第39話『巣主』
巣が、狭くなっていた。
幼生が二匹になっただけで、黒岩の空間は以前より窮屈に感じる。
実際には、そこまで変わっていない。
半円状の空洞。
入口の骨。
奥の裂け目。
水場への道。
変わらない。
だが、空気が違う。
以前は、自分の匂いだけだった。
今は、幼生たちの薄い体液の匂いが混ざっている。
呼吸の音も二つ増えた。
きゅ。
きゅ。
弱い。
小さい。
それなのに、巣全体の感覚が変わる。
グレイは巣の入口で骨を直しながら、ゆっくりと周囲の音を探った。
人間はいない。
今日は遠い。
討伐隊は別方向。
だが、小型魔物は増えている。
骨喰い虫。
黒鼠。
黒岩喰いの幼体。
巣の周囲に、以前より多く寄ってくる。
理由は分かっていた。
匂い。
幼生の存在。
弱い命の匂いは、下層では餌の匂いになる。
グレイは、入口の骨をさらに増やした。
黒殻狩りの顎片。
黒鼠の骨。
白鳴き種の薄い外殻。
それらを、通路の狭い場所へ並べる。
ただ鳴らすだけではない。
通りにくくする。
大型のものは引っかかる。
骨喰い虫は隙間を通る。
黒鼠は飛び越える。
なら、場所ごとに配置を変える。
グレイは、骨を一本ずつ動かした。
から。
からり。
音を確かめる。
以前なら、骨は警戒用だった。
今は違う。
通路そのものを変えている。
侵入しづらいように。
幼生が奥へ逃げやすいように。
もし人間が来たら。
もし大型魔物が来たら。
その時、どこを通るか。
どこで止まるか。
どこなら時間を稼げるか。
グレイは考えていた。
以前よりずっと長く。
狩りよりも。
食事よりも。
巣をどうするかを。
その時、一体目の幼生が入口近くまで来た。
脚はもうかなり安定している。
まだ小さい。
だが、黒岩を掴む力が強くなった。
灰色の外皮にも黒い斑が広がっている。
二体目は、まだ遅い。
傷を負った一体目の方が、なぜか成長が早い。
グレイは、それを少し不思議に思っていた。
一体目は、骨を見上げる。
から。
前脚で軽く触る。
骨が鳴る。
幼生がびくりと跳ねた。
そして、また触る。
からり。
グレイは、その様子を見ていた。
遊んでいるのか。
学んでいるのか。
分からない。
だが、幼生は何度も骨を鳴らした。
から。
からり。
違う骨。
違う音。
そのたびに、頭を傾ける。
白鳴き種を食べた影響か。
音への反応が強い。
グレイは幼生へ近づき、骨の一本を押した。
からっ。
少し大きい音。
幼生が驚いて後退する。
グレイは、別の骨を鳴らした。
今度は軽い音。
から。
幼生が近づく。
グレイは、しばらくそれを繰り返した。
音。
反応。
位置。
幼生は、グレイが鳴らす骨と、自分が鳴らした骨の違いを聞いているようだった。
グレイは、そこで妙な感覚を覚えた。
教えている。
その言葉が浮かぶ。
骨の音を。
通路の違いを。
危険を知らせる音を。
幼生へ。
自分は今、教えている。
その事実に、少しだけ外皮がざわついた。
グレイは、骨をさらに奥へ運んだ。
入口だけでは足りない。
巣の途中にも鳴る場所を作る。
もし侵入された時、奥でも気づけるように。
逃げ道の手前。
裂け目の入口。
水場へ続く分岐。
そこへ、小さな骨を配置する。
幼生たちが通りやすい高さ。
大型魔物は引っかかる。
人間なら音を鳴らす。
グレイは黒岩を削った。
前脚で。
顎で。
通路を少し広げる。
幼生が逃げやすいように。
以前なら、巣は隠れるためだけのものだった。
今は違う。
生かすための構造になっている。
幼生を。
自分を。
群れを。
その考えが浮かび、グレイは動きを止めた。
群れ。
まだ二匹しかいない。
なのに、もう一匹で生きている感覚ではなくなってきている。
グレイは、奥の裂け目をさらに掘った。
狭い。
だが、幼生なら通れる。
人間は無理。
グレイ自身も、少し身体を擦らないと入れない。
逃げ道。
そこを掘っている時だった。
遠くで、人間の心音が聞こえた。
どく。
どく。
複数。
討伐隊。
以前より近い。
グレイは即座に動きを止めた。
幼生たちも、グレイの反応を感じたのか、震えている。
きゅ。
小さい音。
グレイは、巣の入口へ向かった。
骨は鳴っていない。
まだ遠い。
だが、近づいている。
五人。
いや、六人。
その中にラグドはいない。
セヴィルもいない。
代わりに、重い男がいる。
以前、巣の気配を感じ取った男。
若い男もいる。
女も。
あと、知らない匂いが三つ。
グレイは天井へ張りついた。
幼生たちを奥へ押し込む。
きゅ。
不安が伝わってくる。
だが、今は黙らせるしかない。
グレイは、天井裏の裂け目から通路を覗いた。
人間たちが来る。
灯り。
武器。
匂い。
若い男が言う。
「この辺りだろ?」
重い男が低く返す。
「静かにしろ」
女が周囲を見ている。
「……前より骨が増えてない?」
グレイの外皮が冷えた。
見られている。
若い男が笑う。
「魔物が骨集めてるって? 気味悪」
重い男がしゃがみ込んだ。
骨を見る。
位置。
向き。
通路。
彼の心音が少し速くなる。
どく。
警戒。
「違う」
男が言った。
「これは偶然じゃない」
女もしゃがむ。
「……並んでる?」
「通り道を絞ってる」
グレイは動かなかった。
見抜かれている。
重い男は、骨の配置を目で追っている。
入口。
壁際。
分岐。
奥。
彼は、グレイが考えて置いた流れを読んでいた。
「巣だ」
その言葉で、若い男の心音が跳ねた。
どくどく。
興奮。
恐怖。
「見つけた?」
「まだだ。だが近い」
女が低く言う。
「こんなことする魔物、普通じゃない」
重い男が頷く。
「知能がある。いや……」
少し黙る。
そして。
「住んでる」
グレイは、その言葉に動きを止めた。
住んでる。
巣を持つ。
ただ隠れているだけではない。
暮らしている。
そう人間に認識された。
若い男が剣を握る。
「なら焼くか?」
グレイの中で、怒りが走った。
焼く。
巣を。
幼生を。
その想像だけで、牙が軋む。
だが、重い男が即座に否定した。
「馬鹿か。逃げ道も確認せずに刺激するな」
女も頷く。
「ラグドさんに報告するべき」
若い男は不満そうだった。
「でも、今なら」
「今だから危険なんだ」
重い男が通路を見渡す。
「骨の位置。狭められた通路。音の配置。全部、“ここへ入ってくる相手”を想定してる」
女の心音が少し速くなる。
恐怖。
「……待ち伏せ?」
「それだけじゃない」
重い男は壁を触った。
グレイが削った部分。
「広げてる。逃げ道か、移動路か」
グレイは、じっと聞いていた。
人間が巣を読んでいる。
ただの魔物の隠れ家ではない。
構造を持った場所。
目的を持って変えられた場所。
それを理解されている。
重い男は、奥を見ながら低く言った。
「巣主がいる」
巣主。
その言葉。
グレイの中で、奇妙に響いた。
人間は、自分をそう呼ぶのか。
巣の主。
群れを持つもの。
縄張りを作るもの。
住むもの。
グレイは、その響きに少しだけ違和感を覚えた。
だが、否定もできなかった。
実際、今の自分は巣を作っている。
骨を置く。
通路を変える。
逃げ道を掘る。
幼生を守る。
それはもう、ただ隠れているだけではない。
重い男が立ち上がった。
「戻る」
若い男が驚く。
「ここまで来て?」
「十分見た」
女も周囲を警戒している。
「刺激しない方がいい」
重い男は頷いた。
「これはもう、ただの魔物じゃない」
その言葉が、グレイの中へ沈んだ。
ただの魔物じゃない。
では、何だ。
自分は。
グレイは、人間たちが去っていくのを見ていた。
追わない。
襲わない。
だが、もし彼らが巣へ踏み込んでいたら。
焼こうとしていたら。
その時、自分は飛び出していた。
その確信があった。
グレイは、それを理解して少し怖くなった。
以前なら、危険を感じれば逃げた。
今は違う。
巣のためなら、戦うことを先に考えている。
幼生たちのいる巣。
それを壊される想像が、逃走本能より先に怒りを呼ぶ。
人間たちの足音が遠ざかる。
どく。
どく。
心音も薄くなる。
完全に消えるまで、グレイは動かなかった。
やがて静寂が戻る。
グレイは天井から降りた。
幼生たちがすぐに寄ってくる。
きゅ。
きゅ。
不安が薄れたのが分かる。
グレイが戻ったから。
グレイは、その感覚を受け取りながら、巣の奥を見た。
狭い。
だが、まだ広げられる。
入口も増やせる。
水場への近道も作れる。
骨の配置も変えられる。
人間は来る。
もっと大勢で。
もっと深く。
なら、巣も変わらなければならない。
グレイは再び黒岩を削り始めた。
前脚。
顎。
少しずつ。
通路を。
逃げ道を。
幼生が歩きやすいように。
その姿は、以前のグレイとはもう違っていた。
ただの捕食者ではない。
ただの逃亡者でもない。
巣を作るもの。
守るもの。
下層の黒岩の奥で、グレイは静かに“巣主”になり始めていた。




