第34話『地上』
光の夢を見た。
下層には存在しない色。
黒岩の青白い反射ではない。
もっと広い。
もっと薄い。
空。
その言葉を、グレイはレオンの記憶から知っている。
ニルの血からも少し知っている。
上。
広い。
風が流れる場所。
グレイは夢の中で、そこを見上げていた。
だが、見上げているのは自分ではなかった。
レオンだった。
夕方の空。
赤い。
酒場の帰り道。
隣でハルクが何か喋っている。
笑っている。
声はぼやけている。
でも、空だけははっきりしている。
広い。
どこまでも続いている。
洞窟の天井とは違う。
押し潰してこない。
囲ってこない。
グレイは、その夢の中で奇妙な感覚を覚えた。
怖い。
広すぎる。
隠れる場所がない。
影が薄い。
匂いが散る。
壁がない。
なのに、少しだけ見たいとも思った。
夢が崩れる。
黒岩の冷たさが戻る。
巣。
骨。
殻。
自分の匂い。
グレイはゆっくり目を開けた。
夢の余韻が残っている。
空。
風。
夕焼け。
地上。
ラグドの言葉も残っていた。
地上へ向かうな。
あの男は、地上が危険だと知っている。
今のグレイが出れば、確実に人間たちは動く。
討伐隊。
捕獲班。
封鎖。
火。
光。
罠。
洞窟の中とは比べ物にならない。
それは分かる。
だが、夢を見たせいで、地上という言葉が頭から離れなかった。
グレイは巣の奥で身体を起こした。
腹は減っていない。
黒殻狩りの肉がまだ残っている。
水も近い。
危険も、今は少し遠い。
それなのに落ち着かない。
地上。
空。
風。
知らない場所。
見たい。
その感情が、洞窟の暗闇の中で小さく蠢いていた。
グレイは、その感情に戸惑った。
見たい。
それは生存に必要な欲求ではない。
餌でもない。
逃げ道でもない。
ただ、知らないものを見たい。
人間の記憶が混ざったせいか。
それとも、元から自分の中にあったのか。
分からない。
だが、その感情は消えなかった。
巣の入口で骨が小さく鳴る。
から。
遠くで、小型魔物が通った。
いつもの音。
いつもの下層。
だが、今日はその暗さが少し狭く感じる。
グレイは巣から出た。
目的地は決まっていない。
ただ、上へ続く道へ向かっていた。
以前、人間たちが使っていた帰還路。
レオンの記憶にある道。
ニルが泣きながら運ばれていた道。
そこを少しだけ見に行く。
見るだけ。
近づきすぎない。
人間の匂いが濃ければ戻る。
そう決めた。
グレイは黒岩を這う。
足音を消す。
匂いを薄くする。
途中、何度か小型魔物とすれ違った。
骨喰い虫。
黒鼠。
黒岩喰いの幼体。
どれも襲わない。
今は空腹ではない。
それより、頭の中が別のことで満ちている。
上。
光。
空。
その途中、グレイは人間の痕跡を見つけた。
新しい。
革靴の跡。
壁に擦れた金属。
火の煤。
そして、薄い血痕。
討伐隊。
最近ここを通った。
グレイは止まった。
血の匂い。
ほんの少し。
若い男のもの。
以前、骨喰い虫を斬った男かもしれない。
舐めれば、また何か見えるかもしれない。
記憶。
名前。
感情。
地上。
だが、グレイは動かなかった。
ラグドの言葉。
血を追うな。
それだけではない。
自分でも分かっている。
今、血を舐めればまた揺らぐ。
レオンの記憶は、完全には沈んでいない。
そこへ別の人間が混ざれば、自分がさらに薄くなる。
グレイは血痕を避けた。
避けながら、少しだけ違和感を覚える。
以前なら、血を見ればすぐに舐めていた。
欲求が先だった。
今は、止まれる。
怖いから。
自分が壊れるのが。
その恐怖が、衝動を抑えている。
グレイはそのまま上へ進んだ。
道幅が広くなる。
黒岩の質も少し変わる。
湿気が減る。
空気が流れている。
風。
下層には少ない感覚。
どこかから空気が来ている。
上へ。
地上へ。
グレイの脚が止まる。
風の匂いが違う。
土。
草。
水。
動物。
人間。
下層にはない匂いが、微かに混ざっている。
地上。
近い。
グレイは、岩陰へ身体を伏せた。
ここから先は危険。
人間の封鎖線があるかもしれない。
光もあるかもしれない。
それでも、前へ進みたかった。
グレイは慎重に進む。
壁。
天井。
影。
使えるものは全部使う。
やがて、通路の先に薄い光が見えた。
青白い結晶の光ではない。
もっと柔らかい。
揺れている。
自然な光。
グレイの身体が震えた。
眩しい。
遠いのに、もう眩しい。
目が慣れていない。
それでも見てしまう。
光。
地上の光。
グレイはさらに近づいた。
風が強くなる。
草の匂い。
湿った土。
知らない虫の音。
そして、空。
通路の先。
大きく開けた出口。
そこから、空が見えた。
青い。
広い。
黒岩の天井ではない。
どこまでも続いている。
グレイは、出口の少し手前で完全に止まった。
怖い。
あまりにも広い。
隠れる場所が少ない。
光が強い。
影が薄い。
匂いが流れる。
下層とは違う。
全てが違う。
それなのに、目を逸らせなかった。
空。
レオンが見ていたもの。
ニルが帰りたがっていた場所。
人間が生きている場所。
グレイは、出口の影からそっと外を見た。
森。
木。
草。
風で揺れている。
光が葉の間を流れる。
音が多い。
虫。
鳥。
風。
葉擦れ。
全部が洞窟より軽い。
下層の音は重い。
岩と骨と水の音。
ここは違う。
軽く、広く、散っている。
グレイは、風に乗ってきた匂いを吸った。
動物。
草食獣。
水。
泥。
人間。
遠い。
だが、多い。
下層よりずっと多い。
村。
街。
道。
火。
食べ物。
血。
全部が混ざっている。
その瞬間、グレイの腹の奥が熱くなった。
人間。
たくさんいる。
もし地上へ出れば、もっと人間の匂いがある。
もっと血がある。
もっと記憶がある。
その考えに、自分でも驚くほど強く身体が反応した。
グレイはすぐに後退した。
危ない。
今の考えは危険だ。
地上を見た瞬間、人間を思い出した。
レオン。
血。
肉。
記憶。
グレイは出口の影へ戻り、呼吸を抑えた。
風が外皮を撫でる。
光が、影の端を照らす。
下層では感じない温度。
少し暖かい。
それが逆に不安だった。
柔らかい。
無防備。
ここに出れば、自分は見つかる。
森の奥から、何かが動く音がした。
小動物。
四足。
軽い。
グレイは反射的に影へ沈む。
草の中から、小さな獣が現れた。
茶色。
長い耳。
洞窟にはいない生き物。
匂いが薄い。
柔らかい。
怖がっている。
だが、下層の魔物ほど警戒は鋭くない。
グレイは見ていた。
あの獣は、自分に気づいていない。
もし今飛び出せば、簡単に捕まえられる。
そう思った瞬間、別の感覚が混ざった。
可愛い。
その感情。
グレイは凍りついた。
可愛い。
何だ、それは。
自分の感情ではない。
レオンか。
ニルか。
人間の記憶の断片か。
小動物を見て、守りたいような感覚。
殺したくないような感覚。
グレイは混乱した。
獲物だ。
弱い。
食べられる。
なのに、牙が動かない。
小動物は少し周囲を嗅ぎ、草を食べ始めた。
平和。
その言葉が浮かぶ。
洞窟にはない空気。
食われる恐怖が薄い。
だから、こんなに無防備なのか。
グレイは、それを見ているだけだった。
やがて、小動物は森の奥へ消えた。
グレイは長く動かなかった。
地上は危険だ。
でも、洞窟とは違う。
違いすぎる。
音も。
匂いも。
空気も。
生き物も。
その全てが、グレイの中の何かを揺らしていた。
グレイは、出口からさらに一歩だけ外へ出た。
光が外皮に当たる。
熱い。
いや、痛いわけではない。
慣れない。
眩しい。
影が薄い。
だが、風は気持ち悪くなかった。
草の匂いも嫌ではない。
空は怖い。
でも、見てしまう。
その時。
遠くで、人間の声がした。
グレイの身体が即座に沈む。
森の向こう。
道の方。
複数。
笑い声。
話し声。
近くではない。
だが、地上には人間がいる。
当然だ。
ここは人間の世界。
下層ではない。
グレイは、声を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
見たい。
近づきたい。
匂いを知りたい。
そして、食べたくない。
両方がある。
人間を知りたい。
でも、近づけばまた変わる。
レオンの時みたいに。
それが怖い。
グレイはゆっくり後退した。
出口の影。
洞窟の闇。
黒岩。
そこへ戻ると、少し安心した。
地上は広すぎる。
刺激が多すぎる。
今の自分では危険だ。
グレイは出口近くの岩陰でしばらく止まり、もう一度だけ空を見た。
青い。
広い。
怖い。
でも、忘れられない。
あの色は、洞窟にはない。
グレイは、ゆっくりと下層への道を戻り始めた。
風の匂いが遠ざかる。
光が薄くなる。
黒岩の暗さが戻る。
その途中、グレイは気づいた。
自分は今、ただ生きるためだけに動いていなかった。
見たいから、来た。
知りたいから、上へ向かった。
それは、人間に近い欲求だった。
知識欲。
好奇心。
そんな言葉が、レオンの記憶の奥から浮かぶ。
危険だ。
でも、完全には嫌ではない。
グレイは、巣へ戻った。
入口の骨が鳴る。
からり。
暗い巣。
自分の匂い。
安心。
でも、さっき見た空の色が、頭から消えない。
グレイは巣の奥で身体を丸めた。
目を閉じる。
それでも、青い空が浮かぶ。
そして、その空の下にいる人間たちの匂いも、思い出してしまう。
地上へ向かうな。
ラグドの言葉。
正しい。
あそこは危険だ。
今の自分が出れば、きっと何かが起きる。
でも、もう知ってしまった。
空の色を。
風の匂いを。
地上の広さを。
知ってしまったものは、消えない。
グレイは小さく口を開いた。
「……そ、ら」
初めて、自分の名前以外の言葉が、かすかに形になった。
声は歪で、掠れていた。
それでも、その音は確かに空を指していた。
巣の中で、グレイは自分の出した音に驚きながら、静かに目を閉じた。
暗闇の奥で、青い空だけが、いつまでも消えなかった。




