第42話『飢餓』
空腹は、自分のものではなかった。
最初にそう気づいた時、グレイは巣の奥で動けなくなった。
腹が減っている。
そう思った。
だから、身体を起こした。
水場へ行くか。
餌場へ行くか。
巣の外で小型魔物を狩るか。
そう考えた。
だが、少し違った。
グレイの腹は、そこまで空いていない。
前日に食べた黒殻狩りの残りが、まだ身体の中にある。
動く力もある。
顎も重くない。
空腹で視界が狭くなる感覚もない。
なのに、奥が疼く。
食わせろ。
そんな感覚がある。
自分が食いたいのではない。
幼生たちが飢えている。
それが、グレイの中へ流れ込んできていた。
巣の奥。
二体の幼生が丸まっている。
一体目は、以前より少し大きくなった。
傷跡も黒く固まり、動きは素早くなっている。
二体目も脚が安定し始めた。
だが、二体とも小さい。
弱い。
まだ狩れない。
自分で水場にも行けない。
食べるためには、グレイが肉を裂いてやる必要がある。
きゅ。
一体目が鳴く。
弱い音。
それだけで、グレイの中の空腹が少し強くなる。
二体目も、巣の黒岩を前脚で掻く。
音は小さい。
だが、焦りがある。
腹が減っている。
グレイには分かる。
匂い。
音。
感情。
そして、繋がり。
幼生たちの空腹が、夢の残りみたいにグレイへ流れ込んでいる。
不快だった。
自分の空腹なら耐えればいい。
動ける時まで待てばいい。
危険なら、食べない選択もある。
だが、これは違う。
幼生たちの空腹は、細く、弱く、止まらない。
自分が我慢しても、幼生たちは弱る。
食べさせなければ、動きが鈍る。
外皮が固まらない。
声も弱くなる。
死ぬかもしれない。
その考えが、グレイを動かした。
自分のためではない。
食わせるため。
その言葉が浮かんだ時、グレイは少しだけ立ち止まった。
食わせる。
自分以外を。
狩りの目的が変わっている。
以前は、食うために狩った。
強くなるために狩った。
生き残るために狩った。
今は、幼生たちを生かすために狩る。
それは、ニルを運んだ人間たちと似ているのかもしれない。
弱った者を生かすために、他の者が危険を負う。
グレイは、その連想をすぐに振り払った。
人間と同じではない。
これは群れの維持。
巣の存続。
自分の感覚を安定させるため。
そう理由を並べる。
だが、理由をいくら並べても、幼生たちの空腹は消えない。
きゅ。
また鳴く。
グレイは巣を出た。
入口の骨を越える。
からり。
自分の足で鳴らした音。
幼生たちが反応する。
不安。
グレイが外へ行く。
離れる。
その不安が薄く流れてくる。
グレイは振り返り、低く鳴った。
「グ」
待て。
そんな意味を込めたつもりだった。
幼生たちは巣の奥で止まる。
完全に理解したかは分からない。
だが、動かない。
グレイは外へ出た。
巣の周囲の匂いを読む。
小型魔物は少ない。
昨日、巣の近くの骨喰い虫を狩ったせいか、近場には残りが少ない。
水場の近くには黒鼠の匂い。
遠いが、狩れる。
黒岩喰いの幼体もいる。
だが、硬い。
幼生たちには食べにくい。
柔らかい肉が必要だ。
黒鼠。
腐肉獣の幼体。
小型蛇。
そういうもの。
グレイは水場へ向かった。
動くたびに、幼生たちの空腹が遠くからついてくる。
巣から離れると、繋がりは薄くなる。
だが消えない。
糸のように残る。
二つの小さな飢え。
それが背中に引っかかっている。
逃げてもついてくる感覚。
不快で、重い。
だが、同時に進む理由になる。
早く狩る。
早く戻る。
水場の近くで、黒鼠を一匹見つけた。
水を飲みに来ている。
警戒しているが、まだ気づいていない。
グレイは天井へ移動した。
いつも通り待つ。
一口目。
二口目。
三口目。
警戒がわずかに緩む。
落ちる。
首元へ牙。
黒鼠が暴れる前に血管を裂く。
短く終わった。
温かい血が口に入る。
魔物の血。
人間ではない。
記憶は流れない。
安心する。
グレイは黒鼠を食べようとして、止まった。
これは幼生たちの餌だ。
自分が食べるものではない。
そう思った。
しかし、血の匂いを嗅ぐと、腹の奥が反応する。
自分も少し食べたい。
狩ったのは自分だ。
力を使ったのも自分。
食えば脚力や嗅覚の向上もあるかもしれない。
だが、幼生たちの空腹がある。
グレイは、黒鼠の首元の血を少しだけ舐めた。
最低限。
そして、柔らかい腹部や肉の多い部分を残した。
持ち帰る。
そう決めた。
死体を咥える。
その瞬間、自分の動きが遅くなる。
口が塞がる。
戦いづらい。
匂いも強く出る。
死体を持ち帰るのは危険だ。
それでも、持つ。
食わせるため。
グレイは水場から離れた。
帰り道を急がない。
急げば音が出る。
匂いを散らす。
天井を使う。
時々、死体を置いて周囲を確認する。
また咥える。
巣へ戻る途中、黒殻狩りの匂いを拾った。
一匹。
こちらへ近づいている。
血の匂いに引かれたか。
グレイは黒鼠の死体を岩陰へ押し込んだ。
戦うか。
逃げるか。
黒殻狩り一匹なら倒せる。
だが、死体を守りながら戦うのは厄介だ。
逃げれば死体を奪われるかもしれない。
幼生たちの餌。
その感覚が、グレイの判断を変える。
以前なら、黒鼠など捨てた。
命の方が大事。
餌はまた狩ればいい。
だが今は、捨てたくない。
幼生たちが腹を空かせている。
グレイは天井へ移動した。
黒殻狩りが現れる。
中型ではない。
小さい個体。
単独。
戦える。
ただし、血の匂いに興奮している。
動きが荒い。
グレイは小石を落とした。
黒殻狩りがそちらへ反応する。
その隙に背後へ回る。
落ちる。
脚の付け根へ牙。
黒殻狩りが暴れる。
グレイは深く噛まず、すぐ離れる。
相手を黒鼠の死体から遠ざけるように動く。
誘導。
巣からも、餌からも離す。
黒殻狩りが追ってくる。
グレイは壁を走り、少し広い場所へ出た。
そこで反転。
相手の顎を避け、首の膜へ牙を入れる。
一撃。
もう一度。
黒殻狩りが動かなくなる。
グレイは死体を見た。
これも餌になる。
だが、硬い。
幼生たちには食べにくい。
それに、持ち帰るには重い。
グレイは柔らかい関節部分だけを食べた。
自分のために。
戦った分の補給。
それから、小さな肉片を少し切り取った。
幼生たちが食べられるかもしれない。
黒鼠の死体の場所へ戻る。
残っている。
グレイは咥え直し、巣へ向かった。
巣に近づくと、幼生たちの空腹が強くなる。
匂いに気づいたのだろう。
二体とも入口近くまで来ている。
骨が鳴る。
から。
からり。
グレイは低く鳴った。
「グ」
奥へ戻れ。
だが、幼生たちは戻らない。
黒鼠の匂いに引かれている。
グレイの帰還に安心している。
その二つが混ざっている。
グレイは巣へ入り、黒鼠を奥へ置いた。
幼生たちが一斉に近づく。
一体目は素早い。
二体目も遅れながら来る。
グレイは、黒鼠の腹を裂いた。
柔らかい肉。
内臓。
血。
小さく裂いて、幼生たちの前へ押す。
二体が食べ始めた。
きゅ。
きゅ。
空腹が薄れる。
その感覚がグレイへ流れ込む。
一体目の飢えが落ち着く。
二体目の焦りが弱まる。
巣の中の空気が少し柔らかくなる。
グレイは、自分が食べていないのに満足に似たものを感じた。
それが嫌だった。
自分の腹はまだ完全には満ちていない。
だが、幼生たちが食べると落ち着く。
それは、自分の感覚がもう自分だけではない証拠だった。
幼生たちは、黒鼠の肉を必死に食べる。
グレイは、食べやすいように肉を裂く。
骨を外す。
硬い皮を剥ぐ。
人間の記憶にある調理とは違う。
だが、少し似ている。
誰かが食べやすいように、肉を分ける。
レオンの記憶。
酒場。
皿。
肉を切る手。
誰かへ渡す。
グレイは、その記憶が浮かびかけて、すぐに押し沈めた。
違う。
これは調理ではない。
給餌。
生きるため。
幼生たちを生かすため。
そう考える。
だが、行動は似ている。
それが気持ち悪い。
人間の記憶が、群れの行動に使われている。
レオンを食べたことが、今の幼生たちを生かしているのかもしれない。
その考えは、さらに気持ち悪かった。
《給餌行動を確認》
《眷属成長が促進されています》
《群体内空腹共有が安定化しつつあります》
《捕食目的の変質を確認》
捕食目的の変質。
グレイは、その言葉を聞いた。
確かに変わっている。
狩りは、自分のためだけではなくなった。
巣へ持ち帰る。
幼生たちへ食わせる。
食べやすく裂く。
残りを保存する。
餌場を選ぶ時も、幼生が食べられるかを考える。
硬い魔物より、柔らかい魔物。
毒の強い魔物は避ける。
人間の血は、危険だから持ち込まない。
選択の基準が変わっている。
グレイは、黒鼠の残りを二つに分けた。
一つは幼生たちの近く。
もう一つは巣の奥の保存場所。
幼生たちが一度に食べ過ぎないように。
食べ残しが腐らないように。
匂いが外へ漏れないように。
考えることが増えた。
自分一体なら、食って寝ればよかった。
今は違う。
餌の量。
匂い。
幼生の成長。
巣の警戒。
逃げ道。
人間。
全部を考えなければならない。
グレイは、巣の入口へ向かった。
外の匂いを確認する。
黒鼠の血の匂いが少し漏れている。
まずい。
骨喰い虫が来る。
グレイは黒岩の粉を前脚で集め、血の跡へ擦りつけた。
匂いを薄める。
それから、水場へ続く道へ少しだけ移動し、別の場所に黒殻狩りの体液を置いた。
強い匂い。
他の魔物がそちらへ引かれるかもしれない。
巣から離すための匂い。
誘導。
巣を守るための道作り。
グレイは、そうしてから巣へ戻った。
幼生たちは食べ終え、互いに体を寄せている。
一体目が二体目の口元を舐める。
二体目が小さく鳴く。
「グレ」
一体目も続く。
「グレ」
食べ終えた後、二体はグレイを呼んだ。
餌を持ち帰ったもの。
肉を裂くもの。
巣を守るもの。
グレイ。
その音の意味が、また少し増えている。
グレイは、巣の奥で立ち止まった。
呼ばれることに、まだ慣れない。
自分の名が、自分以外の口から出るたびに、境界が揺れる。
だが、完全に拒絶はできない。
幼生たちの声には、安心と満足が混ざっている。
それが流れてくると、グレイも落ち着く。
まるで、自分が食べたように。
いや、それは違う。
でも、完全には違わない。
グレイは、幼生たちの近くに身体を丸めた。
幼生たちはすぐに寄ってくる。
食べた後の温かい匂い。
満たされた小さな呼吸。
きゅ。
きゅ。
空腹は消えた。
巣の中が静かになる。
グレイは目を閉じた。
一時的な安心。
しかし、その奥で新しい不安が生まれていた。
二体でこれだけ食べる。
これから大きくなれば、もっと食べる。
さらに増えれば。
もしまた孵化すれば。
餌が足りなくなる。
巣の周囲の小型魔物だけでは足りない。
もっと遠くへ狩りに出る必要がある。
もっと大きな獲物を倒す必要がある。
人間の匂いに近づく可能性も増える。
幼生を生かすほど、危険が増える。
守るほど、飢える。
群れは力になる。
だが、群れは飢餓も増やす。
グレイは、その重さを初めて実感した。
一人なら、少しの餌で生きられた。
今は違う。
自分だけが生きればいいわけではない。
その言葉が、巣の黒岩に重く沈む。
グレイは幼生たちの呼吸を聞いた。
満ちて、眠りに落ちていく音。
それを聞くと、先ほどまでの不快な空腹共有が少し遠のく。
その静けさが、少しだけ心地よい。
だから、また狩りに出るのだろう。
自分が空腹でなくても。
幼生たちが腹を空かせれば。
そう思った時、グレイは静かに理解した。
捕食者は、もう一匹ではない。
巣が飢えれば、グレイが狩る。
幼生が鳴けば、グレイが餌を裂く。
群れの空腹が、グレイを動かす。
それは強さでもあり、鎖でもあった。
グレイは、暗い巣の中で小さく口を開いた。
「グレイ」
自分を確認するための音。
すると、眠りかけていた一体目が、かすかに返す。
「グレ」
二体目も、遅れて。
「グレ」
巣の中に、三つの音が残った。
グレイ。
グレ。
グレ。
それはもう、一つの腹の音のようにも聞こえた。




