第38話『分裂』
幼生は、思ったより早く動けるようになった。
最初は黒岩の上を這うだけだった。
ぬるりと身体を引きずり、少し進んでは止まり、また震える。
脚も細く、外皮も柔らかい。
骨喰い虫なら簡単に噛み砕ける。
そんな弱さだった。
だが、一度餌を与えてから変わった。
肉を食べる。
眠る。
また動く。
その繰り返しで、幼生の脚が少しずつ安定していった。
灰色だった外皮にも、黒い筋が混じり始める。
グレイの外皮に似ている。
完全ではない。
だが、確かに近づいている。
グレイは、巣の奥でそれを見ていた。
幼生は、いつもグレイの近くにいる。
巣の入口へ向かうことはない。
逃げ道にも近づかない。
ただ、グレイの影へ寄る。
脚の隙間。
腹の下。
外皮の陰。
そこに潜り込み、じっとしている。
最初は気味が悪かった。
今も完全には慣れていない。
だが、いなくなると落ち着かない。
その感覚に、グレイは苛立っていた。
依存しているのは、幼生だけではない。
自分もだ。
巣の中で幼生の音がしないと、妙に静かすぎる。
白鳴き種の感覚が強くなってから、世界はずっと騒がしい。
遠くの水。
小型魔物。
黒岩の軋み。
人間の心音。
全部が入ってくる。
だが、その中に幼生の小さな呼吸があると、輪郭が定まる。
きゅ。
きゅ。
弱い音。
それを聞くと、自分の巣だと思える。
その感覚が理解できなかった。
グレイは、巣の入口で骨を直した。
からり。
音を確認する。
入口近く。
奥。
逃げ道側。
それぞれ鳴り方が違う。
最近は、音を聞くだけで何が来たか少し分かる。
骨喰い虫。
黒鼠。
黒岩喰い。
小型の蛇型魔物。
そして、人間。
人間の音は重い。
複雑だ。
武器。
革。
呼吸。
心音。
全部が混ざる。
グレイは、骨を置き直しながら遠くを探った。
今日は人間が少ない。
討伐隊は別方向へ行っているのかもしれない。
その代わり、下層の奥で大型魔物が動いている。
重い。
鈍い。
岩が擦れる。
危険。
あれは近づけない。
グレイは巣へ戻った。
幼生が黒岩の上を歩いている。
以前より脚が安定している。
まだ遅い。
だが、転ばなくなった。
グレイを見ると、すぐにこちらへ寄ってくる。
きゅ。
鳴く。
その時だった。
グレイの腹の奥で、妙な感覚が走った。
熱い。
痒い。
外皮の内側で、何かが動いている。
グレイは身体を硬直させた。
また。
前と同じ感覚。
腹の奥。
節の隙間。
何かが押し出されようとしている。
幼生が、グレイの変化に反応して後退した。
小さく震えている。
グレイは黒岩へ身体を押しつけた。
熱い。
外皮の内側で、柔らかい何かが蠢く。
裂ける。
薄膜が破れる。
ぬるり。
湿った音。
グレイは低く唸った。
痛いわけではない。
だが、嫌悪感が強い。
自分の身体が、自分の知らない機能を持っている。
制御できない。
そして、また出てきた。
小さい灰色の塊。
最初の幼生と同じ。
濡れている。
弱い。
脚を震わせる。
グレイは、しばらくそれを見下ろしていた。
二体目。
分裂。
その言葉が浮かぶ。
いや、違う。
これは増殖だ。
自分が増えている。
巣の中に、自分の匂いを持つ命が増えている。
最初の幼生が、二体目へ近づいた。
きゅ。
鳴く。
二体目も、弱々しく鳴き返す。
音が重なる。
グレイは、全身の外皮がざわつくのを感じた。
気持ち悪い。
自分の音が増えている。
巣の中に、自分に似た匂いと音が二つある。
その時。
巣の入口の骨が鳴った。
から。
軽い。
骨喰い虫。
一匹。
グレイは即座に動こうとした。
だが、入口近くまで行った瞬間、さらに音が重なる。
からっ。
からり。
複数。
三匹。
しかも近い。
骨喰い虫の群れ。
匂いに寄ってきた。
巣の中の肉か。
幼生の匂いか。
どちらにせよ、危険。
グレイは入口へ走った。
その途中で、一体目の幼生が後ろをついてくる。
グレイは一瞬振り返った。
来るな。
そう思う。
だが、幼生は止まらない。
グレイの後を追ってくる。
二体目はまだ動けず、巣の奥で震えている。
入口へ出る。
骨喰い虫が三匹いた。
入口の骨を齧り、殻を押し、巣へ入ろうとしている。
グレイは一匹へ飛びかかった。
噛み砕く。
残り二匹が散る。
だが、そのうち一匹が巣の中へ滑り込んだ。
まずい。
グレイは反転しようとした。
その瞬間。
きゅぅ!
高い鳴き声。
一体目の幼生が、骨喰い虫へ飛びついていた。
あまりにも弱い身体。
噛みつきも浅い。
骨喰い虫なら簡単に振り払える。
実際、骨喰い虫はすぐに幼生を壁へ叩きつけた。
鈍い音。
幼生の外皮が裂ける。
灰色の体液。
グレイの中で、何かが弾けた。
怒り。
考える前に動いていた。
骨喰い虫へ飛びつき、頭を噛み潰す。
一撃。
もう一匹も逃がさない。
壁へ追い込み、脚を切り裂く。
すぐに終わった。
巣の入口は静かになる。
だが、グレイはすぐに幼生へ向かった。
壁際に落ちている。
脚が震えている。
外皮が裂け、体液が滲んでいる。
弱い。
本当に弱い。
グレイは、その姿を見下ろした。
なぜ飛び出した。
勝てるわけがない。
逃げればよかった。
だが、幼生はグレイの方を向いていた。
きゅ。
弱い音。
恐怖ではない。
安心しているような音。
グレイが来たから。
助かったから。
その感覚が、またグレイの中へ薄く流れ込んできた。
安心。
自分のものではない。
幼生の感情。
それが伝わる。
グレイは動けなかった。
気持ち悪い。
他者の感情が、自分の中へ入ってくる。
だが、それ以上に強かったのは、別の感情だった。
失うかもしれない。
その恐怖。
幼生が死ぬかもしれない。
その考えが、妙に重い。
グレイは幼生を咥えた。
柔らかい。
軽い。
壊れそう。
巣の奥へ運ぶ。
二体目の幼生が、震えながらこちらを見ている。
グレイは、一体目を黒岩の上へ置いた。
どうすればいい。
レオンの記憶。
セヴィルの薬。
包帯。
止血。
断片が浮かぶ。
グレイは巣の奥に残していた黒鼠の肉を裂いた。
柔らかい筋。
血。
それを傷口へ押し当てる。
意味があるのか分からない。
ただ、体液が流れ続けるのを止めたかった。
幼生は小さく震えた。
きゅ。
グレイは、巣の入口へ戻った。
骨喰い虫の死体を外へ放る。
匂いを消す。
骨を戻す。
からり。
音を確認。
そしてまた巣の奥へ戻る。
幼生はまだ生きていた。
弱い呼吸。
小さい音。
だが、止まっていない。
グレイは、その音を聞きながら、じっとしていた。
なぜ助けた。
なぜ怒った。
骨喰い虫を殺したのは当然だ。
巣を守るため。
だが、それだけではない。
幼生が傷ついた瞬間、身体が勝手に動いた。
怒り。
あの感情は、自分でも驚くほど強かった。
レオンを食べた時とも違う。
人間への警戒とも違う。
もっと直接的。
自分の巣を壊された時に近い。
いや、それ以上。
グレイは、一体目の幼生を見た。
傷ついている。
それでも、グレイの近くへ寄ろうとしている。
二体目も、弱々しく這ってくる。
二匹とも、グレイの影へ入る。
そこが安全だと知っている。
グレイは、動けなかった。
自分の影に、二つの命がいる。
それを避けようとして、結局避けない。
潰さないように身体を浮かせる。
守る位置を取っている。
その行動が自然に出ている。
《眷属保護行動を確認》
《群体適応が上昇しました》
《保護本能が発現しています》
保護本能。
グレイは、その言葉を反芻した。
守る。
自分以外を。
なぜ。
下層では、弱いものは死ぬ。
自分もそうやって生き残った。
食われる前に食った。
逃げた。
隠れた。
なのに今、自分は弱いものを守っている。
しかも、自分から生まれたものを。
気持ち悪い。
でも、幼生が静かになると、少し落ち着く。
一体目の痛みも、薄く伝わってくる。
完全ではない。
夢みたいに曖昧。
だが、分かる。
痛い。
怖い。
でも、グレイが近いから少し安心している。
それも分かる。
他者の感情が混ざる。
白鳴き種の残響とは違う。
もっと近い。
もっと内側。
グレイは、巣の奥で身体を丸めた。
幼生二匹を囲うように。
その時、ふと気づく。
一人じゃない。
もう完全に、一人ではない。
音も。
匂いも。
感情も。
巣の中に、自分と繋がった命がいる。
その事実が、巣の空気を変えていた。
以前の巣は、自分が隠れる場所だった。
今は違う。
守る場所になり始めている。
グレイは、その変化を恐れていた。
守れば弱くなる。
守るものがあれば、狙われる。
人間は巣を探している。
討伐隊も来る。
セヴィルは捕まえようとする。
ラグドは危険を察知する。
そんな場所に、幼生が二匹。
弱すぎる。
連れて逃げられるか。
もし追われたら。
もし火を使われたら。
もし人間がこの巣を見つけたら。
その想像だけで、胸の奥が冷える。
グレイは、幼生たちを見た。
一体目は眠り始めている。
二体目も、グレイの脚に身体を寄せて止まった。
きゅ。
小さい音。
二つ。
グレイは目を閉じた。
その時、遠くで人間の心音が鳴った。
どく。
どく。
どく。
以前より、遠くの音が鮮明になっている。
世界が近い。
人間も近い。
危険も近い。
そして今、自分の巣の中にも“守るべきもの”がいる。
グレイは、静かに牙を噛み合わせた。
弱くなったのかもしれない。
そう思う。
だが同時に、骨喰い虫へ飛びついた時の怒りを思い出す。
あの瞬間、自分は迷わなかった。
巣を守る時より強かった。
もし人間が幼生へ触れたら。
その時、自分はどうなる。
その想像に、自分でも知らない熱が腹の奥で揺れた。
グレイは、その感情をまだ言葉にできなかった。
ただ、巣の中で二つの小さな呼吸を聞きながら、静かに外の音へ耳を澄ませていた。
もう、この巣は自分だけのものではなかった。




