第36話『残響』
音が残っていた。
白鳴き種を食べてから、ずっと。
巣の奥で身体を丸めていても、消えない。
黒岩の冷たさ。
自分の外皮が岩に触れる微かな擦過音。
水場から流れてくる小さな水音。
巣の入口に置いた骨が、遠くの振動を拾って鳴る乾いた音。
それらは、前からあった。
前から聞こえていた。
だが今は違う。
音が、形を持っている。
ただ聞こえるのではない。
音が通った道まで分かる。
黒岩に反響し、曲がり、裂け目に吸われ、骨に触れ、水に滲み、また戻る。
まるで、洞窟全体が薄く震えながら、グレイへ何かを伝えているようだった。
最初は便利だと思った。
白鳴き種は目を持たなかった。
代わりに、音と振動で周囲を知っていた。
それを食べたことで、グレイの感覚にも変化が起きた。
巣の外を小型魔物が通れば、足音の軽さで種類が分かる。
骨喰い虫なら細かく硬い。
黒鼠なら柔らかく、少し跳ねる。
黒岩喰いなら、脚よりも顎で岩を削る音が先に来る。
人間なら、もっと複雑だ。
革。
金属。
布。
呼吸。
武器が揺れる音。
瓶の中で液体が揺れる音。
そして、心音。
心音。
それに気づいた時、グレイは巣の奥で身体を硬直させた。
遠いはずの人間の音が、微かに聞こえたのだ。
足音ではない。
声でもない。
もっと内側。
どく。
どく。
どく。
小さく、規則的で、生々しい音。
最初は水滴だと思った。
どこかの裂け目から落ちる水の音。
だが違った。
水音ならもっと軽い。
これは肉の中の音だ。
血が押し出される音。
生きている証拠の音。
人間の心音。
グレイは、それを理解した瞬間、動けなくなった。
遠い。
かなり遠い。
それでも、静かな通路を伝って微かに届いている。
討伐隊の一部だろうか。
それとも別の探索者か。
分からない。
ただ、生きている人間がそこにいる。
その音がする。
どく。
どく。
どく。
聞こえるたび、口の奥が熱くなった。
血。
心臓。
生きている肉。
人間。
グレイは牙を噛み合わせた。
聞くな。
そう思う。
だが、耳を塞ぐ方法はない。
耳という形すら、はっきりしていない。
身体が聞いている。
黒岩が運んでくる振動を、外皮が拾っている。
白鳴き種を食べたことで、聞こえる範囲が広がった。
便利だ。
危険を早く察知できる。
巣に近づくものが分かる。
人間の接近にも気づける。
だが、聞こえすぎる。
巣の中にいても、自分以外の命の音が入ってくる。
小型魔物の脚。
虫の顎。
遠くで骨を噛む音。
水の下で何かが動く音。
黒岩の奥を這う細い生き物の音。
そして、心音。
どく。
どく。
どく。
それは、グレイの中にない音だった。
いや、自分にも命の音はあるのかもしれない。
だが、人間のような心臓の音は分からない。
レオンを食べた記憶では、自分の胸の中で心臓が打っていた。
どく、どく、と。
走れば速くなり、恐れれば乱れ、酒を飲めば重くなる。
その感覚を、グレイは記憶として知っている。
自分の身体には、それと同じものがない。
だから、人間の心音を聞くと妙な感覚になる。
生きている。
あれは生きている。
温かい。
血が流れている。
名前があるかもしれない。
帰る場所があるかもしれない。
そして、食べられる。
その思考が、音と一緒に来る。
グレイは巣の入口へ向かった。
骨を鳴らさないように進む。
入口から外を覗く。
黒岩の通路は静かだ。
見た目には何もいない。
だが、音はある。
遠い人間。
近くの小型魔物。
さらに奥の、大きな何かの寝息。
巣の中にいるだけで、世界が入り込んでくる。
グレイは外へ出た。
動けば少し楽になるかもしれないと思った。
じっとしていると、音が濃くなる。
自分が動けば、足音や爪の感触に意識が向く。
そう考えた。
しかし、外に出るとさらに音が増えた。
水場の水面。
遠くの骨喰い虫。
黒岩喰いの顎。
天井裏を走る小さな虫。
通路の奥で岩が崩れるかすかな音。
足元の黒岩を通して伝わる振動。
そのすべてが、前よりはっきりしている。
グレイは壁へ登った。
上へ。
天井へ。
黒岩に身体を押しつけ、動きを止める。
音が岩を通して入ってくる。
下を通る小型魔物の体重。
遠くで足を滑らせた何か。
水溜まりに落ちる滴。
自分の巣の入口の骨が、微かに揺れる音。
そして、人間の心音。
まだ遠い。
だが、聞こえる。
一つではない。
三つ。
いや、四つ。
どく。
どく。
どく。
速さが違う。
一つは落ち着いている。
一つは少し速い。
一つは乱れている。
一つは小さく弱い。
負傷者か。
グレイは、無意識にその方向へ顔を向けた。
追うな。
ラグドの声が頭に響く。
血を追うな。
人間の死体に近づくな。
地上へ向かうな。
生きたいなら、人を食うな。
今回は血ではない。
音だ。
そう言い訳する自分がいた。
血を追っていない。
心音を聞いているだけ。
人間の位置を把握するだけ。
危険を知るため。
そう思う。
だが、心音は血より危険かもしれない。
血は、落ちた後のものだ。
心音は、生きている中にある。
まだ温かく、動いている命そのもの。
グレイは、天井からゆっくり移動した。
人間たちの方向へ。
近づきすぎない。
見るだけ。
聞くだけ。
そう決める。
だが、決めた時点で既に近づいている。
そのことに気づき、グレイは少しだけ自分を警戒した。
細い通路を進む。
黒岩の影。
水の流れ。
骨片。
音を拾いながら、最も静かな道を選ぶ。
白鳴き種の音響感知は、移動にも役立った。
どの岩が踏むと鳴るか。
どの骨が転がりやすいか。
どの水溜まりが音を広げるか。
歩く前に分かる。
まるで、通路が音で形を教えてくれる。
グレイは以前よりさらに静かに動けた。
それは強さだった。
同時に、自分がまた変わったことの証でもあった。
やがて、前方から人間の声が聞こえた。
「……ここで止まる」
知らない男の声。
ラグドではない。
重い。
慎重。
以前、巣の入口を見て引いた男に似ている。
いや、同じかもしれない。
グレイは天井の裂け目へ身を沈めた。
下の通路に、人間が四人いた。
そのうち一人は腕を吊っている。
若い男。
以前、骨喰い虫を斬って血を落とした者かもしれない。
心音が速い。
別の女が周囲を見ている。
剣を持つ男。
そして、重い足音の男。
彼らは討伐隊の本隊ではない。
小さな探索班。
ラグドもセヴィルもいない。
グレイは彼らを見た。
心音が聞こえる。
目で見るより先に、命の位置が分かる。
どく。
どく。
どく。
腕を吊った男の音は速い。
恐怖。
女の音は少し乱れている。
警戒。
重い男の音は落ち着いている。
経験。
剣の男は苛立っている。
心音が強く、荒い。
音だけで、感情が読める気がする。
いや、匂いも混ざっている。
だが、音が感情を補っている。
グレイは、その感覚に妙な不快感を覚えた。
見えていない内側まで、聞こえてしまう。
相手の体の中の音。
それは、近づきすぎている。
人間の皮膚を越えて、中を覗いているような感覚。
血を舐めるのと似ている。
肉を食べるのと少し似ている。
音だけで、他者の内側を知ってしまう。
グレイは動かなかった。
重い男が言った。
「これ以上は深入りしない。巣らしき場所には近づくな」
若い男が不満そうに言う。
「また逃げるんですか」
「生きて帰るだけだ」
「でも、あれが人を食ったんでしょう。放っておいたら」
重い男が若い男を見た。
「お前、見つけたら殺せるのか」
若い男は黙った。
心音が一気に速くなる。
どくどくどく。
グレイには、その音がはっきり聞こえた。
恐怖。
怒りではない。
殺したいと言いながら、恐れている。
人間は、言葉と心音が違うことがある。
そう理解した。
女が静かに言う。
「ラグドさんは、刺激するなって言ってた」
剣の男が吐き捨てるように言う。
「だから何もしないのか?」
「何もしないんじゃない。見て、戻る」
重い男の声。
「俺たちはラグドじゃない。あれを相手に判断を間違えたら死ぬ」
グレイは、天井から聞いていた。
人間たちは、グレイのことを話している。
グレイラーヴァ。
人を食った魔物。
巣を持つ魔物。
逃げる魔物。
誘導する魔物。
人間側の中で、グレイの形が大きくなっている。
それを音で聞く。
声で聞く。
心音で聞く。
若い男が小さく言った。
「でも、見つけたら報酬が」
重い男の心音が少し強くなった。
怒り。
「金で死ぬな」
短い言葉。
レオンの記憶が揺れた。
金。
薬。
弟。
下層へ潜る理由。
人間は、金のために危険へ来ることがある。
それを知っている。
グレイは、若い男を見た。
報酬。
金。
地上の生活。
人間にとって、食うための別の手段。
魔物を殺し、素材を売り、金を得て、食べ物や薬を買う。
人間は直接食べないことがある。
だが、結局は生きるため。
なら、グレイが魔物を食うことと、どれほど違うのか。
そう思う。
だが、人間は仲間を守る。
名前を呼ぶ。
死体を持ち帰ろうとする。
その違いもある。
複雑だ。
人間は複雑すぎる。
だから知りたくなる。
だから危険だ。
その時、グレイの巣の方向で骨が鳴った。
遠い。
だが、今の感覚なら聞こえる。
からり。
巣の入口。
何かが触れた。
グレイの全身が反応した。
人間ではない。
軽い。
しかし、一つではない。
複数。
小型魔物の群れ。
骨喰い虫か。
巣へ入ろうとしている。
グレイの中で、鋭い拒絶が生まれた。
巣。
自分の場所。
戻る場所。
そこに入るな。
人間たちの心音より、巣の骨の音が強く意識を引く。
グレイは一瞬迷った。
人間を観察し続けるか。
巣へ戻るか。
若い男の速い心音。
重い男の落ち着いた心音。
人間の会話。
それらは情報だ。
だが、巣が鳴っている。
グレイは動いた。
天井を静かに離れ、人間たちから遠ざかる。
今は巣。
人間より巣。
その判断が自然に出たことに、自分でも少し驚いた。
巣を守る。
それは自分を守ることと同じになり始めている。
巣へ戻る道を急ぐ。
音が続く。
から。
からり。
軽い骨の音。
さらに、殻が擦れる音。
やはり群れ。
骨喰い虫。
巣の入口に置いた骨に集まっている。
グレイは天井を走った。
途中、小型魔物が驚いて逃げる。
追わない。
今は巣だ。
近づくほど、音が鮮明になる。
骨喰い虫の脚。
顎。
骨を齧る音。
巣の入口を掘る音。
一匹が中へ入った。
入口奥の骨が鳴る。
からっ。
中に入った。
グレイの中で、怒りが生まれた。
それは空腹より強かった。
恐怖よりも熱かった。
グレイは巣の入口へ戻ると、天井から一気に落ちた。
骨喰い虫の群れがいた。
六匹。
入口の骨を齧り、殻を押し、奥へ入ろうとしている。
そのうち一匹は既に巣の中へ半分入り込んでいた。
グレイはそいつから殺した。
首元へ牙。
砕く。
次に、入口の骨を齧っていた一匹を前脚で潰す。
三匹目が逃げようとする。
逃がさない。
壁へ回り込み、関節を噛む。
骨喰い虫たちは散る。
だが、グレイは一匹ずつ確実に殺した。
食べるためではない。
巣へ入ったから。
巣の骨を齧ったから。
自分の場所を壊そうとしたから。
最後の一匹が逃げる。
グレイは追いかけかけて、止まった。
追いすぎるな。
巣から離れるな。
そう判断する。
逃げた一匹は小さい。
危険ではない。
残った死骸を巣の外へ押し出す。
中には入れない。
骨喰い虫の死体の匂いは、巣に残したくない。
グレイは、入口の骨を直した。
齧られた骨。
ずれた殻。
岩裂き獣の爪。
位置を戻す。
から。
音を確かめる。
壊れていない。
鳴る。
巣はまだ巣だ。
そこで、グレイは気づいた。
さっきの人間たちの心音が、まだ少し聞こえる。
遠い。
彼らは去っていない。
位置は違う。
おそらく、巣の近くで起きた音に気づいたのかもしれない。
重い男の心音が少し速くなっている。
若い男の心音はさらに速い。
人間たちが近づいている。
骨喰い虫を殺した音。
骨が鳴った音。
それが伝わった。
まずい。
グレイは、骨喰い虫の死体を見た。
血。
体液。
巣の入口。
人間が来れば、巣を見つける。
今度こそ、危険。
グレイは急いで死体を外へ引きずり、巣から離れた横道へ放った。
だが、匂いは残る。
完全には消せない。
人間の足音が近づく。
グレイは巣の奥へ逃げるか、外へ出て誘導するか迷った。
巣に隠れれば、見つかるかもしれない。
外へ出れば、姿を見られる危険がある。
だが、巣を見つけられるよりはいい。
グレイは外へ出た。
巣から少し離れた場所の壁に、わざと爪痕を残す。
骨喰い虫の死体をさらに引きずる。
通路の別方向へ。
人間にそちらへ意識を向けさせる。
その直後、人間たちの灯りが見えた。
グレイは天井へ跳び、影に入る。
重い男が先頭。
女。
若い男。
剣の男。
四人。
彼らは骨喰い虫の死体を見つけた。
「新しい」
女が言う。
「さっきの音、これか?」
若い男の声が震えている。
重い男は周囲を見る。
「違う」
グレイは動きを止めた。
重い男は、巣の方向を見ている。
「ここで殺したんじゃない。動かしてる」
剣の男が剣を抜く。
「近いのか」
「近い」
重い男の心音は速くなっている。
恐怖。
だが、声は落ち着いている。
「でも、出てこない」
女が小さく言う。
「巣を守ってる?」
その言葉に、グレイの外皮が冷えた。
読まれている。
重い男は、少し黙った。
「かもしれない。だから近づくな」
若い男が息を呑む。
「巣が近いなら、見つけた方が」
「巣主が近くにいる場所へ踏み込むな」
重い男は低く言った。
「特に、知能があるやつの巣には」
知能がある。
巣主。
人間の言葉が、グレイの中に沈む。
重い男は続けた。
「戻る。報告する。ここに印を残すな。下手な印は読まれる」
女が頷く。
若い男は何か言いたそうだったが、黙った。
剣の男も周囲を警戒している。
彼らは近づかなかった。
巣を見つけなかった。
グレイは天井の影で、静かに息を潜めていた。
人間たちの心音が遠ざかる。
どく。
どく。
どく。
一つずつ、薄くなる。
完全に消えるまで、グレイは動かなかった。
やがて静かになる。
音が残る。
巣の骨。
水場。
遠くの人間。
小型魔物。
全部。
グレイは天井から降りた。
巣の入口へ戻る。
骨は少しずれている。
もう一度直す。
からり。
音が鳴る。
その音が、前より大切に感じられた。
音は知らせる。
音は守る。
音は他者を呼ぶこともある。
音は危険でもあり、道具でもある。
白鳴き種は音で狩った。
人間は声で伝える。
グレイは骨で巣を守る。
みんな、音を使う。
グレイは巣の奥へ入り、身体を丸めた。
遠くの人間の心音は、もう聞こえない。
だが、完全に消えたわけではない。
静かな時ほど、世界中の音が薄く入り込んでくる。
一人ではない。
そう感じる。
洞窟の中には、無数の命がいる。
音がある。
心音がある。
足音がある。
噛む音がある。
逃げる音がある。
死ぬ音がある。
グレイは、巣の中で目を閉じた。
一人じゃない。
その感覚は、安心ではなかった。
むしろ気持ち悪かった。
自分の中に、自分以外の音がずっと入ってくる。
巣にいても、完全には一人になれない。
白鳴き種を食べたせいで、世界が近すぎる。
グレイは、小さく口を動かした。
「グレイ」
自分の音。
それを聞くと、少しだけ輪郭が戻る。
しかし、すぐ外で骨が鳴った。
から。
ただの水滴か、小さな虫か。
それでも、音は入り込む。
世界は鳴り続けている。
グレイは、その残響の中で、じっと身体を丸めていた。




