第35話『境界』
空を見てから、巣が少し狭く感じるようになった。
黒岩の半円状の空間。
入口に並べた骨と殻。
岩裂き獣の爪。
奥へ続く細い裂け目。
水場へ抜ける道。
戻れば落ち着く。
匂いも、自分のものだ。
以前なら、この狭さが安心だった。
囲われていることが、生存そのものだった。
だが今は違う。
空を知ってしまった。
風を知ってしまった。
広さを知ってしまった。
その記憶が、巣の天井を見るたびに浮かぶ。
押し潰すような黒岩。
狭い影。
湿った空気。
ここは安全だ。
でも、ここだけではない場所がある。
それを知ってしまった。
グレイは巣の奥で目を開けた。
夢ではない。
空は本当にあった。
青い色。
揺れる葉。
柔らかい光。
小動物。
人間の声。
全部、洞窟とは違った。
グレイは前脚を動かした。
爪が黒岩を掴む。
硬い感触。
自分の身体は、やはり洞窟向きだ。
壁を登る。
影へ溶ける。
狭い裂け目を這う。
この身体で、地上へ出る。
それを想像すると、やはり怖かった。
森の中ならまだいい。
だが、人間の前へ出れば。
光の下に晒されれば。
すぐに見つかる。
逃げ場は少ない。
匂いも流れる。
下層のように、天井へ逃げる場所も少ない。
ラグドの言葉は正しい。
地上は危険だ。
それでも、もう一度見たいと思ってしまう。
その感情が、グレイには理解しきれなかった。
見たい。
それだけで動く。
そんなことをする意味があるのか。
飢えているわけではない。
追われているわけでもない。
なのに、また空を見たい。
それは、人間的な欲求なのか。
それとも、生き物として普通なのか。
分からない。
巣の入口で骨が鳴った。
から。
軽い。
黒鼠。
グレイは動かなかった。
黒鼠は入口近くを通り、骨を少し揺らして去っていく。
以前なら、すぐに狩った。
今は違う。
狩る必要がない。
その代わり、別のことを考えている。
空。
地上。
人間。
最近、頭の中が“必要”だけでは動かなくなっている。
興味。
好奇心。
観察。
そんなものが増えている。
それが危険だと、グレイ自身も分かっていた。
興味は、近づく理由になる。
近づけば、人間と接触する。
血を見る。
匂いを嗅ぐ。
記憶が揺れる。
また食べるかもしれない。
それが怖い。
グレイは巣から出た。
今日は下層のさらに奥へ向かう。
地上ではない。
逆方向。
深い場所。
理由は単純だった。
空を見てしまったせいで、頭が落ち着かない。
なら、別の刺激で押し流す。
下層のさらに下。
未知。
そこへ行く。
グレイは黒岩を進んだ。
いつもの道ではない。
水場も避ける。
討伐隊が通った痕跡も避ける。
知らない通路。
細い裂け目。
崩れた岩の間。
暗い。
湿っている。
空気が重い。
少し進むだけで、匂いが変わった。
腐臭。
鉱毒。
古い血。
そして、強い魔物の気配。
グレイはすぐに速度を落とした。
この辺りは、自分の縄張りではない。
巣から離れている。
逃げ道も覚えていない。
危険。
だが、それでも進む。
下層の奥は静かだった。
水音も少ない。
代わりに、岩が時々軋む。
遠くで何か大きなものが動いている振動。
そして、妙な匂い。
古い。
腐っているのに、生きているような匂い。
グレイは、壁へ張りつきながら進んだ。
その時。
前方の通路で、何かが動いた。
白い。
長い。
細い。
グレイは即座に止まった。
骨。
いや、違う。
骨のような外殻を持つ魔物。
長い四肢。
異様に細い身体。
顔がない。
代わりに、頭部に穴のような裂け目がある。
そこから、かすかに音が漏れていた。
きぃ。
きぃ。
鳴いている。
グレイは見たことがない。
匂いも薄い。
死体みたいな匂い。
なのに動いている。
その魔物は、ゆっくり壁を這っていた。
視線がない。
目がない。
それなのに、何かを探しているように動く。
グレイは動かない。
知らない魔物は危険。
能力が読めない。
だが、白い魔物はグレイに気づいていない。
いや、違う。
気づいている。
きぃ。
音が変わった。
頭部の裂け目が、グレイの方向を向く。
目はない。
なのに、見られている感覚。
グレイの脚がわずかに震えた。
怖い。
理解できないものへの恐怖。
下層では珍しくない。
だが、この魔物は特に不気味だった。
きぃ。
音。
その時、グレイは気づいた。
音だ。
こいつは音を聞いている。
振動。
呼吸。
骨の鳴る音。
それで周囲を探っている。
グレイは、ゆっくり呼吸を止めた。
動かない。
骨も鳴らさない。
岩へ身体を押しつける。
白い魔物は、しばらく頭部をこちらへ向けていた。
それから、ゆっくり別方向へ動き出す。
去る。
グレイは、その後ろ姿を見ていた。
細い。
弱そう。
だが、近づきたくない。
その感覚が強い。
きぃ。
音が遠ざかる。
グレイは、そこでようやく息を吐いた。
恐怖。
まだ、自分は未知を怖がる。
それに少し安心した。
全部に慣れてしまったわけではない。
空も怖い。
人間も怖い。
この白い魔物も怖い。
恐怖は消えていない。
ただ、恐怖で止まるだけではなくなった。
今も、グレイは観察していた。
音を使う魔物。
視覚ではなく振動。
骨の鳴る音。
それを聞いた瞬間、巣の骨を思い出す。
もし、あの魔物が巣へ来たら。
骨を鳴らせば、逆に位置を教えることになる。
危険。
グレイは、その情報を頭の中へ刻んだ。
骨の音は便利だ。
だが、聞く側によっては逆効果になる。
全ての相手に通用するわけではない。
グレイは少し後退した。
白い魔物を追わない。
今はまだ、未知が多すぎる。
その時。
別の匂いが流れてきた。
血。
人間。
新しい。
グレイの身体が即座に反応した。
近い。
この奥に人間がいる。
なぜ。
討伐隊か。
探索者か。
グレイは迷った。
戻るべき。
そう判断する。
人間と、この未知の白い魔物。
両方いる場所は危険すぎる。
だが、血の匂いが強い。
怪我をしている。
レオンの時の記憶が揺れる。
人間。
血。
記憶。
食べる。
危険。
全部が一気に浮かぶ。
グレイは、爪を黒岩へ食い込ませた。
行くな。
そう思う。
でも、知りたい。
誰だ。
何が起きている。
その欲求が強い。
グレイは、慎重に血の方向へ進んだ。
音を立てない。
匂いを薄くする。
やがて、通路の先に小さな光が見えた。
人間の灯り。
一人。
いや、二人。
一人は倒れている。
もう一人が壁にもたれて座っている。
若い女。
腕から血を流している。
もう一人は男。
動かない。
死んでいる匂い。
女は震えていた。
灯りを持つ手も揺れている。
そして、通路の奥を見ている。
きぃ。
白い魔物の音。
近い。
グレイは天井へ張りついた。
女は、まだグレイに気づいていない。
彼女の視線は、白い魔物へ向いている。
きぃ。
白い魔物が暗闇から現れた。
女が短剣を握る。
だが、震えている。
恐怖。
絶望。
血。
全部が濃い。
グレイは見ていた。
白い魔物は、ゆっくり近づく。
目がない。
なのに、女の位置を正確に捉えている。
音だ。
呼吸。
心音。
震え。
全部聞いている。
女は後退した。
岩にぶつかる。
その音で、白い魔物が一気に跳ねた。
速い。
グレイの身体が先に動いていた。
理由は分からない。
女を助けたいのか。
白い魔物を知りたいのか。
ただ、動いていた。
天井から落ちる。
白い魔物の背へ牙を入れる。
硬い。
骨みたいな殻。
だが、薄い。
白い魔物が異様な音を出した。
きぃぃぃぃ。
頭部の裂け目が震える。
音。
近い。
うるさい。
グレイの感覚が乱れる。
白い魔物は暴れながら、壁へ身体を打ちつける。
グレイは離れた。
危険。
音が強い。
頭が揺れる。
白い魔物は、目がない代わりに音を武器にしている。
グレイは壁へ移動した。
白い魔物が、裂け目をこちらへ向ける。
きぃ。
短い音。
次の瞬間、白い魔物が正確に飛びかかってきた。
見えているみたいに。
グレイはギリギリで避けた。
壁へ爪を立て、天井へ。
白い魔物は音を追っている。
なら。
グレイは前脚で骨片を弾いた。
からっ。
骨が別方向へ飛ぶ。
白い魔物がそちらへ跳ぶ。
今。
グレイは背後へ回り、裂け目の根元へ牙を入れた。
柔らかい。
ここが中枢。
白い魔物が暴れる。
音が乱れる。
グレイはさらに深く噛んだ。
やがて、白い魔物が動かなくなる。
静か。
グレイはすぐに離れた。
音の余韻がまだ頭に残る。
きぃぃ。
耳の奥で響いている。
女は壁際で固まっていた。
灯りを落としている。
グレイを見ている。
恐怖。
混乱。
理解不能。
レオンの時と同じ。
グレイは、女を見た。
若い。
血の匂い。
恐怖。
生きたい。
全部分かる。
そして、死んだ男の匂いもある。
もし今、女が死ねば。
また、人間を食べられる。
記憶。
名前。
感情。
グレイの腹が熱くなる。
女は短剣を向けた。
震えている。
「来るな……!」
声。
恐怖。
グレイは動かなかった。
白い魔物の死体。
女。
死体の男。
血。
全部が近い。
危険。
グレイは、一歩後退した。
女が目を見開く。
なぜ下がるのか分からない、という匂い。
グレイ自身も、少し分からなかった。
食べられる。
弱い。
なのに、今は違う。
レオンの時のような強い衝動が、完全には来ない。
代わりに、別の感情がある。
境界。
その言葉が浮かぶ。
自分と人間の間。
下層と地上の間。
喰うか、喰わないかの間。
そこに立っている感覚。
女はまだ震えている。
グレイは、ゆっくり白い魔物の死体へ近づいた。
人間ではなく、そちらを食べる。
顎を入れる。
硬い。
骨みたい。
だが、内部は柔らかい。
《白鳴き種を捕食しました》
《音響感知能力を獲得しました》
《振動探知が微量上昇しました》
白鳴き種。
名前。
音を使う魔物。
グレイは食べながら、女を見ていた。
女は動かない。
逃げるべきなのに、動けない。
恐怖で。
グレイは少しだけ考えた。
もし今、自分が道を開ければ。
女は逃げる。
もし塞げば。
女は死ぬ。
食べられる。
その違い。
境界。
グレイは、白鳴き種を少しだけ食べると、通路の横へ退いた。
道を開ける。
女がそれを見た。
信じられない、という匂い。
それでも、ゆっくり立ち上がる。
死んだ男を見る。
涙の匂い。
悲しみ。
でも、置いていく。
レオンと同じ。
生きるために。
女は震えながら後退した。
グレイを見たまま。
やがて、逃げる。
足音が遠ざかる。
グレイは追わなかった。
追えば捕まえられる。
でも、追わない。
白鳴き種の死体だけが残る。
死んだ男も残る。
グレイは、その男を見た。
血の匂い。
記憶。
食べればまた人間が流れ込む。
グレイは、しばらく動かなかった。
喰いたい。
でも、喰いたくない。
その境界。
今、自分はそこにいる。
グレイは、男の死体から視線を逸らした。
そして、白鳴き種の残りを咥え、通路の奥へ消えていった。
背後に残った人間の死体の匂いは、いつまでも追いかけてきた。




