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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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第59話『黒雨』

地下水脈の空気は、冷たかった。


巣の湿りとは違う。


黒岩の表面を伝う水。


奥から流れてくる冷気。


鉱毒を含んだ水の苦い匂い。


濡れた骨。


古い腐肉。


光の少ない空洞。


そこは逃げ場だった。


けれど、安全な場所ではなかった。


煙は、完全には届かない。


それだけが救いだった。


人間が流し込んだ白い煙は、上の通路を這い、巣を汚し、骨の匂いを塗り潰した。


だが、地下水脈の空気は重く湿っている。


煙は薄まり、壁に吸われ、水へ落ちる。


それでも、消えたわけではない。


水面の上には薄い白い膜のような煙が残り、幼生たちの呼吸を乱していた。


きゅ。


きゅ。


新しい幼生の一体が苦しそうに鳴く。


グレイは、その音を聞きながら、地下水脈の入口側へ身体を伏せていた。


一体目は隣にいる。


黒灰色の外皮を低くし、牙を小さく鳴らしている。


怒っている。


怯えている。


戦いたがっている。


その全部が混ざっている。


二体目は奥で幼生たちをまとめている。


水の近くは危険だ。


流れがある。


足を滑らせれば、弱い幼生は流される。


だから二体目は、幼生たちを黒岩の窪みに押し込み、身体を寄せている。


匂いが散らないように。


煙に乱されないように。


グレイはそれを感じていた。


そして、前方も感じていた。


腐肉獣。


多い。


煙から逃げてきたものたちだ。


人間が火を使い、煙を流し、上の通路を押した。


その結果、下層の魔物たちは煙の薄い方へ流れた。


つまり、地下水脈へ。


グレイたちが逃げ込んだ場所へ。


ぐちゃ。


ずる。


濡れた肉を引きずるような音が、闇の奥から近づく。


一体ではない。


三。


五。


もっと。


腐肉獣は群れとして動くわけではない。


だが、同じ方向へ押されれば、同じ場所へ集まる。


それは群れに似た災害になる。


飢えた肉の塊。


腐臭。


濁った唾液。


噛み砕く顎。


グレイは、その匂いを嗅ぎながら、低く唸った。


今ここで戦えば、血が流れる。


腐肉獣の血は強い。


他の魔物を呼ぶ。


だが、逃げ道は少ない。


後ろには幼生たち。


上には煙。


横には水。


戦うしかない。


一体目が前へ出ようとする。


グレイは低く鳴いた。


「グ」


待て。


一体目は止まる。


だが、完全には従わない。


脚が前へ出たままだ。


怒りが強い。


煙を流した人間への怒り。


そのせいで押し寄せる腐肉獣への怒り。


群れを守らなければという焦り。


グレイは、その感情を受け取りながら、自分の中にも同じ熱があることを認めた。


人間が押した。


だから、これが来る。


腐肉獣が悪いのか。


飢えて逃げてきただけだ。


自分たちと同じだ。


だが、襲ってくるなら殺す。


群れを守るために。


グレイは天井へ移動した。


地下水脈の天井は低く、黒岩が濡れている。


爪が滑る。


だが、使えないわけではない。


一体目は地面側。


グレイは上。


二体目は奥。


自然に位置が決まる。


腐肉獣の先頭が現れた。


目は濁り、腹が膨れ、皮膚の一部が裂けている。


煙に追われ、焦げたような匂いもついていた。


喉を鳴らしながら、こちらへ顔を向ける。


群れの匂い。


幼生の匂い。


肉の匂い。


腐肉獣は迷わなかった。


突っ込んでくる。


一体目が飛び出した。


速い。


だが、正面からは行かない。


グレイの動きを真似ている。


横へ回り、脚へ噛みつく。


腐肉獣が体勢を崩す。


その瞬間、グレイが天井から落ちた。


首。


柔らかい部分。


噛む。


裂く。


腐肉獣が暴れる。


水が跳ねる。


地下水脈に黒い水しぶきが飛ぶ。


血が混ざる。


それは水に落ち、すぐに広がった。


黒く濁る。


グレイは、嫌な予感を覚えた。


血が水に乗る。


流れる。


匂いが広がる。


まずい。


だが、もう止められない。


腐肉獣の一体目が倒れた。


二体目がすぐ来る。


三体目も。


グレイは死体を水側へ落とさないように押した。


血が水へ流れるのを少しでも減らすため。


一体目は二体目の脚を狙う。


しかし、腐肉獣の体重に押されて弾かれた。


黒岩へぶつかる。


一体目の痛みが、グレイへ薄く走る。


グレイの中で怒りが強くなる。


グレイは二体目へ飛びついた。


牙を喉へ。


前脚で頭を押さえる。


黒岩へ叩きつける。


濡れた音。


ごき。


骨が折れる。


三体目が背後から来る。


一体目が、今度はその目元へ飛びついた。


小さい身体で顔へ張りつく。


腐肉獣が暴れ、壁へ叩きつけようとする。


グレイは三体目へ向かった。


だが、その前に地下水脈の奥から、さらに音が増えた。


ずる。


ぐちゃ。


多い。


多すぎる。


煙で追われた腐肉獣が、さらに流れてくる。


グレイは戦いながら判断した。


ここで全部を殺すのは無理だ。


血が増えれば、水が汚れる。


匂いが広がる。


さらに呼ぶ。


なら、誘導する。


奥ではない。


群れから遠い方へ。


水脈の下流。


そこへ流す。


グレイは、腐肉獣の死体の一部を噛みちぎった。


強い匂い。


それを咥え、水脈の横道へ走る。


一体目へ感覚を送る。


戻れ。


奥を守れ。


一体目は一瞬迷った。


戦いたい。


だが、グレイの意図を感じ取ったのか、奥へ戻った。


二体目の前に立つ。


幼生たちを守る位置へ。


グレイは肉片を咥えて、別方向へ走った。


腐肉獣の数体が反応する。


血。


肉。


動く餌。


追ってくる。


グレイはわざと音を出した。


骨を蹴る。


水を跳ねる。


黒岩を擦る。


腐肉獣を引きつける。


地下水脈の横道は狭い。


グレイなら通れる。


腐肉獣には少し狭い。


だが、飢えた個体は無理に入ってくる。


身体を擦り、皮膚を破り、黒岩に血を残す。


それがさらに匂いになる。


後続が追う。


グレイは、下流側へ向かった。


そこには古い縦穴がある。


以前、近づかなかった場所。


水が落ちている。


深い。


落ちれば、簡単には戻れない。


グレイはその縦穴を思い出していた。


使える。


腐肉獣を落とす。


グレイは肉片を縦穴の手前へ投げた。


腐肉獣が突っ込む。


一体目。


足を滑らせる。


落ちる。


ぐちゃり、という音は遠くへ消えた。


二体目が止まる。


だが、後ろから来た三体目に押される。


二体目も落ちる。


水音。


腐肉の匂い。


縦穴の底で何かが暴れている。


グレイは天井へ張りついた。


腐肉獣たちは、次々にその場所へ押し寄せる。


全部は落ちない。


学ぶほどの知性はないが、痛みと恐怖はある。


数体は止まった。


唸りながら、周囲を嗅ぐ。


グレイは、別方向で白鳴き種に似た音を出した。


きぃ。


腐肉獣がびくりと反応する。


その隙に、骨を落とす。


からっ。


音に釣られて一体が動き、足を滑らせる。


落ちる。


使える。


音。


匂い。


地形。


全部。


グレイは、腐肉獣を一体ずつ縦穴へ誘導した。


完全には片づけられない。


だが、流れは変えられる。


地下水脈へ押し寄せた腐肉獣の一部を、別の深みに落とす。


その間にも、煙は薄く流れてくる。


上の通路から押される空気。


人間の声。


遠い。


「水脈側に魔物が流れてる!」


「だから言っただろ!」


ラグドの怒声。


「煙を止めろ! これ以上押すな!」


「でも対象が出てくる前に」


「出てくるのは対象だけじゃねぇ!」


その声。


グレイは、縦穴の上で止まった。


ラグドは理解している。


人間が押せば、魔物全体が動く。


だが、止められていない。


人間側も群れなのだろうか。


一人が理解しても、全体は止まらない。


ラグドの意思だけでは、人間は動かない。


グレイと似ているのか。


グレイも、群れの全てを止められない。


飢えた幼生が腐った死骸を食べたように。


一体目が地上を見に行ったように。


二体目が助けての声を出したように。


群れは、中心だけでは動かない。


人間も同じなのかもしれない。


その考えは一瞬だった。


次の瞬間、縦穴の奥から水音が大きくなった。


落ちた腐肉獣たちの血が、水へ混ざっている。


黒い。


水が黒く濁って流れている。


地下水脈の下流へ。


そして、その一部は別の通路へ滲み出していく。


血。


腐臭。


煙の煤。


鉱毒。


それらが混ざった水。


黒い雨のように、洞窟の下へ落ちていく。


ぽた。


ぽた。


ぽた。


黒い水滴が、天井から落ちる。


グレイの外皮に当たる。


冷たい。


苦い。


血の匂い。


腐肉の匂い。


煙の匂い。


人間が押した結果。


魔物が溢れた結果。


グレイが誘導した結果。


全てが混ざり、黒い雨になって洞窟へ降っている。


グレイは、しばらくその雨を見ていた。


自分がやった。


腐肉獣を縦穴へ落とした。


群れを守るため。


でも、その血が水に混ざった。


別の場所へ流れる。


それがまた、何かを呼ぶかもしれない。


下層全体を汚すかもしれない。


人間に被害を出すかもしれない。


グレイは、それを完全には理解していない。


だが、何かが広がっている感覚はあった。


一つの行動が、別の場所へ影響する。


腐肉獣を倒すだけでは終わらない。


血は流れる。


匂いは広がる。


水は運ぶ。


世界は繋がっている。


群れが増えたことで、グレイはそれを感じるようになった。


そして今、初めて思った。


自分たちの行動もまた、世界を押している。


人間が押す。


グレイたちが押し返す。


その間で、下層が歪む。


グレイは縦穴を離れ、群れのいる空洞へ戻った。


一体目が入口側で待っている。


傷が増えている。


だが、生きている。


二体目は新しい幼生たちを押さえている。


煙は少し薄まった。


腐肉獣の流れも変わった。


だが、空洞の空気は血と煤で汚れている。


幼生たちは震えていた。


新しい幼生の一体が、黒い水滴を舐めようとする。


二体目が即座に止める。


危険。


血と毒と煙の水。


グレイは近づき、低く鳴いた。


「グ」


飲むな。


幼生は身体を縮める。


空腹ではなく、好奇心だった。


何でも学ぶ。


何でも口にする。


危険だ。


グレイは黒い水滴が落ちる場所へ、腐肉獣の皮を敷いた。


水が直接岩へ染みないように。


二体目がそれを見て、別の場所にも皮を運ぶ。


一体目も骨を動かして、水滴の落ちる場所を避ける道を作る。


群れはすぐに対応を始める。


黒い雨に対して。


煙に対して。


腐肉獣に対して。


環境が変われば、群れも変わる。


グレイは、その速度を見ながら、また少し恐ろしくなった。


強い。


けれど、止まらない。


外から見れば、これはどう見えるのか。


煙を流した人間。


腐肉獣の群れ。


地下水脈へ流れた黒い血。


その先で何が起きるのか。


グレイには分からない。


だが、人間にはきっと見える。


被害として。


災害として。


遠くで、人間の悲鳴が聞こえた。


短い。


別の通路。


黒い水が流れた先か。


腐肉獣がそちらへ溢れたのか。


グレイは動きを止めた。


一体目も反応する。


二体目も。


人間の悲鳴。


グレイの中に、以前ならあったはずの反応が薄かった。


レオンの記憶が揺れる。


助けろ。


逃がせ。


帰れ。


そんな声が奥でかすかに動く。


だが、それより強いのは、群れの安全だった。


人間の悲鳴より、幼生の呼吸。


人間の恐怖より、一体目の傷。


人間の血より、黒い水滴の危険。


優先順位が変わっている。


グレイは、そのことに気づいた。


人間を理解したい気持ちは、まだ残っている。


だが、群れを守る気持ちの方が大きい。


グレイはもう、一匹の魔物ではない。


人間の記憶を抱えた何かでもない。


群れの中心だ。


群れが生きるなら、外の悲鳴は遠い。


その事実が、ほんの少しだけ冷たかった。


地下水脈の奥で、また黒い水が落ちる。


ぽた。


ぽた。


ぽた。


それは雨のようだった。


空のない地下に降る雨。


煙と血と腐肉の雨。


人間が火を使い、魔物が押し出され、グレイが誘導した結果、降り始めた雨。


黒雨。


グレイは、濡れた外皮を震わせた。


この雨は、やがてどこへ流れるのだろう。


水は道を知っている。


グレイよりも。


人間よりも。


洞窟の奥を通り、低い場所へ流れ、どこかの出口へ滲み、別の命へ届く。


血の匂いを運ぶ。


腐肉獣を呼ぶ。


骨喰い虫を呼ぶ。


人間にも届く。


そうなれば、人間はまた動くだろう。


封鎖。


討伐。


火。


もっと強く。


それがまた、世界を押す。


グレイは、黒雨の下で静かに理解した。


もう、巣の中だけでは終わらない。


群れを守るためにしたことが、外へ流れていく。


外へ流れたものが、人間を動かす。


人間が動けば、また群れが変わる。


全部が繋がっている。


そして、その繋がりの中で、自分たちはどんどん大きなものに見えていく。


災害。


人間がそう呼ぶ理由が、少しだけ分かった気がした。


でも。


グレイは、奥で震える幼生たちを見た。


煙に怯え、黒雨を避け、腹を空かせ、それでも生きようとしている小さな群れ。


彼らは災害になろうとしているわけではない。


ただ、生きたいだけだ。


それだけなのに。


遠くで、また人間の悲鳴がした。


今度は複数。


腐肉獣の群れが、黒雨の流れた先で人間とぶつかったのだろう。


グレイは動かなかった。


動けなかった。


助ける理由がなかった。


助けに行けば、群れが危険になる。


だから、行かない。


その選択は、冷たかった。


だが、もう自然でもあった。


グレイは低く鳴いた。


「グ」


群れへ向けた音。


落ち着け。


ここにいろ。


生きる。


一体目が返す。


「グレ」


二体目も。


「グレ」


幼生たちも震えながら鳴く。


「グ……」


「グ……」


「グ……」


「グ……」


黒雨の音と、群れの声が重なった。


遠くで人間が叫んでいる。


近くで幼生が呼んでいる。


グレイは、近くの声を選んだ。


その選択が、世界から見れば何を意味するのか。


まだ分からない。


ただ、黒い雨は降り続けていた。


下層の奥へ。


人間の方へ。


そして、グレイたちの未来へ。

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