第43話『死骸運び』
最初に異変に気づいたのは、匂いだった。
巣の奥に、あるはずのない腐臭がある。
グレイは身体を起こした。
眠っていたわけではない。
巣の中で静かに感覚を薄く広げていた。
入口の骨。
水場へ続く道。
幼生たちの呼吸。
外の小型魔物の動き。
遠くの人間の心音。
それらを薄く拾いながら、身体を休めていた。
その中に、ふいに混ざった。
腐肉の匂い。
新しくはない。
だが、古すぎもしない。
小型魔物の死骸。
骨喰い虫に食われかけた肉に近い。
巣の中にそんなものを置いた覚えはなかった。
グレイは巣の奥を見た。
幼生が二体、そこにいた。
一体目と二体目。
どちらも、以前より少し大きくなっている。
まだ狩りはできない。
だが、巣の中なら自由に歩ける。
骨を鳴らし、匂いを嗅ぎ、グレイの動きを真似る。
最近は、肉を食べる時も少しずつ自分で噛めるようになってきた。
その二体が、何かを前脚で押していた。
小さな死骸。
黒鼠の半分ほどの大きさ。
たぶん、骨喰い虫に食われかけた虫型魔物。
どこかから拾ってきたのだ。
巣の外へ出たのか。
グレイは、一瞬で身体を硬くした。
入口の骨は鳴ったか。
鳴った。
そういえば、少し前に軽く鳴った。
小型魔物だと思って、放置した。
それが幼生だったのか。
巣の外へ出た。
勝手に。
グレイは、二体へ近づいた。
幼生たちはグレイに気づくと、同時に鳴いた。
「グレ」
「グレ」
声に、妙な感情が混ざっていた。
不安ではない。
空腹でもない。
得意げ。
そんなものに近い。
グレイには、その感情が分かった。
見つけた。
持ってきた。
巣へ。
そういう感覚。
グレイは、死骸を見た。
古い肉。
食べられなくはない。
だが、巣の中へ持ち込むべきものではない。
腐臭が残る。
骨喰い虫を呼ぶ。
病気のようなものがあるかもしれない。
毒も分からない。
グレイは死骸を咥え、巣の外へ運んだ。
幼生たちが慌ててついてくる。
「グレ」
「グレ」
不満。
捨てるな。
そういう感情が薄く流れてくる。
グレイは外へ出ると、死骸を巣から離れた裂け目へ放った。
これを食べるなら、外で食べる。
巣へ持ち込むな。
そういうつもりで、低く音を出した。
「グ」
幼生たちは止まった。
だが、完全には納得していない。
一体目が死骸の方向を見て、またグレイを見る。
二体目は、巣の入口の骨を前脚で触る。
から。
音が鳴る。
その音に、グレイは少し苛立った。
これは遊びではない。
巣の警戒網だ。
だが、幼生たちにとっては違うのかもしれない。
骨。
音。
匂い。
死骸。
全部が、学習の対象になっている。
グレイがやっていることを、幼生たちは見ている。
そして真似る。
骨を置く。
餌を運ぶ。
死体を隠す。
巣を整える。
グレイがそうしてきたから。
幼生たちは、それを巣の行動として覚え始めている。
グレイは、巣の入口に戻った。
二体も戻る。
その時、入口の外側に、小さな黒岩喰いの殻が置かれていることに気づいた。
自分が置いたものではない。
二体のどちらかが持ってきたのだ。
巣の入口近く。
骨と殻の列に混ざるように。
グレイはそれを見て、しばらく動かなかった。
配置が、悪くない。
踏めば鳴る。
軽い音だが、入口の隙間を少し狭めてもいる。
幼生が置いた。
偶然か。
それとも、真似たのか。
グレイは一体目を見た。
一体目は、グレイの視線に反応して近づく。
「グレ」
そして、前脚でその殻を軽く押した。
から。
音が鳴る。
グレイの中に、奇妙な感覚が広がった。
教えていない。
いや、見せてはいる。
骨を置く。
殻を並べる。
鳴る位置を変える。
それを幼生たちは見ていた。
声を真似たように、行動も真似ている。
そして、完全ではないが、意味に近づいている。
これは巣を守るもの。
そう理解し始めているのかもしれない。
《眷属による巣形成行動を確認》
《模倣学習が進行しています》
《群体内行動継承が発現しかけています》
行動継承。
グレイは、その言葉を聞いて少しだけ冷えた。
自分がしたことが、幼生へ移る。
声だけではない。
匂いの読み方。
骨の置き方。
死骸の扱い。
餌を運ぶこと。
巣を整えること。
全部、見られている。
そして、真似されている。
自分の行動が、群れの行動になる。
グレイは、幼生たちを奥へ戻した。
しかし、その日のうちにまた異変が起きた。
水場へ行って戻った時、巣の入口近くに小さな死骸が二つ置かれていた。
黒鼠の足。
骨喰い虫の半分。
どちらも、幼生たちが運んだものだ。
一体目は、黒鼠の足を前脚で押している。
二体目は、骨喰い虫の死骸を噛もうとしている。
食べるために持ってきたのか。
巣へ溜めるためか。
分からない。
グレイは死骸を調べた。
黒鼠の足は新しい。
食べられる。
骨喰い虫は古い。
捨てるべき。
グレイは骨喰い虫を咥え、外へ捨てた。
黒鼠の足は残した。
幼生たちに見える位置で、食べられるものと食べられないものを分ける。
グレイがそうすると、幼生たちはじっと見ていた。
次に、二体目が黒鼠の足を嗅ぐ。
一体目が骨喰い虫を捨てた方向を嗅ぐ。
二体とも、何かを覚えようとしている。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
意味が伝わるか分からない。
だが、幼生たちは静かになった。
食べられるもの。
捨てるもの。
巣に入れていいもの。
駄目なもの。
そんな区別を、これから教える必要があるのかもしれない。
教える。
また、その言葉。
自分が教える側になっている。
グレイは、その事実に慣れなかった。
それでも、やらなければ巣が危険になる。
幼生たちは何でも持ち込む。
腐った死骸も。
毒のある殻も。
匂いの強い肉も。
それを放置すれば、巣が壊れる。
だから、教える。
巣を守るために。
幼生を守るために。
その日の後半、グレイは外へ出た。
幼生たちには奥にいるよう短く鳴いた。
「グ」
だが、完全には従わない。
二体は少しずつ入口へ近づいてくる。
外へ興味を持っている。
危険だ。
しかし、ずっと閉じ込めても育たない。
そう思ってしまう自分もいる。
グレイは巣の入口近くで、小型魔物を一匹狩った。
黒鼠。
あえて幼生たちの見える場所で。
首を噛む。
血を流しすぎない。
すぐに巣へ引きずる。
食べられる部位を裂く。
幼生たちは見ていた。
そして、食べた。
食べ終えると、一体目が死骸の残りを咥えようとした。
小さい顎で。
うまく持ち上がらない。
二体目も手伝うように押す。
二体で、黒鼠の残骸を巣の奥へ運ぼうとする。
グレイはそれを止めなかった。
今回は、食べられる残りだ。
保存場所へ運ぶならいい。
二体は不器用に押し、引きずり、何度も倒しながら、巣の奥へ残骸を運んだ。
途中で骨が鳴る。
から。
からり。
二体が驚く。
それでも運ぶ。
巣の奥の保存場所へ。
グレイが今まで肉片を置いていた場所だ。
そこへ、残骸を押し込む。
グレイは、ただ見ていた。
死骸運び。
それは、幼生たちが初めて自分たちで巣のためにした行動だった。
食うだけではなく、運ぶ。
保存する。
それは群れの行動だった。
グレイは、奇妙な重さを感じた。
幼生たちは育っている。
ただの弱い命ではなくなっている。
まだ狩れない。
戦えない。
だが、巣の行動を覚えている。
それは嬉しいのか。
怖いのか。
分からなかった。
そして、その夜。
もっと不気味なことが起きた。
遠くで人間の匂いがした。
新しくはない。
古い。
血。
死体。
レオンの時とは違う。
かなり前に死んだ人間の匂い。
下層のどこかに置き去りにされた、あるいは回収されなかった死体。
グレイは、その匂いを拾った瞬間に動きを止めた。
人間の死体。
近づくな。
ラグドの言葉が頭に響く。
人間の死体に近づくな。
生きたいなら、人を食うな。
グレイはその方向を避けようとした。
だが、一体目の幼生が反応した。
鼻を上げる。
いや、鼻ではない。
身体全体で匂いを拾っている。
二体目も反応する。
「グレ」
小さく鳴く。
その声には空腹とは違うものがあった。
興味。
不安。
引かれる感じ。
グレイは、すぐに低く鳴いた。
「グ」
制止。
だが、幼生たちは完全には止まらない。
巣の入口の方へ向かおうとする。
人間の死体の匂いに引かれている。
なぜ。
グレイの嗜好が移っているのか。
グレイが人間を食べたから。
レオンを食べたから。
その記憶が群体の中に薄く残っているのか。
グレイはぞっとした。
幼生たちは人間を食べていない。
それなのに、人間の死体に反応している。
グレイを通じて。
匂いの共有で。
人間の味への記憶が、群れへ滲んでいるのかもしれない。
グレイは、幼生たちの前に立ちはだかった。
低く、強く鳴く。
「グ」
今度は明確に止める。
二体は止まった。
だが、不満と不安が流れてくる。
行きたい。
知りたい。
持ってきたい。
その感情が薄く分かる。
持ってきたい。
グレイは、その感覚に凍りついた。
幼生たちは、人間の死体を餌としてだけ見ていない。
巣へ運ぶものとして見ている。
なぜ。
レオンの死体を、自分はどうした。
食べた後、裂け目へ押し込んだ。
巣へ持ち込まなかった。
だが、隠した。
守るように。
保存するように。
埋めるように。
あの曖昧な行動を、幼生たちは感覚として受け取っていたのかもしれない。
人間の死体は、特別に扱う。
そう学んでしまったのかもしれない。
グレイは、外の匂いを確認した。
古い人間の死体。
近くに大型魔物はいない。
骨喰い虫は少しいる。
危険はあるが、すぐではない。
行くべきではない。
だが、匂いは強い。
幼生たちが反応している。
もし放置すれば、勝手に向かうかもしれない。
それはもっと危険だ。
グレイは決めた。
自分が確認する。
幼生たちは巣に残す。
グレイは、二体を奥へ押し戻した。
「グ」
待て。
幼生たちは不安そうに鳴く。
「グレ」
「グレ」
グレイはもう一度低く鳴き、巣を出た。
人間の死体の匂いへ向かう。
近づくほど、レオンの記憶が揺れる。
人間の肉。
血。
記憶。
名前。
グレイは牙を噛みしめた。
食べない。
見るだけ。
処理する。
巣へ持ち込まない。
そう決める。
やがて、死体を見つけた。
小さな横穴の奥。
人間。
骨が見えている。
肉はかなり失われている。
顔は分からない。
装備も破れている。
かなり前に死んだ探索者だろう。
名前は知らない。
匂いも古い。
血の記憶も薄い。
食べても、レオンほど強いものは得られないかもしれない。
それでも、人間の匂いは特別だった。
グレイの身体が反応する。
舐めたい。
噛みたい。
知りたい。
だが、死体は古い。
記憶も腐っている。
危険。
グレイは近づかないようにしながら周囲を確認した。
骨喰い虫が二匹いる。
グレイはそれを殺した。
死体へ近づくものを排除した形になった。
まただ。
なぜ守る。
食べないなら、骨喰い虫が食べても同じはずだ。
だが、気分が悪かった。
人間の死体を、骨喰い虫が齧っているのを見ると、胸の奥がざらつく。
レオンの記憶か。
人間の死体を特別扱いする感覚。
それが、グレイの中に残っている。
グレイは、人間の死体の一部に黒岩の欠片をかけた。
埋めるように。
完全ではない。
ただ、露出した肉を隠す。
骨を隠す。
匂いを少し抑える。
自分でも理由が分からない。
保存ではない。
餌として隠したわけではない。
それに近づくほど食欲も湧く。
だから、むしろ遠ざけたい。
でも、晒したままにしたくなかった。
グレイは、その行動の意味を考えないようにした。
作業を終えると、すぐに離れた。
戻る。
巣へ。
幼生たちの匂いが待っている。
巣に戻ると、幼生たちは入口近くまで来ていた。
骨が少し乱れている。
行こうとしたのか。
グレイが戻ると、二体は一斉に寄ってきた。
「グレ」
「グレ」
そして、グレイの匂いを嗅ぐ。
人間の死体の匂いがついている。
二体の反応が変わった。
興味。
空腹。
不安。
そして、妙な静けさ。
二体はグレイの身体についた人間の匂いを舐めようとした。
グレイはすぐに身体を引いた。
駄目だ。
この匂いを覚えさせるな。
人間の死体を餌として覚えさせるな。
グレイは水場へ向かった。
巣へ入る前に、身体を洗う必要がある。
幼生たちがついてこようとする。
グレイは強く鳴いた。
「グ」
二体は止まる。
不安が流れてくる。
だが、従った。
グレイは水場へ行き、外皮を洗った。
鉱毒を含む水が、人間の死体の匂いを少しずつ落としていく。
完全には消えない。
でも薄まる。
水面に映る自分は、黒い魔物だった。
人間の死体を埋めるようなことをした魔物。
幼生を守る魔物。
人間を食べた魔物。
グレイは水面から目を逸らした。
巣へ戻ると、幼生たちは待っていた。
二体とも、グレイを見る。
「グレ」
声。
匂い。
安心。
人間の死体への興味は薄れている。
だが、消えたわけではない。
グレイの中にも、幼生たちの中にも、何かが残った。
死骸を運ぶ。
巣へ集める。
食べられるものと捨てるものを分ける。
そして、人間の死体だけは、なぜか別に扱う。
その奇妙な法則が、群れの中に生まれ始めている。
グレイは巣の奥で身体を丸めた。
幼生たちは近くに寄る。
眠る前、一体目が小さく鳴いた。
「グレ」
二体目も。
「グレ」
グレイは返事をしなかった。
ただ、外の匂いを探る。
人間の死体の匂いは、まだ遠くに残っている。
幼生たちも、それを薄く感じている。
群れの中に、死の匂いが沈んだ。
それは餌の匂いであり、記憶の匂いであり、触れてはいけない境界の匂いだった。
グレイは目を閉じた。
レオンの声が、ほんの少しだけ記憶の奥で揺れる。
ハルクを逃がせ。
帰れ。
頼む。
グレイは牙を噛んだ。
人間の死体を巣へ運んではいけない。
そう思う。
だが、なぜいけないのか。
その理由を、グレイはまだうまく言葉にできなかった。




