ。
危険だから。
人間の声は、人間を呼ぶ。
下層では、声は罠にもなる。
助けてという声が聞こえれば、人間は近づくかもしれない。
ニルを助けた時のように。
レオンの仲間が戻ろうとした時のように。
人間は、弱った仲間を放っておけない。
その習性を、グレイは見てきた。
もし幼生がその声を出せば。
人間が来る。
巣へ。
それは危険だ。
だが同時に、グレイの中に別の考えも浮かんだ。
使える。
その声で、人間を誘導できる。
血ではなく、音で。
助けを求める声。
人間の心を動かす罠。
グレイは、その考えを浮かべてしまった自分に気づき、牙を強く噛んだ。
駄目だ。
人間に近づくな。
人間を呼ぶな。
人を食うな。
ラグドの声が、頭の奥で響く。
生きたいなら、人を食うな。
だが、群れは学ぶ。
声を真似る。
匂いを使う。
骨を置く。
死骸を運ぶ。
誘導を覚える。
グレイが止めても、学習そのものは止まらない。
二体目は、まだ不安そうにグレイを見ている。
グレイは少しだけ近づき、低く鳴いた。
「グレイ」
落ち着け。
自分にも、幼生にも。
一体目が返す。
「グレ」
二体目も小さく。
「グレ」
助けて、とは言わない。
今は。
グレイは巣の入口へ向かった。
外の匂いを読む。
人間はいない。
近くない。
遠くで三つほど心音が聞こえるが、巣からはかなり離れている。
安全。
だが、もう安全とは思えなかった。
声が生まれた。
巣の中で。
人間の声を真似る幼生がいる。
その事実が、巣の構造よりも、骨の配置よりも、ずっと不気味だった。
翌日。
あるいは、それに近い時間が過ぎた頃。
二体目はまた声を出した。
今度は、グレイが外の通路を確認している時だった。
「たす……け……」
グレイは、即座に振り返った。
二体目は巣の奥ではなく、入口近くにいた。
骨の影に隠れるように。
音は小さかった。
だが、白鳴き種の感覚を持つグレイにははっきり聞こえる。
外へ漏れるほどではない。
しかし、もし人間が近くにいれば聞こえるかもしれない。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
やめろ。
二体目は止まる。
だが、その目のような点は入口の外へ向いていた。
外から、かすかに人間の匂いが来ていた。
かなり遠い。
グレイには分かる。
二体目も、それを拾っている。
人間の匂い。
そして、その匂いに反応して、人間の声を出した。
助けて。
意味を理解しているのか。
匂いと声が結びついているのか。
人間には、人間の音。
そう学習したのか。
グレイは、二体目を奥へ押し戻した。
二体目は抵抗しない。
しかし、不思議そうな感情が流れてくる。
なぜ駄目なのか。
使えるのに。
そんな感覚。
グレイはぞっとした。
幼生は本当に意味を理解し始めているのかもしれない。
助けてという声が、人間を引き寄せる音だと。
一体目は、そんな二体目を見ていた。
一体目は声の模倣より、動きの模倣が強い。
警戒、配置、防衛。
それを覚える。
二体目は匂い、音、反応。
人間の声。
それを覚える。
役割が、分かれ始めている。
グレイは奥の黒岩へ身体を押しつけた。
冷たい。
自分の感覚を確認する。
これは危険だ。
群れは賢くなる。
だが、何をしてはいけないかまでは知らない。
グレイが知らなければ、群れも知らない。
グレイが迷えば、群れも迷う。
そして、群れはその迷いすら学ぶ。
しばらくして、外で人間の足音がした。
遠く。
三人。
軽い。
討伐隊の本隊ではない。
探索者か、調査班か。
グレイは入口の骨の奥へ身を伏せた。
幼生たちも奥へ下げる。
一体目は素直に下がる。
二体目も下がる。
しかし、二体目の意識が外へ向いているのが分かる。
人間の匂い。
心音。
声。
近づいてくる。
「こっち、変な匂いがする」
若い女の声。
グレイは外皮を低くした。
人間たちは近い。
巣の本当の入口ではない。
グレイが匂いを逸らすために作った横道の方だ。
以前から、巣とは別方向へ魔物の体液や死骸を置いている。
人間をそちらへ流すため。
今回も、彼らはその匂いに引かれている。
「触るなよ。前も誘導みたいなのがあったらしい」
男の声。
もう一人は無言。
心音が速い。
怖がっている。
グレイはその音を聞く。
二体目も聞いている。
グレイには分かる。
二体目の中で、人間の心音と助けてという音が繋がっていく。
嫌な予感。
グレイは二体目へ低く鳴いた。
「グ」
駄目だ。
しかし、その瞬間。
外の人間の一人が、通路で足を滑らせた。
小さな悲鳴。
「うわっ」
骨が鳴る。
からっ。
人間の動揺。
心音が跳ねる。
二体目が反応した。
恐怖の匂い。
人間の声。
危険。
そして。
「たす……け……」
二体目が、声を出した。
今度は、はっきり外へ漏れた。
グレイの身体が固まった。
外の人間たちも止まった。
沈黙。
それから、女の声。
「今、声……」
男が低く言う。
「誰かいるのか?」
もう一人の心音が速くなる。
どくどくどく。
「助けてって聞こえた」
グレイは二体目へ向かった。
すぐに口を塞ぐように前脚で押さえた。
二体目は驚く。
不安。
痛くはない。
だが、止められた。
「ん……」
グレイは低く、強く鳴いた。
「グ」
黙れ。
二体目は震えた。
外では人間たちが近づいてくる。
「おい、本当に誰かいるのか?」
「でも、こんなところに?」
「探索者が迷ったのかも」
違う。
戻れ。
近づくな。
グレイはそう思った。
だが、人間は近づく。
助けてという声が聞こえたから。
弱いものを置けないから。
人間の性質。
それを利用する声。
それが、巣から出た。
グレイは奥の幼生たちをさらに裂け目側へ押し込んだ。
一体目は状況を理解したのか、二体目を押して奥へ行く。
二体目は不安で震えている。
自分が何をしたか、完全には理解していない。
だが、危険を呼んだことは感じている。
グレイは入口へ戻った。
人間たちは、巣の横道に近づいている。
本当の入口ではない。
だが、このまま探索すれば見つかる。
三人。
倒せるか。
不意をつけば可能。
だが、人間を殺せば、血が流れる。
死体が出る。
また食べたくなる。
さらに、人間側の討伐が強まる。
殺すのは最悪。
追い払う。
誘導する。
怖がらせて戻す。
それが必要だ。
グレイは黒殻狩りの死骸の陰から、骨を一つ動かした。
からり。
外の人間が止まる。
「何かいる」
男の声。
警戒。
グレイは別の場所で骨を鳴らす。
からっ。
通路の奥。
巣とは逆方向。
人間たちの注意がそちらへ向く。
「そっちか?」
グレイは、天井裏を移動した。
声を出すな。
幼生たちにはそう感情を送る。
一体目は理解している。
二体目も、今は黙っている。
グレイは外の通路へ回り込んだ。
人間たちの後方。
見えない場所。
そこから、小さな石を落とす。
かつん。
三人が振り返る。
その瞬間、グレイは黒岩の壁に外皮を擦り、強い魔物の匂いをわざと流した。
黒殻狩りの体液も混ぜる。
人間たちの表情が変わる。
「まずい、何かいる」
「戻ろう」
女はすぐに言った。
だが、最初に声を聞いた男が迷う。
「でも、助けてって」
グレイは牙を噛んだ。
人間は、まだ迷う。
助けてという言葉が引っかかっている。
なら、もっと危険を示す。
グレイは天井から、白鳴き種の外殻を落とした。
白い骨片。
それは黒岩に当たって、硬い音を立てる。
その音は、白鳴き種の鳴き声に少し似ていた。
きぃ、と響く。
三人の心音が跳ねる。
一人が叫ぶ。
「白鳴き種か!?」
効果があった。
白鳴き種は、人間にとっても危険な魔物らしい。
三人は後退を始めた。
だが、その時だった。
二体目の幼生が、奥で小さく鳴いた。
今度は、声ではない。
不安。
「グレ……」
その音は外へほとんど漏れない。
だが、人間の一人は聞いた。
耳が良いのか。
距離が近すぎたのか。
「待て、別の声も」
グレイは即座に動いた。
もう迷わない。
天井から人間たちの前へ、姿を完全には見せずに落ちる。
影だけ。
黒い外皮の一部。
長い脚。
牙の影。
灯りに一瞬映る。
それだけで十分だった。
女が悲鳴を上げる。
男が剣を抜く。
もう一人は完全に硬直した。
グレイは攻撃しない。
ただ、低く声を出した。
「グ……」
人間の言葉ではない。
しかし、喉の奥から白鳴き種の残響を混ぜた音。
低く、不気味な警告。
黒岩が震える。
三人は完全に後退した。
「逃げろ!」
今度は迷わなかった。
助けての声より、目の前の黒い何かの恐怖が勝った。
三人は走った。
足音が遠ざかる。
心音も遠ざかる。
グレイは追わなかった。
血は流していない。
殺していない。
巣は守った。
だが、安全ではない。
人間は声を聞いた。
助けてという声を。
そして、黒い影を見た。
報告される。
グレイラーヴァが人間の声を使ったと。
そう思われるかもしれない。
二体目が声を出したことまでは分からないだろう。
だが、結果は同じだ。
人間側の警戒は上がる。
グレイは巣へ戻った。
奥で幼生たちが震えている。
一体目は二体目の前に立っていた。
守るように。
二体目は縮こまり、不安を流している。
自分が危険を呼んだ。
それを理解しているのかもしれない。
グレイは近づいた。
二体目が小さく鳴く。
「グレ……」
今度は、助けてではない。
グレイを呼ぶ音。
不安。
謝罪に似たもの。
グレイは動けなかった。
叱るべきか。
噛むべきか。
もう二度と声を出すなと教えるべきか。
だが、二体目は何も知らない。
声を学んだだけ。
匂いと音を結びつけただけ。
それを危険にしたのは、人間の性質だ。
そして、その性質を知っているのはグレイだ。
グレイが、人間を見てきたから。
人間を食べたから。
その記憶が群れに滲んだから。
二体目だけのせいではない。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
静かに。
強くはない。
二体目の不安が少しだけ薄れる。
一体目も力を抜く。
グレイは、二体を奥へ押した。
これから、声を使わせないようにしなければならない。
少なくとも、人間の近くでは。
だが、完全に止められるかは分からない。
声はもう生まれてしまった。
群れは、人間を呼ぶ音を覚えた。
それは牙より危険かもしれない。
血よりも。
罠よりも。
グレイは巣の入口へ戻った。
人間たちの匂いは遠ざかっている。
だが、足跡は残る。
恐怖の匂いも。
助けてという声への反応も。
グレイは骨を動かし、入口の配置を変えた。
もうこの場所は少し知られた。
巣をさらに奥へ広げる必要がある。
逃げ道も増やす。
幼生たちの声が外へ漏れない場所も作る。
声を隠す巣。
そんなものを作る必要が出てきた。
グレイは、暗い黒岩を見つめた。
群れは学ぶ。
声を覚える。
人間を真似る。
そして、人間を引き寄せる。
それは強さだった。
同時に、破滅の入口でもあった。
巣の奥で、二体目が小さく寝言のように呟く。
「た……」
グレイはすぐに振り返った。
二体目は眠りかけている。
続きは出なかった。
ただ、巣の黒岩に小さな残響だけが残る。
助けて。
その言葉の欠片。
グレイは、牙を閉じた。
その声は、もう外へ出してはいけない。
けれど、いずれ誰かが聞くだろう。
そういう予感が、巣の奥に冷たく沈んでいた。




