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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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第27話『負傷者』

遠くで、金属が鳴った。


硬い音だった。


黒岩に爪が当たる音ではない。


骨が割れる音でもない。


魔物の甲殻が擦れる音でもない。


人間の金属。


剣。


盾。


防具。


そのどれかが強く打たれた音。


グレイは水場の上の天井に張りついたまま、動きを止めた。


水面は静かだった。


青白い結晶の光を映し、黒く揺れている。


グレイの腹は半分ほど満たされていた。


小型の虫魔物を二匹、黒岩喰いを一匹食べた。


水も飲んだ。


すぐに狩りへ出る必要はない。


だからこそ、音へ意識が向いた。


もう一度、金属音。


次に、人間の声。


遠い。


だが、聞こえる。


「下がれ!」


ラグドの声ではない。


ガラン。


低く太い声。


続いて、ニルの声。


「右、来ます!」


焦り。


恐怖。


それから、魔物の唸り。


グレイは天井から身を低くした。


人間たちが戦っている。


下層魔物と。


距離はあるが、道を辿れば近づける。


行くべきではない。


人間の戦闘に近づけば危険だ。


魔法。


矢。


盾。


罠。


人間は群れで戦う。


それに、戦闘中の人間は血を流す。


血の匂いが濃くなる。


自分がそれに引かれることは分かっている。


だから近づかない方がいい。


そう判断したはずだった。


しかし、次の瞬間、血の匂いが流れてきた。


人間の血。


濃い。


新しい。


グレイの身体が反応した。


腹が鳴ったわけではない。


食べたばかりだ。


空腹ではない。


それでも、口の奥が熱くなる。


血。


情報。


記憶。


感情。


地上。


帰る場所。


名前。


それらが、一瞬で頭の奥を揺らした。


グレイは、黒岩へ爪を立てた。


行くな。


自分に命じる。


近づけば、また血を見る。


舐めたくなる。


もっと知りたくなる。


人間を食べたくなるかもしれない。


だから行くな。


だが、声が続いた。


「ニル!」


ラグドの声。


その名を聞いた瞬間、グレイは動いた。


理由は分からなかった。


ニル。


血の記憶を覗いた人間。


空と光と帰りたいを持っていた若い男。


彼が負傷したのか。


また血を流したのか。


死ぬのか。


知りたい。


そう思った。


助けたい、ではない。


少なくとも、最初はそうではなかった。


ただ、知りたい。


何が起きているのか。


人間たちがどうするのか。


ニルが死ぬのか。


その血を、また自分は欲しがるのか。


グレイは天井を走った。


脱皮後の脚は静かだった。


黒岩に沿うように、影を滑る。


道は覚えている。


水場から曲がり、細い亀裂を抜け、黒岩喰いの削った通路を通る。


以前なら回り込むしかなかった場所も、今の身体なら抜けられる。


人間が作った道ではない。


グレイの道。


匂いと振動と記憶で繋いだ道。


血の匂いが強くなる。


人間の血。


ニルか。


別の人間か。


そこに魔物の血も混ざる。


獣。


黒い皮膚。


硬い爪。


鉱毒に慣れた体。


追跡獣ではない。


もっと低く重い。


岩裂き獣。


そんな言葉が浮かぶ。


黒岩の隙間に潜み、通るものを爪で裂く魔物。


グレイは、戦闘音の近くまで来ると動きを止めた。


すぐに飛び込まない。


見る。


天井の細い亀裂から、下の広い通路を覗いた。


人間たちは五人だった。


ラグド。


ニル。


ガラン。


魔力の女。


弓の男。


セヴィルはいない。


薬品の匂いが薄い。


別行動か。


それとも上に戻ったのか。


今ここにはいない。


戦っている魔物は一匹。


岩裂き獣。


体は低く、横に広い。


前脚が異様に大きく、爪は黒岩を削るほど鋭い。


背中は岩のような外殻で覆われている。


顔は小さい。


目も小さい。


だが、前脚の一撃は重い。


ガランが盾で受けていた。


盾が鳴る。


金属音。


ガランの足が滑る。


ラグドが横から切り込む。


浅い。


岩裂き獣の外殻は硬い。


魔力の女が何かを唱える。


空気が震える。


小さな光が飛び、岩裂き獣の顔の前で弾ける。


獣が怯む。


弓の男が矢を放つ。


矢は外殻に弾かれる。


ニルは後方にいる。


肩の傷はまだ完全ではない。


だが剣を持っている。


彼は震えている。


それでも逃げてはいない。


ラグドが叫ぶ。


「正面を開けるな! こいつは横に速い!」


ガランが盾を押し出す。


岩裂き獣が爪を振る。


盾が弾かれる。


ガランが踏みとどまる。


ニルが横から回り込もうとする。


その動きが、少し遅い。


肩。


いや、恐怖。


グレイには分かった。


ニルは踏み込みきれていない。


岩裂き獣がそれを見たかどうかは分からない。


だが、獣は反応した。


前脚で地面を掻き、横へ跳ねる。


速い。


見た目よりずっと。


ラグドが叫ぶ。


「ニル、下がれ!」


ニルは下がろうとした。


だが足元の黒岩が濡れていた。


滑る。


ほんの一瞬。


岩裂き獣の爪が届く。


ガランが盾を投げるように差し込んだ。


間に合わない。


爪がニルの脇腹を裂いた。


血。


グレイの口の中が熱くなった。


ニルが倒れる。


ラグドが走る。


魔力の女が叫ぶ。


光が弾ける。


岩裂き獣の顔に直撃し、獣が大きく怯んだ。


ガランが体当たりする。


弓の男が矢を連射する。


一本が岩裂き獣の目の近くに刺さる。


獣が唸り、後退した。


ラグドはニルを引きずり、岩陰へ下げる。


「押さえろ!」


ラグドが叫ぶ。


ニルの脇腹から血が流れている。


濃い。


温かい。


新しい。


グレイは天井で動けなくなった。


血の匂いが強すぎる。


以前の血痕とは違う。


乾いた跡ではない。


生きた人間から流れる血。


そこに恐怖が混ざっている。


痛み。


死にたくない。


帰りたい。


帰りたい。


帰りたい。


その感情が、匂いだけで伝わってくるようだった。


グレイの腹は鳴らない。


だが、牙が疼く。


少し舐めれば。


もっと見える。


地上。


ニルの記憶。


名前を呼ぶ声。


温かい器。


空。


もっと。


もっと。


グレイは、天井に爪を深く刺した。


動くな。


今、降りれば駄目だ。


人間に見つかる。


血に引かれる。


ニルを食べるかもしれない。


駄目だ。


駄目だ。


駄目だ。


下では、人間たちが必死に戦っている。


ガランが前に出て岩裂き獣を抑える。


魔力の女が小さな光を連続で放つ。


弓の男が側面の薄い部分を狙う。


ラグドはニルの傷を見ている。


治療。


布。


薬。


手で血を押さえる。


ニルは歯を食いしばり、叫びを押し殺している。


ラグドが言う。


「見るな。息をしろ」


ニルが震える声で答える。


「大丈夫、です」


大丈夫ではない。


グレイには匂いで分かる。


血の量が多い。


傷が深い。


すぐ死ぬほどではないかもしれない。


だが危険だ。


「ガラン、二十呼吸持たせろ!」


「無茶言うな!」


ガランが叫びながら盾を拾う。


岩裂き獣が再び突っ込む。


盾と爪がぶつかる。


金属音。


ガランの腕から血が飛ぶ。


今度はガランの血。


グレイの嗅覚がそれも拾う。


人間の血が二つ。


ニル。


ガラン。


違う匂い。


違う感情。


ニルの血には恐怖が強い。


ガランの血には怒りと集中がある。


守る。


押さえる。


倒れない。


その意志のようなものが匂いに混ざっている。


人間は、血の匂いまで違う。


グレイは、ますます動けなくなった。


知りたい。


でも近づけない。


近づいてはいけない。


ラグドが薬を傷に塗る。


ニルが短く悲鳴を上げる。


血の匂いに薬草が混ざる。


刺激が強い。


だが、血を止めようとしている。


ニルの命を繋ぐため。


ラグドの手は迷わない。


早い。


正確。


ニルを助けることに集中している。


なぜ。


仲間だから。


名前を知っているから。


ニルだから。


それはもう、少し分かる。


だが、同時に分からない。


ラグドは戦闘から目を離している。


危険だ。


自分がニルを助けている間に、岩裂き獣が来れば死ぬ。


それでもニルを押さえている。


ガランがそれを守る。


魔力の女が援護する。


弓の男が隙を作る。


全員が、ニルを生かすために動いている。


一人を守るために、他の人間が危険を引き受けている。


その行動が、グレイの中に重く入ってきた。


魔物ならどうする。


弱った個体は置いていく。


食う。


囮にする。


少なくとも、グレイはそう考えてきた。


見逃した黒い幼生は、すぐに別の魔物に食われた。


水場の白い幼生もそうだった。


弱いものは死ぬ。


それが洞窟の掟。


人間は違う。


弱った者を、守る。


そのために血を流す。


グレイは、その光景を見ていた。


喰いたいと思いながら。


知りたいと思いながら。


少しだけ、痛いとも感じながら。


岩裂き獣が吠えた。


魔力の女の光が途切れる。


疲労か。


岩裂き獣がガランの盾を弾き、横へ抜ける。


ラグドとニルの方へ。


まずい。


グレイはそう思った。


人間たちより先に、そう思った。


岩裂き獣の動きが見える。


横へ跳ぶ時、前脚の内側が開く。


腹側に柔らかい部分。


そこを突けば止まる。


しかし、人間の位置からは見えにくい。


ガランは体勢を崩している。


弓の男は射線がない。


魔力の女は詠唱が間に合わない。


ラグドはニルの傷を押さえている。


このままなら、岩裂き獣が二人へ届く。


グレイは動かなかった。


動くな。


出るな。


自分に命じる。


出れば見つかる。


人間に。


岩裂き獣に。


血の近くに降りることになる。


危険だ。


だが、岩裂き獣がニルへ迫る。


ニルの血。


帰りたい。


その匂いが強くなる。


グレイは、なぜか自分の前脚が動くのを感じた。


助けるためか。


違う。


分からない。


ただ、身体は動いた。


グレイは天井を走り、岩裂き獣の真上へ移動した。


落ちる。


狙うのは、岩裂き獣の背ではない。


前脚の内側。


柔らかい付け根。


着地と同時に牙を入れる。


岩裂き獣が絶叫した。


人間たちの動きが止まる。


グレイはすぐ離れた。


長く噛まない。


止めるだけ。


岩裂き獣が体勢を崩し、ラグドたちの手前で横滑りした。


ガランがそこへ盾を叩き込む。


魔力の女が光を放つ。


弓の男の矢が目に刺さる。


ラグドが叫ぶ。


「今だ、下がれ!」


人間たちは一気に距離を取る。


グレイはその隙に壁へ移動した。


岩裂き獣が怒りでこちらを探す。


だが、前脚を傷つけられ、目も潰れ、動きが乱れている。


グレイは深追いしない。


天井へ。


影へ。


離脱。


ガランの声が聞こえた。


「今のは……」


ニルの荒い呼吸。


魔力の女が低く言う。


「グレイラーヴァ?」


ラグドの匂いが、一瞬強く変わった。


驚き。


警戒。


判断。


彼はすぐに叫んだ。


「追うな! 撤退!」


その声で、人間たちは動いた。


ガランが盾で岩裂き獣を牽制する。


弓の男が矢を放つ。


魔力の女が光を散らす。


ラグドはニルを担ぎ上げた。


ニルは意識がある。


だが血がまだ流れている。


「すみ、ません」


ニルがかすれた声で言う。


「喋るな」


ラグドは短く返す。


ガランが最後に岩裂き獣を押し、全員が通路を下がる。


戦闘は終わっていない。


岩裂き獣はまだ生きている。


だが、人間たちは逃げることを選んだ。


目的が変わったのだ。


討伐ではなく、生還。


ニルを運ぶ。


グレイは天井の影から、それを見ていた。


人間たちが去る。


血の匂いが線を引く。


追える。


ニルの血。


ガランの血。


どちらも新しい。


追えば、隠れて舐められるかもしれない。


死体ではない。


だが、血痕は落ちる。


また記憶が見えるかもしれない。


グレイの身体がそちらへ動きかけた。


その時、下で岩裂き獣が呻いた。


まだいる。


前脚から血を流している。


グレイが噛んだ場所。


そこから濃い魔物の血が流れている。


岩裂き獣は人間を追えない。


傷と目の痛みで混乱している。


だが、その血も強い。


食えば力になる。


岩を裂く爪。


外殻。


前脚の筋力。


グレイは、人間の血の方を見た。


次に、岩裂き獣を見た。


人間を追うか。


魔物を食うか。


ニルの血を追えば、また地上が見えるかもしれない。


帰りたいが見えるかもしれない。


だが、近づけば人間に見つかる。


血の衝動に飲まれるかもしれない。


岩裂き獣は危険だが、弱っている。


食えれば力になる。


グレイは牙を噛み合わせた。


人間を追うな。


まだ駄目だ。


そう決める。


そして、岩裂き獣へ向いた。


人間を助けたのか。


自分でも分からない。


ただ、結果として人間は逃げた。


ニルは生きている。


その血は遠ざかる。


グレイは、それを追わなかった。


代わりに、傷ついた岩裂き獣を観察した。


まだ強い。


正面から行けば殺される。


だが、前脚を負傷している。


目も片方潰れている。


人間たちが作った傷。


自分が作った傷。


使える。


グレイは天井から岩裂き獣の背後へ回った。


岩裂き獣は鼻を鳴らし、血の匂いと混乱でこちらを探す。


グレイは自分の体液を少しだけ壁へ擦りつけた。


岩裂き獣がそちらを見る。


その隙に、逆方向から落ちる。


狙いは、すでに傷ついた前脚の付け根。


噛む。


深く。


岩裂き獣が暴れる。


爪が通路を裂く。


黒岩が砕ける。


グレイはすぐ離れる。


尾はない。


しかし体当たりが来る。


避ける。


壁へ上がる。


また落ちる。


傷を広げる。


一撃で殺そうとしない。


人間たちが削った相手を、さらに少しずつ弱らせる。


岩裂き獣が吠える。


血が増える。


動きが鈍る。


グレイは恐怖を使う。


爪が当たれば裂ける。


その恐怖が、相手の距離を測らせる。


前脚の振り上げ。


踏み込み。


傷の痛みによる遅れ。


全て見る。


そして噛む。


何度も。


やがて、岩裂き獣が片膝のように崩れた。


グレイはその瞬間を逃さなかった。


首の下。


外殻の切れ目。


人間の矢が刺さっていた近く。


そこへ牙を入れる。


硬い。


だが、血が出ている。


開いている。


深く噛む。


岩裂き獣が最後の力で暴れる。


グレイの外皮が壁に叩きつけられる。


痛い。


だが離さない。


首元を裂く。


血が溢れる。


温かい。


濃い。


魔物の血。


人間ではない。


それでも強い。


岩裂き獣の動きが弱くなる。


やがて、止まった。


グレイはしばらく牙を抜かなかった。


完全に死んだことを確認する。


それから離れる。


勝った。


一匹で倒したわけではない。


人間が傷つけた。


自分はその後を利用した。


それでも、倒した。


グレイは岩裂き獣の死体を見た。


大きい。


食べきれない。


血の匂いも強い。


長くいれば他の魔物が来る。


しかし、食べられるだけ食べるべきだ。


前脚。


爪の付け根。


筋肉。


岩を裂く力。


グレイはそこへ噛みついた。


硬い。


だが、濃い。


《岩裂き獣を捕食しました》


《前肢筋力が上昇しました》


《爪部強化の素質が発現しかけています》


《外皮硬化が微量上昇しました》


《戦闘介入行動を確認》


戦闘介入行動。


グレイは、肉を噛みながらその言葉を聞いた。


介入。


自分は戦いに割り込んだ。


人間を助けるような形で。


なぜ。


ニルの血に引かれたからか。


人間が死ねば血と記憶を得られるのに、それを失うのが惜しかったからか。


ラグドたちが死ぬと、観察対象が減るからか。


それとも、本当にニルを死なせたくなかったのか。


分からない。


分からないまま、グレイは岩裂き獣の肉を食べた。


人間の血の匂いは、もうかなり遠い。


追える。


まだ追える。


けれど追わない。


魔物の肉を食べる。


人間ではなく。


それが今の選択だった。


《人族追跡衝動への抵抗を確認》


《共感反応、微弱》


《未確定進化経路に記録されます》


グレイは食べる動きを止めた。


共感。


またその言葉。


ニルの血。


帰りたい。


人間たちが彼を守る姿。


それを見て、何かが動いた。


だから追わなかった。


だから、岩裂き獣を選んだ。


本当にそうなのか。


分からない。


だが、記録された。


この身体は、曖昧な感情すら材料にする。


グレイは、前脚の筋肉をさらに食べた。


食べられるだけ食べ、残りは隠さない。


大きすぎる。


隠しても意味がない。


強い魔物が来る前に離れる。


ただし、爪の一部だけは噛み砕いた。


岩を裂く爪。


硬い。


苦い。


だが、力になる。


《爪部強化が微量進行しました》


グレイは死体から離れた。


口元は血で濡れている。


岩裂き獣の血。


人間の血ではない。


それでも、血の匂いは強い。


水で洗う必要がある。


グレイは別の道を選んだ。


人間が逃げた方ではない。


下層の水場へ向かう道。


人間の血から離れる道。


進みながら、何度もニルの声を思い出した。


すみません。


喋るな。


ラグドの短い返事。


人間たちは、きっとニルを連れて帰る。


帰る。


その言葉がまた胸に残る。


ニルには帰る場所がある。


だからラグドたちは運ぶ。


死なせないように。


グレイには帰る場所がない。


だから、どこへでも行ける。


どこへでも変われる。


それは自由なのか。


それとも、ただ何も持っていないだけなのか。


分からない。


水場に着くと、グレイは口元を洗った。


岩裂き獣の血が水に溶ける。


青白い光に赤黒い筋が揺れる。


水面には、黒い外皮の自分が映っている。


グレイはその姿を見た。


人間を追わなかった。


魔物を食べた。


人間の戦いに介入した。


自分の行動が分からない。


ただ生きるためだけなら、もっと単純に動けるはずだった。


弱った人間を追えばいい。


血を舐めればいい。


死んだら食べればいい。


その方が情報も力も得られるかもしれない。


でも、しなかった。


グレイは水面へ向かって小さく口を動かした。


「グレイ」


声は水音に紛れた。


自分を繋ぐ音。


それがなければ、今の行動の意味も全部、捕食衝動に飲まれてしまいそうだった。


遠くで、人間の足音はもう聞こえない。


ニルは生きているだろうか。


分からない。


でも、たぶん生きている。


ラグドが運んでいた。


ガランが守っていた。


魔力の女が道を開いていた。


人間はそういう群れだ。


弱った者を抱えて逃げる。


それは下層では不利なはずなのに、彼らはそうする。


グレイは、その理由をもっと知りたいと思った。


同時に、近づけば血を欲しがる自分も知っている。


だから、今は離れる。


水を飲み、血の匂いを落とし、黒岩の通路へ戻る。


グレイは静かに歩き出した。


後ろには岩裂き獣の死体がある。


やがて他の魔物が集まるだろう。


人間は戻ってこない。


少なくとも、すぐには。


グレイは狩った。


だが、喰わなかったものもある。


人間の血。


ニル。


それを追わなかったことが、胸の奥で小さく残っていた。


それは弱さか。


それとも、まだ自分が自分でいるための何かなのか。


答えはない。


ただ、頭の奥で声が最後に響いた。


《捕食者としての行動範囲が拡張しています》


《非捕食選択が継続記録されています》


《未確定進化経路に影響します》


グレイは、その声を聞きながら黒岩の影へ消えた。


捕食者になった。


だが、何でも喰うわけではない。


少なくとも、今はまだ。

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