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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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35/45

第35話『境界』

空を見てから、巣が少し狭く感じるようになった。


黒岩の半円状の空間。


入口に並べた骨と殻。


岩裂き獣の爪。


奥へ続く細い裂け目。


水場へ抜ける道。


戻れば落ち着く。


匂いも、自分のものだ。


以前なら、この狭さが安心だった。


囲われていることが、生存そのものだった。


だが今は違う。


空を知ってしまった。


風を知ってしまった。


広さを知ってしまった。


その記憶が、巣の天井を見るたびに浮かぶ。


押し潰すような黒岩。


狭い影。


湿った空気。


ここは安全だ。


でも、ここだけではない場所がある。


それを知ってしまった。


グレイは巣の奥で目を開けた。


夢ではない。


空は本当にあった。


青い色。


揺れる葉。


柔らかい光。


小動物。


人間の声。


全部、洞窟とは違った。


グレイは前脚を動かした。


爪が黒岩を掴む。


硬い感触。


自分の身体は、やはり洞窟向きだ。


壁を登る。


影へ溶ける。


狭い裂け目を這う。


この身体で、地上へ出る。


それを想像すると、やはり怖かった。


森の中ならまだいい。


だが、人間の前へ出れば。


光の下に晒されれば。


すぐに見つかる。


逃げ場は少ない。


匂いも流れる。


下層のように、天井へ逃げる場所も少ない。


ラグドの言葉は正しい。


地上は危険だ。


それでも、もう一度見たいと思ってしまう。


その感情が、グレイには理解しきれなかった。


見たい。


それだけで動く。


そんなことをする意味があるのか。


飢えているわけではない。


追われているわけでもない。


なのに、また空を見たい。


それは、人間的な欲求なのか。


それとも、生き物として普通なのか。


分からない。


巣の入口で骨が鳴った。


から。


軽い。


黒鼠。


グレイは動かなかった。


黒鼠は入口近くを通り、骨を少し揺らして去っていく。


以前なら、すぐに狩った。


今は違う。


狩る必要がない。


その代わり、別のことを考えている。


空。


地上。


人間。


最近、頭の中が“必要”だけでは動かなくなっている。


興味。


好奇心。


観察。


そんなものが増えている。


それが危険だと、グレイ自身も分かっていた。


興味は、近づく理由になる。


近づけば、人間と接触する。


血を見る。


匂いを嗅ぐ。


記憶が揺れる。


また食べるかもしれない。


それが怖い。


グレイは巣から出た。


今日は下層のさらに奥へ向かう。


地上ではない。


逆方向。


深い場所。


理由は単純だった。


空を見てしまったせいで、頭が落ち着かない。


なら、別の刺激で押し流す。


下層のさらに下。


未知。


そこへ行く。


グレイは黒岩を進んだ。


いつもの道ではない。


水場も避ける。


討伐隊が通った痕跡も避ける。


知らない通路。


細い裂け目。


崩れた岩の間。


暗い。


湿っている。


空気が重い。


少し進むだけで、匂いが変わった。


腐臭。


鉱毒。


古い血。


そして、強い魔物の気配。


グレイはすぐに速度を落とした。


この辺りは、自分の縄張りではない。


巣から離れている。


逃げ道も覚えていない。


危険。


だが、それでも進む。


下層の奥は静かだった。


水音も少ない。


代わりに、岩が時々軋む。


遠くで何か大きなものが動いている振動。


そして、妙な匂い。


古い。


腐っているのに、生きているような匂い。


グレイは、壁へ張りつきながら進んだ。


その時。


前方の通路で、何かが動いた。


白い。


長い。


細い。


グレイは即座に止まった。


骨。


いや、違う。


骨のような外殻を持つ魔物。


長い四肢。


異様に細い身体。


顔がない。


代わりに、頭部に穴のような裂け目がある。


そこから、かすかに音が漏れていた。


きぃ。


きぃ。


鳴いている。


グレイは見たことがない。


匂いも薄い。


死体みたいな匂い。


なのに動いている。


その魔物は、ゆっくり壁を這っていた。


視線がない。


目がない。


それなのに、何かを探しているように動く。


グレイは動かない。


知らない魔物は危険。


能力が読めない。


だが、白い魔物はグレイに気づいていない。


いや、違う。


気づいている。


きぃ。


音が変わった。


頭部の裂け目が、グレイの方向を向く。


目はない。


なのに、見られている感覚。


グレイの脚がわずかに震えた。


怖い。


理解できないものへの恐怖。


下層では珍しくない。


だが、この魔物は特に不気味だった。


きぃ。


音。


その時、グレイは気づいた。


音だ。


こいつは音を聞いている。


振動。


呼吸。


骨の鳴る音。


それで周囲を探っている。


グレイは、ゆっくり呼吸を止めた。


動かない。


骨も鳴らさない。


岩へ身体を押しつける。


白い魔物は、しばらく頭部をこちらへ向けていた。


それから、ゆっくり別方向へ動き出す。


去る。


グレイは、その後ろ姿を見ていた。


細い。


弱そう。


だが、近づきたくない。


その感覚が強い。


きぃ。


音が遠ざかる。


グレイは、そこでようやく息を吐いた。


恐怖。


まだ、自分は未知を怖がる。


それに少し安心した。


全部に慣れてしまったわけではない。


空も怖い。


人間も怖い。


この白い魔物も怖い。


恐怖は消えていない。


ただ、恐怖で止まるだけではなくなった。


今も、グレイは観察していた。


音を使う魔物。


視覚ではなく振動。


骨の鳴る音。


それを聞いた瞬間、巣の骨を思い出す。


もし、あの魔物が巣へ来たら。


骨を鳴らせば、逆に位置を教えることになる。


危険。


グレイは、その情報を頭の中へ刻んだ。


骨の音は便利だ。


だが、聞く側によっては逆効果になる。


全ての相手に通用するわけではない。


グレイは少し後退した。


白い魔物を追わない。


今はまだ、未知が多すぎる。


その時。


別の匂いが流れてきた。


血。


人間。


新しい。


グレイの身体が即座に反応した。


近い。


この奥に人間がいる。


なぜ。


討伐隊か。


探索者か。


グレイは迷った。


戻るべき。


そう判断する。


人間と、この未知の白い魔物。


両方いる場所は危険すぎる。


だが、血の匂いが強い。


怪我をしている。


レオンの時の記憶が揺れる。


人間。


血。


記憶。


食べる。


危険。


全部が一気に浮かぶ。


グレイは、爪を黒岩へ食い込ませた。


行くな。


そう思う。


でも、知りたい。


誰だ。


何が起きている。


その欲求が強い。


グレイは、慎重に血の方向へ進んだ。


音を立てない。


匂いを薄くする。


やがて、通路の先に小さな光が見えた。


人間の灯り。


一人。


いや、二人。


一人は倒れている。


もう一人が壁にもたれて座っている。


若い女。


腕から血を流している。


もう一人は男。


動かない。


死んでいる匂い。


女は震えていた。


灯りを持つ手も揺れている。


そして、通路の奥を見ている。


きぃ。


白い魔物の音。


近い。


グレイは天井へ張りついた。


女は、まだグレイに気づいていない。


彼女の視線は、白い魔物へ向いている。


きぃ。


白い魔物が暗闇から現れた。


女が短剣を握る。


だが、震えている。


恐怖。


絶望。


血。


全部が濃い。


グレイは見ていた。


白い魔物は、ゆっくり近づく。


目がない。


なのに、女の位置を正確に捉えている。


音だ。


呼吸。


心音。


震え。


全部聞いている。


女は後退した。


岩にぶつかる。


その音で、白い魔物が一気に跳ねた。


速い。


グレイの身体が先に動いていた。


理由は分からない。


女を助けたいのか。


白い魔物を知りたいのか。


ただ、動いていた。


天井から落ちる。


白い魔物の背へ牙を入れる。


硬い。


骨みたいな殻。


だが、薄い。


白い魔物が異様な音を出した。


きぃぃぃぃ。


頭部の裂け目が震える。


音。


近い。


うるさい。


グレイの感覚が乱れる。


白い魔物は暴れながら、壁へ身体を打ちつける。


グレイは離れた。


危険。


音が強い。


頭が揺れる。


白い魔物は、目がない代わりに音を武器にしている。


グレイは壁へ移動した。


白い魔物が、裂け目をこちらへ向ける。


きぃ。


短い音。


次の瞬間、白い魔物が正確に飛びかかってきた。


見えているみたいに。


グレイはギリギリで避けた。


壁へ爪を立て、天井へ。


白い魔物は音を追っている。


なら。


グレイは前脚で骨片を弾いた。


からっ。


骨が別方向へ飛ぶ。


白い魔物がそちらへ跳ぶ。


今。


グレイは背後へ回り、裂け目の根元へ牙を入れた。


柔らかい。


ここが中枢。


白い魔物が暴れる。


音が乱れる。


グレイはさらに深く噛んだ。


やがて、白い魔物が動かなくなる。


静か。


グレイはすぐに離れた。


音の余韻がまだ頭に残る。


きぃぃ。


耳の奥で響いている。


女は壁際で固まっていた。


灯りを落としている。


グレイを見ている。


恐怖。


混乱。


理解不能。


レオンの時と同じ。


グレイは、女を見た。


若い。


血の匂い。


恐怖。


生きたい。


全部分かる。


そして、死んだ男の匂いもある。


もし今、女が死ねば。


また、人間を食べられる。


記憶。


名前。


感情。


グレイの腹が熱くなる。


女は短剣を向けた。


震えている。


「来るな……!」


声。


恐怖。


グレイは動かなかった。


白い魔物の死体。


女。


死体の男。


血。


全部が近い。


危険。


グレイは、一歩後退した。


女が目を見開く。


なぜ下がるのか分からない、という匂い。


グレイ自身も、少し分からなかった。


食べられる。


弱い。


なのに、今は違う。


レオンの時のような強い衝動が、完全には来ない。


代わりに、別の感情がある。


境界。


その言葉が浮かぶ。


自分と人間の間。


下層と地上の間。


喰うか、喰わないかの間。


そこに立っている感覚。


女はまだ震えている。


グレイは、ゆっくり白い魔物の死体へ近づいた。


人間ではなく、そちらを食べる。


顎を入れる。


硬い。


骨みたい。


だが、内部は柔らかい。


《白鳴き種を捕食しました》


《音響感知能力を獲得しました》


《振動探知が微量上昇しました》


白鳴き種。


名前。


音を使う魔物。


グレイは食べながら、女を見ていた。


女は動かない。


逃げるべきなのに、動けない。


恐怖で。


グレイは少しだけ考えた。


もし今、自分が道を開ければ。


女は逃げる。


もし塞げば。


女は死ぬ。


食べられる。


その違い。


境界。


グレイは、白鳴き種を少しだけ食べると、通路の横へ退いた。


道を開ける。


女がそれを見た。


信じられない、という匂い。


それでも、ゆっくり立ち上がる。


死んだ男を見る。


涙の匂い。


悲しみ。


でも、置いていく。


レオンと同じ。


生きるために。


女は震えながら後退した。


グレイを見たまま。


やがて、逃げる。


足音が遠ざかる。


グレイは追わなかった。


追えば捕まえられる。


でも、追わない。


白鳴き種の死体だけが残る。


死んだ男も残る。


グレイは、その男を見た。


血の匂い。


記憶。


食べればまた人間が流れ込む。


グレイは、しばらく動かなかった。


喰いたい。


でも、喰いたくない。


その境界。


今、自分はそこにいる。


グレイは、男の死体から視線を逸らした。


そして、白鳴き種の残りを咥え、通路の奥へ消えていった。


背後に残った人間の死体の匂いは、いつまでも追いかけてきた。

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