第29話『人』
巣の中は、まだ静かだった。
黒岩の半円状の空間。
入口には、骨と殻が置かれている。
岩裂き獣の爪の欠片。
黒岩喰いの外殻。
腐肉獣の骨。
意味があるのかは分からない。
ただ、そこに置かれていることで、ここが自分の場所だと分かる。
外と中が分かれる。
狩る場所と、戻る場所が分かれる。
それだけで、洞窟の暗闇が少し違って感じられた。
グレイは、巣の奥で身体を丸めていた。
完全に眠っていたわけではない。
脚の先は黒岩に触れ、振動を拾っている。
匂いも薄く広げている。
水場。
古い血。
骨喰い虫。
遠くの大型魔物。
さらに遠く、人間。
その匂いに触れるたび、身体がわずかに反応する。
ニルの血を思い出す。
地上の光を思い出す。
帰りたいという感情を思い出す。
そして、それを思い出すたび、グレイは自分の牙を閉じる。
人間は危険だ。
血も危険だ。
声も危険だ。
だが、知りたい。
その欲求は、消えていなかった。
巣の外で、小さな音がした。
骨喰い虫ではない。
黒鼠でもない。
もっと重い。
だが、大型魔物ではない。
足音。
人間。
グレイの身体が、すぐに低く沈んだ。
近い。
人間の匂いが、巣の近くへ流れてきている。
ラグドたちではない。
少なくとも、全員ではない。
匂いが違う。
金属。
革。
汗。
血。
焦り。
恐怖。
知らない人間が混じっている。
グレイは入口の影へ移動した。
骨の隙間から外を見る。
通路の向こう。
人間が二人。
一人は若い。
弓を持っている。
以前の軽い声の男に似た匂いだが、同じではない。
もう一人は重傷だった。
肩から腹にかけて血が流れている。
歩けていない。
若い弓の男が、彼を支えるようにして進んでいる。
「もう少しだ」
弓の男が言った。
声が震えている。
「上の合流地点まで戻れば、ラグドさんたちがいる」
負傷した男は答えない。
息が浅い。
血の匂いが濃い。
人間の血。
ニルではない。
ガランでもない。
知らない人間。
それでも、血は強かった。
グレイの口の奥が熱くなる。
血だけではない。
負傷した人間の中にある感情が、匂いから滲む。
痛い。
寒い。
怖い。
まだ死にたくない。
名前。
誰かの顔。
そこまでは見えない。
舐めていないから。
でも、気配だけで分かる。
この人間は死に近い。
弓の男が足を滑らせた。
負傷者が壁にぶつかる。
血が黒岩に飛ぶ。
グレイは、無意識に前へ出かけた。
血。
新しい。
温かい。
すぐ近く。
だが、止まる。
出るな。
ここは巣だ。
人間に見つかる。
血に引かれて動くな。
そう思う。
しかし、弓の男の声が響いた。
「頼む、歩いてくれ……!」
負傷者がかすかに呻く。
「置いて……いけ」
弓の男が黙った。
グレイは、その言葉を聞いた。
置いていけ。
意味は分かる。
自分を捨てて逃げろ。
そういうことだ。
洞窟なら正しい。
弱った個体を抱えて動けば、群れ全体が危険になる。
血が魔物を呼ぶ。
足が遅くなる。
だから置いていく。
合理的だ。
負傷者は、それを言った。
しかし、弓の男は首を振った。
「無理だ」
短い言葉。
匂いに、強い拒絶があった。
「無理に決まってるだろ」
グレイは動かなかった。
まただ。
人間は、弱った仲間を置いていかない。
ニルの時と同じ。
ガランが守り、ラグドが運び、魔力の女が道を開いた。
今も、この弓の男は負傷者を置けない。
血の匂いがこんなに強いのに。
自分も死ぬかもしれないのに。
なぜ。
名前があるから。
仲間だから。
帰る場所があるから。
分かるようで、まだ分からない。
通路の奥で、別の気配が動いた。
魔物。
血の匂いに釣られた。
小型ではない。
岩の上を低く這う、硬い外殻の魔物。
二匹。
黒殻狩り。
弓の男も気づいた。
「くそ……」
彼は負傷者を壁際へ座らせ、弓を構えた。
手が震えている。
矢を番える。
黒殻狩りが近づく。
一匹は天井。
一匹は床。
挟む動き。
弓の男は一匹へ矢を放つ。
命中。
だが、外殻に弾かれる。
矢が折れる。
黒殻狩りは止まらない。
弓の男は短剣を抜いた。
弓では間に合わない。
負傷者が壁にもたれたまま言う。
「逃げろ……」
「黙れ」
弓の男が答える。
その声は震えていた。
だが、逃げなかった。
グレイは巣の入口で見ていた。
魔物が二匹。
人間が二人。
一人はもう戦えない。
弓の男も近接戦は得意ではなさそうだ。
このままなら、二人とも死ぬ。
死ねば、血と肉が残る。
グレイは食べられる。
人間を。
記憶を。
言葉を。
地上を。
帰りたいを。
人間を理解できる。
その考えが、あまりにも自然に浮かんだ。
グレイは、自分が怖くなった。
だが、同時に身体は準備している。
黒殻狩りの弱点。
脚の付け根。
腹部。
天井側から来る個体は先に落とせる。
床の個体は弓の男に向かう。
それを止めるなら、今。
助けるのか。
なぜ。
食べたいなら、放っておけばいい。
人間を守る理由はない。
ニルの時は、動いた。
今回も動くのか。
グレイは迷った。
その迷いの間に、床の黒殻狩りが跳ねた。
弓の男へ向かう。
彼は短剣を振る。
遅い。
黒殻狩りの顎が腕へ食い込む。
弓の男が叫ぶ。
血が飛ぶ。
その瞬間、グレイは動いていた。
巣の入口から飛び出し、天井へ走る。
黒殻狩りの背後へ。
落ちる。
牙を関節に入れる。
黒殻狩りが暴れる。
グレイは脚を一本噛み切り、首元の薄い膜へ牙を深く入れた。
短く殺す。
床の一匹が動かなくなる。
弓の男が目を見開いた。
「グレイ……ラーヴァ……」
恐怖の匂い。
驚愕。
理解不能。
グレイは彼を見ない。
天井の二匹目が来る。
黒殻狩りがグレイに気づき、落ちてくる。
グレイは横へ避け、壁を走る。
脱皮後の身体は速い。
黒殻狩りの動きは読める。
同系統の魔物はもう何度も食べた。
関節。
腹。
顎の根元。
弱点を知っている。
二匹目の顎を避け、背に乗る。
前脚で殻を押さえ、腹側の隙間へ牙を入れる。
体液が口に広がる。
苦い。
石の味。
黒殻狩りが壁に身体を打ちつける。
グレイは一度離れ、すぐに再度噛む。
首。
終わる。
二匹目も動かなくなった。
静かになった。
通路には、人間の荒い呼吸と、魔物の体液の匂いと、人間の血の匂いが残っている。
グレイは黒殻狩りの死体の上で止まった。
弓の男は短剣を握ったまま震えている。
負傷者は壁にもたれ、薄く目を開けている。
グレイと目が合った。
恐怖。
だが、奇妙に静かだった。
負傷者は、自分がもう助からないことを知っている匂いがした。
弓の男が震える声で言う。
「な、なんで……」
グレイは答えない。
答えられない。
助けたのか。
邪魔な黒殻狩りを殺しただけなのか。
人間が死ぬ前に他の魔物へ食われるのが嫌だったのか。
分からない。
ただ、二匹の魔物を殺した。
弓の男は負傷者の方へ駆け寄ろうとした。
その瞬間、通路の奥から、もっと重い気配が近づいた。
黒殻狩りの群れではない。
血と戦闘音に釣られた中型魔物。
来る。
近い。
弓の男もそれを察した。
顔色が変わる。
負傷者がかすかに笑うように息を漏らした。
「行け」
「でも」
「行け」
今度の声は、さっきより強かった。
弓の男は動けない。
グレイは、人間二人を見た。
弓の男はまだ動ける。
負傷者は無理だ。
血を流しすぎている。
このまま連れていけば、弓の男も死ぬ。
通路の奥の魔物が近づく。
足音が重い。
時間はない。
負傷者は弓の男の腕を押した。
力は弱い。
だが、意思はある。
「頼む」
その言葉に、弓の男の匂いが崩れた。
悔しさ。
恐怖。
拒絶。
悲しみ。
それでも、彼は立ち上がった。
「……すみません」
負傷者は答えなかった。
弓の男はグレイを見た。
恐怖。
憎しみではない。
ただ、理解できないものを見る恐怖。
それから彼は走った。
負傷者を置いて。
洞窟の奥へではなく、人間たちの合流地点がある方へ。
グレイは追わなかった。
血を流している弓の男。
腕を噛まれている。
追えば血痕がある。
舐められる。
記憶が見えるかもしれない。
しかし、追わない。
今、目の前にもっと濃い血がある。
負傷者。
置いていかれた人間。
まだ生きている。
だが、もう長くない。
通路の奥の中型魔物は近づいている。
もしグレイが離れれば、この人間はその魔物に食われる。
なら、自分が食うか。
その思考が、静かに浮かんだ。
負傷者は壁にもたれ、グレイを見ていた。
口元から血が流れている。
目はほとんど焦点が合っていない。
だが、グレイを見ている。
「……お前が」
声が小さい。
「グレイ……ラーヴァ……」
呼ばれた。
人間に。
恐怖と、弱い理解の混じった声で。
グレイは動かなかった。
負傷者は続けた。
「さっき……助けた、のか……?」
答えられない。
グレイ自身にも分からない。
負傷者は、少し笑ったように息を吐いた。
「分からん……な」
血がまた流れる。
匂いが濃くなる。
グレイの身体が震えた。
喰いたい。
知りたい。
目の前に、人間がいる。
もう逃げられない。
仲間は去った。
命は消えかけている。
食えば、きっと今までとは違うものが入る。
血だけではない。
肉。
骨。
脳。
記憶。
人生。
帰りたい。
恐怖。
名前。
全部。
グレイは、一歩近づいた。
負傷者は逃げない。
逃げられない。
ただ、グレイを見ている。
「食う、のか」
その言葉に、グレイは止まった。
食う。
人間が、自分にそう聞いた。
グレイは口を開いた。
声は歪んだ。
「……グ……レイ」
自分の名を出した。
なぜかは分からない。
負傷者の目が、わずかに見開かれる。
「喋……」
そこまで言って、咳き込む。
血。
グレイの目の前に、血が飛ぶ。
温かい飛沫が黒岩に落ちる。
身体が反応する。
もう止めるのが難しい。
通路の奥の魔物の気配も近い。
時間がない。
食うか。
逃げるか。
守るか。
守る?
何を。
この人間を?
もう助からない。
なら守る意味はない。
置いていった弓の男は生きるかもしれない。
この人間は死ぬ。
死ぬなら、食える。
グレイは、負傷者のそばへ近づいた。
負傷者の匂いが、強く入ってくる。
痛み。
寒さ。
諦め。
仲間を逃がした安堵。
そして、わずかな帰りたい。
薄い。
もう諦めているのに、それでも奥に残っている。
帰りたい。
人間は死ぬ直前でも、そう思う。
グレイは、口を近づけた。
まず血を舐めた。
熱い。
濃い。
その瞬間、頭の奥に断片が流れ込む。
光。
笑い声。
剣の訓練。
誰かに肩を叩かれる感覚。
名前。
「レオン」
そう呼ぶ声。
この人間の名前。
レオン。
ラグドの隊とは別の探索者。
弓の男とは相棒。
地上の酒場。
夕方の空。
誰かと約束した。
戻ったら奢る。
くだらない会話。
笑い。
そして、暗転。
下層。
魔物。
爪。
痛み。
置いていけ。
行け。
頼む。
断片が流れ込む。
グレイは、血から口を離した。
レオン。
名前。
また名前が増えた。
目の前の人間は、ただの肉ではない。
レオン。
それを知ってしまった。
知った上で食えるか。
グレイは震えた。
だが、身体はもう限界に近かった。
人間の血の情報が強すぎる。
もっと欲しい。
もっと知りたい。
もっと見たい。
レオンの地上。
レオンの仲間。
レオンの帰りたい。
それをもっと。
通路の奥の魔物が近づく。
もうすぐ来る。
レオンの身体は、急速に冷えている。
命が薄れている。
このままでは、別の魔物に食われる。
グレイは、牙を開いた。
レオンがかすかに言った。
「……あいつは……逃げたか」
グレイは、弓の男の走った方向を見た。
遠い。
足音はもう薄い。
生きている。
たぶん。
グレイは、どう伝えればいいか分からなかった。
ただ、小さく喉を鳴らした。
「……い……た」
いた。
生きていた、とは言えない。
でも、何かを返そうとした。
レオンは、それを理解したのかどうか分からない。
ただ、少しだけ表情が緩んだ。
「そうか」
その声は、ほとんど空気だった。
次の瞬間、レオンの身体から力が抜けた。
命の匂いが薄くなる。
まだ完全ではない。
だが、消え始めている。
グレイは、そこで止まれなかった。
人間の死体。
まだ温かい。
名前を知ってしまった人間。
仲間を逃がした人間。
グレイに問いかけた人間。
それに、牙を立てた。
最初は首元。
血が残っている場所。
肉は柔らかい。
温かい。
魔物とは違う。
血の味だけではない。
噛んだ瞬間、頭の奥が大きく開いた。
記憶が流れ込む。
激流のように。
子供の頃。
木剣。
転んだ膝。
笑う誰か。
初めて剣を握った日。
初めて魔物を殺した日。
吐いた。
仲間に笑われた。
その後で酒を飲んだ。
弓の男の名前。
ハルク。
相棒。
くだらない冗談。
下層へ潜る前の緊張。
金が必要だった。
誰かへ送るため。
病気の妹。
いや、妹ではない。
年の離れた弟。
記憶が混ざる。
断片。
断片。
断片。
レオンの感情が、肉と血に混じって流れ込む。
帰りたい。
でも、あいつだけは帰れ。
頼む。
頼む。
頼む。
グレイは噛みながら震えた。
食べている。
人間を。
血ではない。
肉を。
記憶を持つものを。
名前のあるものを。
レオンを。
《人族を捕食しました》
《大量の記憶片を取得しました》
《言語理解が上昇しました》
《感情情報への接触が拡大しました》
《捕食効率が異常反応を示しています》
《適応異常》
声が乱れた。
いつもの無機質な声が、わずかに揺れたように感じた。
グレイは止まれなかった。
一口。
また一口。
肉を飲み込むたびに、レオンの記憶が入る。
地上の風。
夕焼け。
人間の手。
仲間の笑い声。
痛み。
恐怖。
諦め。
誰かを逃がす安堵。
そして、死ぬことへの静かな恐怖。
グレイの中で、自分とレオンが混ざりかける。
自分は洞窟で生まれた。
違う。
剣を振っていた。
違う。
死肉を食った。
違う。
酒場で笑った。
違う。
黒岩を這った。
違う。
ハルクを逃がした。
違う。
違う。
違う。
グレイは、突然食べるのを止めた。
身体が震えている。
頭が熱い。
自分がどこにいるのか、ほんの一瞬分からなかった。
巣。
下層。
黒岩。
違う。
酒場。
夕焼け。
仲間。
違う。
グレイは黒岩に爪を立てた。
ここは洞窟。
自分はグレイ。
グレイ。
グレイ。
グレイ。
自分の音を繰り返す。
そうしなければ、レオンの記憶に飲まれそうだった。
通路の奥から、中型魔物が現れた。
血の匂いに釣られた魔物。
大きな口。
低い体。
グレイは振り向いた。
今は邪魔だった。
レオンの死体に近づくな。
その感情が、強く湧いた。
餌を取られたくないのか。
レオンを食わせたくないのか。
分からない。
だが、グレイは動いた。
人間の肉を食べた熱が身体を満たしている。
言葉。
感情。
記憶。
それらが混ざり、身体の奥で燃えている。
グレイは中型魔物へ跳んだ。
速い。
いつもより。
牙が深く入る。
魔物が反撃する。
爪が外皮を掠める。
痛い。
だが、今は痛みが遠い。
グレイは獣の目を裂き、首元へ牙を入れた。
中型魔物は暴れたが、長くはもたなかった。
倒れる。
グレイはそれを食べなかった。
ただ殺した。
レオンの死体へ戻る。
そこにある。
人間の肉。
名前のある肉。
グレイは、再び牙を立てようとして、止まった。
これ以上は危険だ。
もっと食べれば、もっとレオンが入る。
もっと人間を知る。
もっと強くなる。
だが、自分が薄れる。
グレイは、震えながら後退した。
食べかけのレオンの死体。
まだ多く残っている。
食べられる。
力になる。
理解になる。
でも、今はもう食べられない。
食べたいのに。
食べてはいけない。
グレイは、死体を見た。
レオン。
名前を知ってしまった。
名前を知っても、食べた。
その事実は消えない。
グレイは、自分の口元についた血を岩に擦りつけた。
消えない。
血の匂いも、記憶も、消えない。
《人族捕食による変異経路を更新しました》
《記憶酔いの兆候を確認》
《共感反応、過剰》
《捕食衝動、上昇》
《未確定進化経路に大きな影響を確認》
記憶酔い。
その言葉が聞こえた直後、視界が揺れた。
洞窟の黒岩が、夕焼けの空に変わる。
すぐに戻る。
水音が、人間の笑い声に変わる。
戻る。
グレイは身体を丸めた。
駄目だ。
ここにいると飲まれる。
レオンの死体も、血も、記憶も、全部近すぎる。
離れなければ。
でも、死体を残せば他の魔物が食う。
それが嫌なのか。
なぜ嫌なのか。
自分が食べたくないなら、誰が食べても同じではないか。
違う。
分からない。
グレイは混乱したまま、レオンの死体を巣の方へ引きずろうとした。
だが、すぐに止まる。
巣へ持ち込むな。
人間の死体を巣へ入れれば、匂いが残る。
人間も魔物も来る。
そして、自分が食べてしまう。
駄目だ。
グレイは、代わりにレオンの死体を黒岩の裂け目の奥へ押し込んだ。
完全には隠せない。
だが、通路に晒すよりはいい。
それが埋葬なのか、保存なのか、自分でも分からない。
ただ、そうした。
そして、通路を離れた。
走るように。
いや、逃げるように。
水場へ向かう。
血を洗うために。
記憶を薄めるために。
グレイは水場へ飛び込み、口元を水へ押しつけた。
鉱毒の薄い水が、血を流す。
赤黒い筋が水面に広がる。
レオンの血。
人間の血。
グレイは何度も水を含み、吐き出すように口を動かした。
味は消えない。
記憶は消えない。
グレイは、水面に映った自分を見た。
口元が赤黒い。
牙の間に人間の肉片が残っている。
目が揺れている。
そこに映るのは、魔物だった。
人間を食べた魔物。
グレイは、水面へ向かって必死に音を出した。
「グレイ」
声が震えた。
「グレイ」
もう一度。
「グレイ」
自分を呼ぶ。
レオンではない。
ニルではない。
ハルクではない。
グレイ。
自分はグレイ。
そう繰り返す。
だが、頭の奥で、別の声が残っている。
ハルク、逃げろ。
帰りたい。
いや、帰らせたい。
頼む。
頼む。
その感情が、食べた肉の奥から湧き続ける。
グレイは水場の横で身体を丸めた。
寒い。
いや、寒さではない。
記憶の震え。
人間を食べた。
ついに。
もう戻れない。
血を舐めた時とは違う。
肉を食べた。
名前を知った上で食べた。
レオン。
その名を、グレイは忘れられない。
忘れたいのかも分からない。
水面の赤黒い筋が、ゆっくり薄れていく。
だが、完全には消えない。
グレイの中に入った人間の味も、消えなかった。
遠くで、弓の男が走る足音はもう聞こえない。
彼は逃げ切ったのだろうか。
分からない。
ただ、レオンは彼を逃がした。
グレイはそれを食べた。
肉と一緒に。
感情ごと。
記憶ごと。
名前ごと。
暗い水場で、グレイはしばらく動けなかった。
捕食者は、人を喰った。
そしてその味は、どんな魔物よりも深く、グレイの中に残った。




