第28話『巣』
岩裂き獣の死体は、翌日には半分なくなっていた。
グレイが再びそこへ戻った時、巨大な前脚は骨だけになり、腹部は裂かれ、内臓のほとんどが消えていた。
別の魔物が来た。
匂いで分かる。
骨喰い虫。
黒岩喰い。
小型の腐肉獣。
それに、もっと大きな何か。
重い匂い。
湿った毛。
獣臭。
だが、血痕は古く、もう近くにはいない。
グレイは天井の影から、静かに死体を見下ろした。
巨大な魔物だった。
人間たちを追い詰め、ニルを傷つけた。
その死体が、今はただの餌になっている。
骨喰い虫が残った肉を削る。
黒岩喰いが骨を齧る。
小型の腐肉獣が内臓を引きずる。
強い魔物も、死ねば分かれる。
それを見ながら、グレイは少し考えていた。
死体は、道になる。
匂い。
餌。
魔物を集める場所。
危険を呼ぶ場所。
人間も来るかもしれない。
ラグドたちは、この死体を見れば何を思うだろう。
岩裂き獣が死んだ。
傷の位置。
噛み跡。
人間の矢。
魔法の焼け跡。
そして、自分の牙。
ラグドなら読む。
グレイラーヴァが介入したことを。
もしかしたら、人間を助けたように見えるかもしれない。
それはまずい。
人間が誤解する。
近づいてくる。
観察を深める。
セヴィルが興奮する。
ラグドが警戒する。
ニルが恐れる。
ガランが盾を構える。
だから、死体から離れるべきだった。
だが、グレイは離れなかった。
理由は単純だった。
ここは、安全だった。
大型魔物は死体を漁った後、もう去っている。
小型魔物はまだ来る。
食べ残しもある。
水場も近い。
狭い裂け目も多い。
人間の封鎖線からは少し外れている。
つまり、生きる場所として悪くない。
グレイは、岩裂き獣の死体の周囲を歩いた。
骨。
肉片。
裂けた外殻。
散った血。
それらを見ながら、頭の奥で何かが繋がる。
死体がある。
魔物が集まる。
なら、自分は待てる。
追い回さなくても、餌が来る。
以前も似たことはした。
追跡獣の残骸。
黒岩喰いの死骸。
餌場。
だが、今回は少し違う。
ここには裂け目がある。
高い天井がある。
隠れられる。
水場も近い。
魔物の流れもある。
そして、人間は今すぐには来ない。
グレイは、その場に静かに座り込んだ。
巣。
その言葉が浮かぶ。
今まで、グレイには“通る場所”しかなかった。
水場。
餌場。
隠れ穴。
全部、一時的なもの。
追われれば捨てる場所。
脱皮した裂け目もそうだった。
だが今、グレイは初めて考えていた。
ここを、自分の場所にできないか。
巣。
戻る場所。
食べる場所。
眠る場所。
匂いを覚える場所。
それは危険でもある。
一つの場所に留まれば、痕跡が残る。
人間に見つかる。
大型魔物に気づかれる。
それでも、移動ばかりでは消耗する。
脱皮後の身体は軽い。
だが、長距離移動を続ければ匂いも残る。
水も必要。
隠れる場所も必要。
なら、一時的でもいい。
自分の場所を作る。
グレイは、岩裂き獣の死体の奥へ進んだ。
そこには黒岩の崩落でできた半円状の空間があった。
入口は狭い。
だが中は広い。
天井も高い。
人間は入りにくい。
大型魔物も体を通しづらい。
グレイにはちょうどいい。
さらに奥には細い亀裂があり、別の通路へ抜けられる。
逃げ道もある。
悪くない。
グレイは空間の中を歩いた。
土ではない。
黒岩。
冷たい。
だが乾いている。
水気も少ない。
匂いもこもりすぎない。
巣。
またその言葉が浮かぶ。
グレイは入口へ戻り、周囲を見た。
その時、小型の腐肉獣が岩裂き獣の死体へ近づいてきた。
灰色の毛。
細長い身体。
牙。
警戒している。
グレイの匂いに気づいている。
だが、死肉への欲求の方が強い。
グレイは天井へ上がった。
待つ。
腐肉獣が死体へ噛みつく。
腹を裂き、内臓を引っ張る。
夢中。
グレイはそこへ落ちた。
首。
一撃。
腐肉獣は短く痙攣し、動かなくなる。
《腐肉獣を捕食しました》
《待ち伏せ狩猟の経験値を獲得しました》
グレイは腐肉獣を引きずり、半円状の空間へ運んだ。
入口を通る。
少し狭い。
だが通れる。
中へ。
そこで腐肉獣を食べる。
静かだ。
外より匂いも薄い。
落ち着く。
グレイは食べながら、周囲を見回した。
ここなら眠れる。
食べられる。
隠れられる。
そして、待てる。
待つ。
その感覚は新しかった。
今までは、常に逃げていた。
追われる前に移動。
見つかる前に離脱。
飢える前に狩る。
だが、巣を持てば違う。
餌が来るのを待つ。
水場への道を覚える。
危険な時間をやり過ごす。
洞窟の中に、自分の中心ができる。
グレイは、腐肉獣の骨を一つ拾った。
長い骨。
軽い。
それを入口の横へ置く。
意味はない。
ただ、置いた。
だが、その瞬間、頭の奥がざわつく。
意味がないのに、置いた。
なぜ。
グレイは骨を見た。
そこにある。
入口の横。
目印のように。
グレイはもう一本骨を持ってきた。
今度は少し奥。
並べる。
またざわつく。
これは何だ。
飾りではない。
そんなものに意味はない。
だが、入口の位置が分かりやすくなる。
暗闇でも。
骨の位置で。
それは道標に近い。
グレイはさらに黒岩喰いの殻を持ってきた。
入口の近くに置く。
匂いが残る。
他の魔物が警戒するかもしれない。
腐肉獣の骨。
黒岩喰いの殻。
岩裂き獣の爪の欠片。
少しずつ、入口の周囲に物が増える。
グレイはその作業をしている自分に、妙な感覚を覚えた。
作っている。
場所を。
自分のための場所を。
それは、ただ生きるためだけではない気がした。
戻る場所。
自分の匂いが残る場所。
それは、“縄張り”に近い。
グレイは、その言葉を理解した。
縄張り。
ここは自分の場所だと示す範囲。
他の魔物に警告する。
安全を確保する。
人間もそうなのかもしれない。
家。
村。
帰る場所。
ニルの記憶にあった、温かい場所。
帰りたいという感情。
もしかすると、それは巣と似ている。
グレイは、その考えをすぐに振り払った。
違う。
自分は魔物だ。
これは生存効率。
食べる場所。
隠れる場所。
それだけ。
だが、骨を並べる前と後では、空間の感じ方が違っていた。
ただの裂け目ではない。
少しだけ、“自分の場所”になった気がする。
グレイは腐肉獣を食べ終えると、水場へ向かった。
道はもう覚えている。
右へ曲がり、細い裂け目を抜け、低い段差を降りる。
途中、黒岩喰いの幼体がいた。
グレイは襲わなかった。
今は腹が減っていない。
それに、ここは巣の近く。
無駄に戦えば血の匂いが残る。
そう考える。
水場に着くと、グレイは水を飲んだ。
冷たい。
青白い結晶が揺れている。
その時、水面に別の影が映った。
小さい。
白い。
幼生。
グレイは反射的に振り返った。
だが、そこには何もいない。
錯覚。
水面の揺れ。
しかし、その瞬間、白い幼生だった頃の感覚が蘇った。
狭い通路。
飢え。
共食い。
逃げるだけの日々。
あの頃、自分には場所がなかった。
眠れば死ぬかもしれない。
止まれば食われるかもしれない。
だから動いていた。
だが今、巣がある。
戻れる場所。
それは、少し危険でもある。
場所に執着すれば、失った時に弱くなる。
人間がニルを守ったように。
守りたいものがあれば、危険を背負う。
グレイは、水を飲みながらそのことを考えた。
もし巣を壊されたら。
怒るのか。
取り返したくなるのか。
人間を追うのか。
まだ分からない。
だが、巣を作った時点で、変化は始まっている。
グレイは水場から戻る途中、いくつか小さな物を拾った。
黒岩喰いの欠片。
乾いた骨。
細い鉱石。
理由は分からない。
ただ、巣へ持ち帰った。
入口の近くへ置く。
並べる。
積むわけではない。
ただ、配置する。
その行動に意味を見出そうとすると、頭がざわつく。
魔物にそんなことは必要ない。
だが、身体は動く。
グレイは、入口の横に置いた岩裂き獣の爪を見た。
大きい。
強かった魔物。
その欠片。
それを置くことで、ここが自分の場所だと感じる。
なぜ。
分からない。
ただ、置きたい。
その時、巣の外で音がした。
骨喰い虫。
小さい。
匂いを嗅いでいる。
巣の入口。
グレイはすぐに天井へ上がった。
骨喰い虫が入口へ近づく。
骨に惹かれたのか。
死肉の匂いか。
グレイは少し考えた。
追い払うか。
殺すか。
放置するか。
骨喰い虫は巣の中へ入ろうとしている。
グレイは、それを見た瞬間、強い拒絶を感じた。
入るな。
その感情は、以前の食欲とは違った。
食べ物を取られる嫌悪ではない。
もっと直接的。
ここは自分の場所だ。
その感覚。
グレイは落ちた。
骨喰い虫を噛み潰す。
短い。
一撃。
骨喰い虫は動かなくなる。
《縄張り防衛行動を確認》
《巣形成が微量進行しています》
縄張り防衛。
巣形成。
また、知らない言葉。
グレイは骨喰い虫を食べなかった。
死体を入口の外へ放り投げる。
匂いが残る。
他の骨喰い虫が来るかもしれない。
だが、それでも巣の中には置かなかった。
グレイは、そこでようやく理解した。
自分は“中”と“外”を分け始めている。
巣の中。
自分の場所。
外。
狩りの場所。
危険な場所。
その境界が生まれている。
それは、人間に近いのか。
魔物にもあるのか。
分からない。
だが、以前のグレイにはなかった感覚だった。
夜か昼かは分からない。
下層には光がない。
だが、静かな時間が来ていた。
大型魔物の気配が減る。
水音だけが響く。
グレイは巣の奥で身体を丸めた。
入口には骨と殻。
周囲には自分の匂い。
外へ繋がる細い亀裂。
逃げ道。
安全。
完全ではない。
でも、少し落ち着く。
グレイは目を閉じた。
すると、頭の奥にまた人間の記憶が浮かぶ。
ニル。
帰りたい。
温かい光。
誰かが待つ場所。
グレイは、その記憶をすぐに振り払った。
違う。
これは巣だ。
家ではない。
帰る場所ではない。
ただの生存拠点。
そう考える。
だが、頭の奥で別の声がする。
戻る場所。
待つ場所。
自分の匂いがある場所。
それは、同じなのではないか。
グレイは、少しだけ苛立った。
人間の記憶が、自分の感覚に混ざる。
巣を作っただけなのに、そこへ意味を見出しそうになる。
危険だ。
意味は不要。
生きる。
食う。
逃げる。
それだけでいい。
グレイは、自分にそう言い聞かせながら、巣の奥で静かに動かなくなった。
外では、遠くの通路を何か大型の魔物が通っていく音がする。
だが、ここには来ない。
入口は狭い。
匂いも薄い。
グレイは、その安全に少しだけ安心していた。
安心。
その感覚も、以前より強くなっている。
変わっている。
身体だけではない。
思考も。
習性も。
巣を作り、骨を置き、境界を作り、戻る場所を持つ。
それは魔物として自然なのかもしれない。
だが、同時にどこか人間的にも思えた。
グレイは、巣の奥で小さく口を動かした。
「グレイ」
声はほとんど音にならなかった。
それでも、巣の中では少し違って聞こえた。
暗闇へ溶けるだけではない。
自分の場所に残る音。
グレイは、その感覚を理解しきれないまま、静かに眠りへ落ちていった。




