第40話『声』
最初は、骨の音に混ざっていた。
からり。
巣の入口で、小さな骨が揺れた。
グレイはすぐに反応した。
外敵か。
骨喰い虫か。
黒鼠か。
それとも人間か。
巣の奥で身体を低くし、音を探る。
だが、入口には何もいなかった。
人間の心音も遠い。
小型魔物の足音もない。
骨を鳴らしたのは、幼生だった。
一体目。
傷を負った方の幼生だ。
グレイは、その小さな影を見た。
幼生は入口近くの骨へ前脚を乗せ、軽く押していた。
から。
骨が鳴る。
幼生は少し後退する。
そしてまた近づく。
からり。
また鳴る。
それを繰り返している。
遊びか。
訓練か。
意味は分からない。
だが、幼生は確かに骨の音を覚えようとしているようだった。
二体目も、その後ろでじっと見ている。
まだ一体目ほど動きは早くない。
だが、目のような点は骨の方へ向いている。
グレイは巣の奥から近づいた。
幼生たちはすぐに反応する。
きゅ。
きゅ。
近づいてくる。
グレイの脚へ寄る。
腹の下へ入ろうとする。
グレイは少しだけ身体を持ち上げた。
潰さないように。
それがもう、自然になり始めていることに、グレイは自分で気づいていた。
以前なら、邪魔なものは避けた。
それでも邪魔なら押し退けた。
今は違う。
幼生が来ると、踏まないように動く。
それは弱さか。
それとも、群れの動きなのか。
分からない。
一体目の幼生が、グレイの前脚に体を擦りつけた。
傷は塞がり始めている。
まだ跡は残っているが、外皮が黒く硬くなってきた。
骨喰い虫に叩きつけられた時、死ぬと思った。
だが、生きた。
食わせ、休ませ、守った。
その結果、今ここにいる。
きゅ。
幼生が鳴く。
二体目も鳴く。
きゅ、きゅ。
二つの音。
巣の中で重なる。
白鳴き種を食べてから、グレイには音が深く入る。
その小さな鳴き声も、ただの音ではない。
空腹。
安心。
不安。
近づきたい。
そういう曖昧なものが混ざっている。
グレイは、その感情に慣れ始めていた。
慣れたくはなかった。
他者の感情が自分に流れ込むことは、今も気味が悪い。
だが、完全には拒めない。
拒むと、幼生たちの不安が強くなる。
それも伝わる。
結果として、グレイ自身も落ち着かなくなる。
だから、近くにいる。
近くにいれば、幼生たちは静かになる。
幼生たちが静かになれば、グレイも少し落ち着く。
それは繋がりだった。
気持ち悪く、便利で、逃げられない繋がり。
グレイは、巣の入口の骨を確認した。
人間に読まれてから配置を変えている。
ただ並べるだけではなく、自然に見えるように散らした。
だが、踏めば鳴る。
小型魔物なら軽く。
人間なら重く。
大型なら砕ける。
巣の入口だけでなく、奥の裂け目、水場への分岐、幼生用の通路にも骨を置いた。
人間が見れば、また読まれるかもしれない。
だが、何もしないよりはいい。
グレイは奥へ戻ろうとした。
その時、一体目の幼生が、口を開いた。
「グ」
音がした。
グレイは止まった。
水音ではない。
骨でもない。
幼生の鳴き声でもない。
それは、言葉に近い音だった。
グレイはゆっくり振り返る。
一体目の幼生が、グレイを見上げている。
小さな口。
未発達の牙。
喉の奥が震えている。
「グ……」
もう一度。
グレイは動けなかった。
二体目の幼生も、同じように口を開いた。
「グ、レ……」
不完全な音。
歪んでいる。
湿っていて、幼い。
だが、確かにその音はグレイだった。
自分の名。
自分を繋ぎ止める音。
グレイ。
人間がつけたグレイラーヴァという仮称から、自分が削り出した音。
レオンの記憶に飲まれないために、何度も呼んだ音。
巣の中で自分を保つための音。
それを、幼生が真似した。
グレイは、巣の奥で完全に固まった。
「グ……レ」
一体目がまた鳴く。
二体目も続く。
「グレ」
二つの声。
同時に。
弱く、歪で、だが確かにグレイを呼ぶ。
呼んでいるのか。
真似しているのか。
区別がつかない。
幼生たちは、グレイが何度も自分の名を呟くのを聞いていた。
巣の中で。
記憶酔いの時。
不安な時。
幼生たちを守った後。
グレイは自分を呼んだ。
グレイ。
その音を、幼生たちは覚えた。
そして今、返している。
グレイの外皮がざわついた。
嬉しい。
その感情がほんの一瞬浮かんだ。
呼ばれた。
自分の名を。
ニルが誰かに呼ばれていたように。
レオンが仲間に呼ばれていたように。
グレイも、呼ばれた。
だが、その感情の直後に、強烈な恐怖が来た。
真似された。
自分の音が、他者の口から出た。
自分だけのはずの杭が、複製された。
グレイをグレイに繋ぎ止めていた音が、幼生たちの中にも入っている。
それは、自分が増えたような感覚だった。
グレイは、一歩後退した。
幼生たちが近づく。
「グレ」
「グレ」
呼ぶ。
近づく。
嬉しそうに。
安心して。
その感情が流れてくる。
グレイだ。
近くにいる。
呼べる。
そんな単純な安心。
だが、グレイにはそれが怖かった。
この幼生たちは、自分の名を呼んでいる。
それとも、自分が自分を呼んでいた音を、ただ反射しているだけなのか。
もし、これから増え続けたら。
何体もの幼生が、自分の名を呼んだら。
巣全体がグレイという音で満ちたら。
その時、グレイは一体どれになる。
呼ばれる側か。
呼ぶ側か。
名を持つ個体か。
名を共有する群れか。
分からない。
グレイは口を開いた。
何かを返そうとした。
だが、声が出ない。
幼生たちはまた鳴く。
「グ、レ」
「グレ」
二体の小さな声が巣の黒岩に反響する。
白鳴き種の力が、その残響を広げる。
グレイ。
グレ。
グレ。
音が壁に当たり、奥の裂け目へ入り、骨に触れて戻る。
まるで巣そのものがグレイと呼んでいるようだった。
グレイは、頭を低くした。
やめろ。
そう思う。
だが、幼生たちはやめない。
呼べるようになったことが嬉しいのか。
グレイの反応を見ているのか。
分からない。
グレイは低く喉を震わせた。
「……グレイ」
自分で言った。
確認するように。
幼生たちは、一斉に反応した。
「グレ」
「グレイ」
二体目の方が、少し近い音を出した。
グレイはぞっとした。
学習が早い。
早すぎる。
自分の言葉を聞き、すぐに近づけている。
声帯も、人間のような喉もないはずなのに。
それでも、真似る。
自分の形に合わせて。
自分の未完成な器官で。
グレイが人間の言葉を真似たように。
幼生たちは、グレイを真似る。
《眷属幼体による音声模倣を確認》
《群体内情報伝達の初期反応》
《名称認識が共有されつつあります》
名称認識。
共有。
グレイは、その声を聞いてさらに不安になった。
共有。
それは危険な言葉だった。
匂い。
音。
空腹。
不安。
幼生たちの感情は、もう薄く伝わる。
そこへ名前まで混ざるのか。
グレイという音が、共有される。
グレイは自分を指す名だった。
だが、幼生たちにとっては何を指す。
グレイ本体か。
巣主か。
親か。
群れ全体か。
自分たちを守る大きな影か。
グレイは、そのどれでもあるようで、どれでもない。
幼生たちは、また近づいてくる。
「グレ」
「グレ」
グレイは、今度は逃げなかった。
逃げれば、幼生たちの不安が流れてくる。
それが分かっている。
だから、逃げない。
だが、恐怖は消えない。
呼ばれることが怖い。
呼ばれないことも、きっと怖くなる。
そう直感した。
厄介だった。
グレイは、幼生たちの前に身体を低くした。
一体目が前脚へ触れる。
二体目が腹の下へ入る。
小さい。
弱い。
守る対象。
同時に、自分の名を真似る存在。
グレイは、静かに目を閉じた。
その時、巣の外で骨が鳴った。
からり。
幼生たちの声が止まる。
グレイは即座に反応した。
入口。
軽い音ではない。
少し重い。
黒鼠より重い。
人間ではない。
黒殻狩りの幼体か。
いや、音が二つ。
足音。
低い。
グレイは幼生たちを奥へ押し込んだ。
一体目は少し抵抗するように前へ出ようとした。
以前、骨喰い虫へ飛びついた時と同じ。
グレイは鋭く音を出した。
「グ」
短い制止。
自分でも意識せず出た。
幼生たちが止まる。
二体とも。
その反応に、グレイは一瞬驚いた。
声が通じた。
意味を持ったのか。
それとも、グレイの強い感情が伝わったのか。
分からない。
だが、幼生たちは奥へ下がった。
グレイは入口へ向かった。
外にいたのは、小型の甲殻魔物だった。
二匹。
巣の匂いに引かれたのか。
骨に触れたのか。
グレイは天井へ上がり、一匹目へ落ちた。
首の隙間。
噛む。
二匹目が逃げる。
追う。
巣の近くで逃がすと、匂いを覚えられる。
脚を切る。
首を裂く。
終わり。
短い戦闘。
グレイは死体を巣から離れた場所へ運ぼうとした。
だが、そこで考え直す。
幼生たちの餌になる。
小型甲殻魔物の肉は少し硬い。
だが、裂けば食べられる。
グレイは柔らかい部分だけを咥え、巣へ戻った。
幼生たちは奥で震えている。
グレイが戻ると、すぐに寄ってきた。
「グレ」
「グレ」
呼びながら。
グレイは、餌を置いた。
幼生たちが近づく。
食べる。
だが、食べながらも時々顔を上げる。
グレイを見る。
「グレ」
餌。
呼ぶ。
食べる。
呼ぶ。
その繰り返し。
グレイは、餌を裂きながら思った。
名前が、合図になっている。
安心。
餌。
戻った。
守られている。
そういう意味が、幼生たちの中でグレイという音に混ざっている。
自分の名が、自分のものではなくなっていく。
それが怖い。
だが、幼生たちがその音で落ち着くなら、利用できる。
そう思ってしまう自分もいる。
「グレ」
幼生が鳴く。
グレイは、少しだけ低い音で返した。
「グレイ」
二体が反応する。
安心。
喜びに似たもの。
その感情が流れてくる。
グレイは、それを受け取りながら、胸の奥が重くなるのを感じた。
人間は名前を呼ぶ。
ニル。
レオン。
ラグド。
ガラン。
アリア。
ハルク。
名前は、個体を指す音。
でも、ここでは違う。
グレイという音は、個体だけではなくなり始めている。
巣主。
守る影。
餌を裂くもの。
警戒するもの。
戻ってくるもの。
そして、群れの中心。
そうなりつつある。
グレイは、食べ終えた幼生たちを見た。
一体目は傷跡を残しながら、グレイの前脚へ体を寄せる。
二体目は、少し離れた位置で口を動かしている。
「グ……レイ」
二体目の発音が、また少し近づいた。
グレイは目を逸らした。
怖い。
でも、離れない。
その夜、巣の中は静かではなかった。
幼生たちは眠りながらも、小さく音を漏らす。
きゅ。
グ。
レ。
夢でも見ているのか。
声を練習しているのか。
グレイには分からない。
だが、そのたびに巣の黒岩が微かに震え、残響が戻る。
グレ。
グレ。
グレイ。
音が巣の中を回る。
グレイは眠れなかった。
自分の名前が、他者の寝息に混ざって繰り返される。
その異様さ。
その不気味さ。
そして、その奥にある奇妙な温かさ。
全部が混ざっていた。
グレイは、小さく口を開いた。
「グレイ」
自分で自分を呼ぶ。
まだ自分のものだと確かめるために。
すると、眠っていたはずの一体目が、半分眠ったまま返した。
「グレ」
グレイは、何も言えなかった。
名前は、もう巣の中に広がっていた。
自分だけの杭ではなく、幼生たちを繋ぐ音になり始めている。
グレイは、その残響の中でただじっとしていた。
一人ではない。
それはもう、疑いようがなかった。




