第37話『孵化』
最初は、音だと思った。
巣の奥で、何かが鳴っている。
からり、ではない。
骨が鳴る音ではない。
黒岩の水滴でもない。
虫の脚音でもない。
もっと柔らかい。
湿った音。
ぬるりとしたものが、岩の上で動く音。
グレイは巣の奥で目を開けた。
音は近い。
近すぎる。
入口ではない。
外でもない。
巣の中。
自分のすぐ近く。
グレイは一瞬で身体を起こした。
骨は鳴っていない。
つまり、入口から何かが入ったわけではない。
逃げ道の奥からも気配はない。
では、どこから。
ぬる。
また音がした。
グレイの腹の下。
いや、腹の後ろ。
自分の身体の影。
グレイはゆっくりと身体をずらした。
そこに、灰色の塊があった。
最初は、自分の脱落した外皮かと思った。
小さく、濡れていて、黒岩の上に貼りついている。
だが、動いた。
ぴくりと。
細い脚のようなものが一本、震えた。
グレイは動けなくなった。
生きている。
それは、生きていた。
小さい。
グレイの前脚よりも小さい。
白くも黒くもない。
薄い灰色。
柔らかい外皮。
目らしいものはまだ潰れた点のようで、牙も未発達。
虫の幼生に似ている。
だが、違う。
匂いが。
グレイの匂いがする。
自分の外皮。
自分の血。
自分の巣。
そこに混ざって、まだ形になりきっていない命の匂い。
グレイは、ゆっくり後退した。
意味が分からなかった。
どこから来た。
いつ入った。
入口は鳴っていない。
逃げ道からも来ていない。
なら。
自分から。
その考えが浮かんだ瞬間、グレイは全身を硬直させた。
腹の下を確認する。
外皮の隙間。
節の奥。
以前から、かすかな痒みがあった場所。
そこに、透明な膜の破れた跡があった。
小さな袋のようなもの。
薄い膜。
濡れた液体。
何かが、そこから出た跡。
孵化。
その言葉が、頭の奥から浮かぶ。
グレイは、その小さな灰色の幼生を見た。
孵化。
何が。
卵など産んだ覚えはない。
巣の中に卵を置いた覚えもない。
だが、外皮の下で何かが育ち、今、出てきた。
グレイの身体から。
グレイは吐き気に似た嫌悪を覚えた。
自分の身体が、また勝手に変わっている。
喰って変わる。
環境に適応する。
それはもう分かっていた。
だが、今度は違う。
自分の外に、自分とは別のものを生んだ。
小さな幼生は、黒岩の上で震えている。
ぬるぬるした膜に包まれ、うまく動けていない。
脚をばたつかせる。
頭を持ち上げようとして、倒れる。
弱い。
あまりにも弱い。
白い幼生だった頃の自分よりも弱いかもしれない。
グレイは、一歩近づいた。
幼生が反応した。
目はほとんど見えていないはずなのに、こちらへ身体を向ける。
匂いか。
音か。
振動か。
そして、這うように近づいてきた。
グレイへ。
ぬる。
ぬる。
小さな音。
グレイは後退した。
近づくな。
そう思った。
何だこれは。
自分なのか。
違う。
自分ではない。
では何だ。
子?
眷属?
分裂体?
言葉が浮かぶ。
どれも完全には分からない。
幼生は、グレイが下がった分だけ近づいてくる。
体を引きずりながら。
弱々しく。
だが、迷いなく。
グレイの方へ。
その姿が、気持ち悪かった。
自分を求めている。
餌としてではない。
敵としてでもない。
巣主として。
親として。
いや、そういう言葉を使うこと自体が気持ち悪い。
グレイは、牙をわずかに開いた。
食べるか。
そう考えてしまった。
小さい。
柔らかい。
栄養になる。
自分の身体から生まれたなら、自分へ戻せる。
食えば消える。
この気味悪さも消える。
そう思った。
だが、牙は動かなかった。
小さな幼生が、グレイの前脚に触れた。
濡れた柔らかい身体。
弱い振動。
幼生は、前脚にすがるように体を押しつけた。
そして、小さな音を出した。
きゅ。
鳴き声にもならない音。
グレイは固まった。
巣の外では、世界が鳴っている。
水。
骨。
虫。
遠くの人間の心音。
白鳴き種を食べてから、音はずっと残響している。
だが、この音は違った。
近い。
あまりにも近い。
自分の外にあるのに、自分の中から鳴ったような気がした。
きゅ。
幼生がまた鳴く。
腹が減っている。
それが分かった。
匂いでも、音でも、振動でもない。
もっと直接的に。
なぜ分かる。
グレイは混乱した。
この幼生の空腹が、自分の空腹のように薄く伝わってくる。
完全ではない。
はっきりした感覚ではない。
だが、どこかが空いている。
小さく、弱く、震える空腹。
グレイのものではない。
しかし、グレイの中に入ってくる。
気持ち悪い。
グレイは前脚を振り払おうとした。
幼生は転がった。
黒岩にぶつかり、弱く震える。
動けない。
グレイは、それを見ていた。
弱い。
放っておけば死ぬ。
巣の中でも。
水も飲めない。
餌も取れない。
骨喰い虫が来れば食われる。
自分が食わなくても、死ぬ。
そう思った瞬間、白い幼生や黒い幼生を思い出した。
見逃しても死んだもの。
食えば力になったもの。
助けられなかったもの。
今、この幼生も同じだ。
弱いものは死ぬ。
この洞窟では。
なら、なぜ胸の奥がざらつく。
グレイは、巣の奥に残していた黒鼠の肉片を見た。
保存していたもの。
まだ食べられる。
グレイは、それを咥えて幼生の近くへ置いた。
なぜ置いたのか、自分でも分からない。
幼生は、匂いに反応して身を震わせる。
だが、食べ方が分からないのか、うまく噛めない。
柔らかい肉へ口を押しつけるだけ。
グレイはしばらく見ていた。
苛立つ。
食べろ。
そう思う。
幼生はうまく食べられない。
グレイは肉を前脚で押さえ、牙で小さく裂いた。
細かくする。
柔らかい部分を露出させる。
幼生の口元へ押す。
幼生がようやくそれを吸うように食べ始めた。
きゅ。
音が変わる。
空腹の震えが少し弱まる。
グレイの中へ流れていた小さな空腹も、少し薄くなる。
気持ち悪い。
だが、少しだけ落ち着いた。
グレイは、その小さな幼生を見下ろした。
食べている。
必死に。
自分が置いた肉を。
これは何だ。
なぜ自分は餌を与えている。
生き残らせてどうする。
弱い。
邪魔。
匂いを出す。
巣の危険になる。
人間に見つかれば、さらに危険だ。
食べれば消える。
でも、食べなかった。
グレイは、幼生が食べる音を聞いていた。
ぴちゃ。
くちゃ。
柔らかい肉を吸う音。
不器用で、弱い。
その音を聞いていると、外の残響が少し薄れた。
遠くの人間の心音より、この小さな音が近い。
グレイは、巣の入口を確認した。
骨は鳴っていない。
外敵はいない。
今は安全。
幼生は肉を少しだけ食べると、動きが鈍くなった。
腹が満ちたのか。
疲れたのか。
その場で丸まる。
グレイの前脚の近くへ、また這ってくる。
グレイは少しだけ後退しようとして、止まった。
幼生は前脚の影に潜り込むように丸まった。
眠った。
弱い呼吸。
細い音。
小さな命の振動。
グレイは動けなかった。
邪魔だ。
そう思う。
しかし、動けば潰すかもしれない。
それも嫌だった。
なぜ嫌なのか分からない。
自分から生まれたからか。
巣の中にいるからか。
空腹が伝わってきたからか。
グレイは、前脚を少し浮かせたまま、しばらく硬直していた。
その時、頭の奥で声が響く。
《眷属幼体の孵化を確認》
《群体素質が顕在化しました》
《未確定進化経路が更新されます》
眷属幼体。
群体素質。
グレイは、その言葉を理解しようとした。
眷属。
自分に属するもの。
幼体。
幼い身体。
群体。
一つではないもの。
頭の奥が冷える。
やはり、これは自分の一部なのか。
外に出た、自分ではない自分。
それとも、自分から生まれただけの別個体なのか。
分からない。
だが、声は“眷属”と言った。
ただの子ではない。
ただの幼生でもない。
自分と繋がるもの。
グレイは、幼生の寝息を聞いた。
きゅ。
小さい。
弱い。
だが、音は確かにある。
グレイの巣の中に、自分以外の命の音がある。
それが、怖かった。
一人ではなくなった。
そう思った瞬間、白鳴き種を食べた後から続く感覚が、さらに濃くなった。
世界中の音が近い。
他者の心音が近い。
そして今、自分の巣の中に、自分に繋がる音が生まれた。
一人じゃない。
その感覚。
以前は気持ち悪かった。
今も気持ち悪い。
だが、それだけではない。
落ち着かないのに、少しだけ巣が満ちたような感覚もある。
それがさらに気持ち悪かった。
グレイは、幼生を食べなかった。
その選択だけが、静かに巣の中に残った。
しばらくして、入口の骨が鳴った。
からり。
軽い。
小型魔物。
グレイは反射的に動こうとした。
その瞬間、幼生が小さく震えた。
外の音に怯えたのか。
それとも、グレイの反応を感じたのか。
きゅ、と鳴く。
グレイは、巣の入口へ向かった。
今度は迷わない。
外にいたのは骨喰い虫だった。
一匹。
巣の骨の匂いに釣られたのだろう。
グレイは天井から落ち、一撃で噛み砕いた。
食べない。
死体を外へ捨てる。
ただし、少し考えてから、柔らかい部分だけを切り取った。
幼生の餌になるかもしれない。
そう思った。
その思考に、また自分で驚く。
自分のためではない。
幼生のために食べられる部分を持ち帰る。
グレイは骨喰い虫の肉片を咥え、巣へ戻った。
幼生はまだ眠っている。
近くに肉片を置く。
匂いに反応して、幼生が目を開けた。
ぬるりと動き、肉へ近づく。
うまく食べられない。
またグレイが細かく裂く。
幼生が食べる。
小さな空腹が薄れる。
グレイの中も少し静かになる。
《給餌行動を確認》
《眷属維持行動を記録》
《群体適応が進行しています》
群体適応。
グレイは、もう何も返せなかった。
ただ見ていた。
小さな幼生が、自分の裂いた肉を食べている。
その姿は醜い。
弱く、濡れていて、頼りなくて、気味が悪い。
だが、目を離せなかった。
その時、遠くで人間の声がした。
本当に遠い。
だが、白鳴き種の感覚が拾う。
「……痕跡は?」
「消えてる」
「巣は近いはずだ」
人間。
グレイの身体が硬くなる。
幼生も震える。
この小さなものが見つかれば、どうなる。
人間は捕まえる。
セヴィルなら瓶か檻へ入れるかもしれない。
ラグドなら危険と判断するかもしれない。
討伐隊なら焼くかもしれない。
その想像で、グレイの中に鋭い怒りが生まれた。
来るな。
巣へ来るな。
これを見るな。
触るな。
その感情の強さに、グレイ自身が驚いた。
幼生を見つけられたくない。
さっきまで食べることすら考えたのに。
今は、隠そうとしている。
守ろうとしている。
グレイは、巣の入口の骨を少し動かした。
鳴り方を変える。
人間が来た時、より早く分かるように。
さらに、奥の逃げ道の周辺の骨を退かす。
幼生を逃がせるかは分からない。
そもそも自力で動けるかも怪しい。
なら、自分が咥えて運ぶ必要がある。
その場合、どの道を使う。
細い亀裂。
水場側。
黒岩喰いの通路。
グレイは考える。
初めて、自分以外の逃げ道を考えている。
幼生を咥えて移動すれば遅くなる。
匂いも出る。
危険。
それでも、考える。
グレイは、幼生の近くへ戻った。
幼生は肉を食べ終え、また眠りかけている。
弱い。
本当に弱い。
守る価値があるのか。
分からない。
でも、失いたくないと思い始めている。
その感情は、重かった。
グレイは、幼生の横で身体を丸めた。
完全には触れない。
潰さないように。
しかし、近くにいる。
幼生の呼吸が聞こえる。
きゅ。
きゅ。
小さい残響。
その音だけが、今は遠くの人間の心音よりもはっきりしていた。
グレイは、暗い巣の中で目を閉じた。
一人ではなくなった。
それは安心ではない。
恐怖だった。
負担だった。
気持ち悪さだった。
だが、それでも、グレイはその小さな命を食べなかった。
巣の奥で、生まれたばかりの眷属幼体が眠っている。
その弱い音を聞きながら、グレイは初めて、自分以外の命のために眠れなくなった。




