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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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第30話『記憶酔い』

水の味が、変だった。


鉱毒を含んだ下層の水。


苦く、冷たく、舌を痺れさせる味。


それは何度も飲んできた。


喉を焼く感覚も、腹の奥で鈍く熱へ変わる感覚も、もう知っている。


だが、今は違った。


水を飲むたびに、別の味が混じる。


酒。


焼いた肉。


塩気のある汁。


硬いパン。


甘い果実。


知らないはずの味が、口の奥に浮かんでは消える。


グレイは、水場の縁で身体を低く伏せていた。


黒い外皮に水滴がついている。


口元は何度も洗った。


牙の間も、岩に擦りつけた。


舌のような器官も、水に何度も浸した。


それでも、人間の味は消えなかった。


レオン。


その名前が、ずっと頭の奥にある。


人間の死体を食べた。


血ではない。


血痕でもない。


肉を。


骨に近い筋を。


温かい命の残りを。


名前を知った上で、食べた。


その事実が、腹の中で重く沈んでいる。


グレイは目を閉じた。


だが、閉じると洞窟が消える。


黒岩ではなく、木の天井。


青白い結晶ではなく、揺れる灯り。


水音ではなく、人間の笑い声。


誰かが木の器を置く音。


酒場。


その言葉が浮かぶ。


レオンの記憶だ。


自分のものではない。


分かっている。


なのに、妙に近い。


まるで、自分がそこにいたように感じる。


木の椅子。


粗い机。


油の匂い。


汗。


酒。


笑い声。


誰かが肩を叩く。


「おい、レオン」


振り返る。


違う。


振り返ったのはレオンだ。


自分ではない。


グレイは目を開けた。


黒岩の水場が戻る。


冷たい空気。


青白い光。


下層の匂い。


自分は洞窟にいる。


自分はグレイ。


グレイ。


グレイ。


何度も内側で呼ぶ。


だが、少し気を抜くと別の名前が入り込む。


レオン。


ハルク。


知らない人間。


弟。


病気。


金。


依頼。


下層。


帰る。


戻る。


戻らせる。


それらの断片が、消えずに漂っている。


グレイは水場から離れた。


水を飲んでも落ち着かない。


むしろ、水面を見ると、自分の顔が変に見えた。


黒い外皮。


鋭い牙。


長い脚。


魔物の姿。


それなのに、頭の奥には人間の手の感覚がある。


剣を握る手。


短剣の柄を握る手。


酒の器を持つ手。


仲間の肩を叩く手。


手。


自分には、人間の手はない。


前脚がある。


爪がある。


岩を掴む脚がある。


それなのに、指の感覚がある。


存在しない指が、何かを握ろうとしている。


グレイは前脚を見た。


黒い節。


鋭い爪。


人間の指ではない。


だが、記憶の中では指が動く。


剣を振る。


汗を拭う。


誰かへ金貨を渡す。


「これで薬を買え」


違う。


自分ではない。


レオンだ。


グレイは、黒岩の壁に頭を押しつけた。


痛み。


冷たさ。


現実の感覚。


それにしがみつく。


ここは洞窟。


自分は魔物。


自分はグレイ。


レオンではない。


レオンを食べた。


だから、レオンの記憶がある。


それだけ。


それだけのはずだ。


だが、腹の奥から別の感情が湧く。


ハルクは逃げたか。


弟は薬を買えたか。


約束した酒はどうなる。


戻れない。


戻れない。


帰れない。


その感情が、自分のもののように痛い。


グレイには弟はいない。


酒を飲んだこともない。


地上の酒場へ行ったこともない。


約束などしたことがない。


それでも、後悔がある。


レオンの後悔。


自分のものではない後悔。


それが、肉と一緒に入ってしまった。


《記憶酔いが進行しています》


頭の奥で声がした。


いつもの声。


淡々としている。


その声だけは、レオンの記憶に混ざらず響いた。


《自我境界の揺らぎを確認》


《人族記憶片の処理が追いついていません》


《安静を推奨》


安静。


グレイは、その言葉に少しだけ苛立ちを覚えた。


安静にできる場所があるなら苦労はない。


巣はある。


だが、今は巣へ戻るのが怖かった。


レオンの死体を押し込んだ裂け目は、巣に近すぎる。


匂いが残っているかもしれない。


戻れば、また食べたくなるかもしれない。


それに、レオンの記憶を抱えたまま巣へ戻れば、自分の場所までレオンに汚染されるような気がした。


巣はグレイの場所だ。


戻る場所。


自分の匂いがある場所。


そこに人間の記憶を持ち込みたくない。


だが、どこへ行っても記憶はついてくる。


腹の中にあるから。


血肉として、もう自分の内側に入っているから。


グレイは水場の周囲を歩いた。


足取りが乱れる。


時々、前脚の置き方を間違える。


人間の歩き方の記憶が混ざる。


二本の脚で立つ感覚。


重心を腰に置く感覚。


剣を抜く時の肩の動き。


自分の身体には合わない。


それなのに、記憶がその動きを求める。


結果、グレイの八本の脚が一瞬迷う。


黒岩の上で体勢が崩れる。


グレイは壁へ張りついた。


動くな。


今、動けば危険だ。


記憶が落ち着くまで、隠れろ。


そう判断する。


だが、どこへ。


巣。


水場の横穴。


脱皮した裂け目。


人間の罠があった通路。


岩裂き獣の死体の近く。


どこも危険に思える。


下層全体が、知らない場所のように見えた。


レオンの記憶には、洞窟の地図も少しある。


人間用の道。


合流地点。


帰還路。


ラグドたちが使う目印。


それらが頭に浮かぶ。


同時に、グレイ自身の地図もある。


匂いの道。


水場。


餌場。


巣。


上位種の水場。


追跡獣の縄張り。


二つの地図が重なる。


重なり、ずれ、頭の奥で歪む。


グレイは思わず低い音を漏らした。


苦しい。


情報が多すぎる。


人間の目印と、魔物の匂い道。


人間の帰還路と、グレイの逃げ道。


人間の合流地点と、魔物の縄張り。


全部が別の意味を持っている。


同じ通路なのに、見え方が違う。


レオンはそこを帰る道として覚えていた。


グレイはそこを危険な人間の匂いとして覚えている。


どちらが正しい。


どちらも正しい。


それが苦しい。


グレイは、近くの細い横穴へ入った。


水場から少し離れた場所。


匂いは薄い。


生き物の気配も少ない。


完全な安全ではないが、今はここしかない。


奥へ身体を押し込み、外から見えない位置で丸まる。


黒い外皮が岩に触れる。


冷たい。


その感覚を頼りにする。


ここは洞窟。


自分はグレイ。


レオンではない。


しばらくすると、別の記憶が来た。


幼いレオン。


木剣を振っている。


年上の誰かに簡単に転ばされる。


土の匂い。


悔しさ。


笑い声。


「立て。負けたまま寝るな」


その声。


誰かの師匠。


レオンは立つ。


膝が痛い。


悔しい。


でも楽しい。


グレイは、その記憶に引き込まれかけた。


立つ。


二本足で。


違う。


グレイは四肢ではなく、多脚で岩に伏せている。


立つという感覚が違う。


だが、負けたまま寝るな、という言葉だけが残る。


それは妙に理解できた。


追跡獣から逃げた時。


上位種から逃げた時。


巣を失った時。


いつも、動くしかなかった。


負けたまま寝れば死ぬ。


洞窟でも同じだ。


人間の言葉なのに、生存の感覚と繋がる。


グレイは小さく身体を震わせた。


人間の記憶は危険だ。


だが、全部が毒ではない。


使えるものもある。


その考えが浮かぶ。


剣の振り方。


足運び。


仲間の合図。


道の覚え方。


薬草の匂い。


魔物への対処。


レオンの記憶には、それらがある。


食べたから得た。


人間を喰ったから。


なら、これは力になる。


そう身体が囁く。


もっと喰えば、もっと得られる。


その囁きに、グレイは強く牙を噛んだ。


駄目だ。


そうやって、また人間を食べる理由を作ろうとしている。


知識のため。


記憶のため。


力のため。


理解のため。


理由はいくらでも作れる。


だが、レオンを食べた後のこの苦しさを忘れるな。


自分が薄れる。


人間の記憶に飲まれる。


人間を喰うのは、ただ力を得ることではない。


誰かの帰りたいを、自分の腹に入れることだ。


グレイは、横穴の奥で何度も自分の名前を繰り返した。


グレイ。


グレイ。


グレイ。


レオンではない。


ニルでもない。


ハルクでもない。


グレイ。


その音だけが、自分を今ここに繋ぎ止める。


どれくらい時間が経ったのか分からない。


下層には昼も夜もない。


ただ、空気の流れと魔物の動きが少し変わるだけだ。


グレイがじっとしていると、外の通路に小さな気配が来た。


黒鼠。


一匹。


水を探している。


グレイの身体は反応した。


狩れる。


だが、腹は人間の肉で重い。


空腹ではない。


それでも、黒鼠の肉を食べたいとは思わなかった。


人間の記憶が濃すぎて、普通の肉への欲求が鈍っている。


いや、違う。


普通の肉では薄いと感じている。


そのことに気づき、グレイはぞっとした。


人間の味は濃すぎた。


魔物の肉よりも、ずっと。


栄養だけではない。


記憶。


感情。


言葉。


名前。


それらが詰まっている。


一度それを知ると、魔物の肉がただの肉に思える。


それは危険だった。


捕食幼種の腹が、次も人間を求めるようになるかもしれない。


グレイは黒鼠を見逃した。


食べない。


今は食べない。


黒鼠は水場へ向かい、やがて足音が遠ざかった。


《捕食機会を放棄しました》


《人族捕食後の嗜好変化を確認》


《捕食衝動、変質中》


嗜好変化。


捕食衝動、変質中。


声が告げる。


グレイは、横穴の奥で小さく震えた。


やはり変わっている。


身体が、人間を特別な餌として覚え始めている。


味。


記憶。


情報。


それらを求める方向へ。


どうすればいい。


人間を食べなければいい。


そう思う。


だが、もしまた人間の死体が目の前にあったら。


もし、レオンのようにもう助からない人間がいたら。


もし、人間の血が流れていたら。


止まれるか。


分からない。


それに、食べないだけで済むのか。


すでに一度食べた。


身体は覚えている。


味も、力も、記憶も。


忘れられない。


グレイは、横穴から少しだけ外を覗いた。


通路は静か。


水場の黒い水が揺れている。


その向こうに、上へ続く通路がある。


レオンの記憶では、そこを進めば人間の合流地点へ近づく。


さらに上には、地上へ繋がる道がある。


空。


光。


風。


グレイは、その方向を見てしまった。


地上。


人間がたくさんいる場所。


血と声と名前に満ちた場所。


もし行けば、どうなる。


人間に殺されるか。


捕まるか。


それとも、食べるのか。


考えただけで、腹の奥が反応する。


グレイはすぐに視線を逸らした。


駄目だ。


今は駄目だ。


地上を考えるな。


人間を考えるな。


巣へ戻る。


自分の匂いのある場所へ。


人間の記憶に飲まれる前に、自分の場所へ戻る。


そう決めた。


グレイは横穴を出た。


まだ足取りは不安定だ。


時々、レオンの歩き方の記憶が混ざる。


だが、少しずつ自分の身体に意識を戻す。


脚は八本。


爪は黒岩を掴む。


腹は低い。


背中は影に溶ける。


牙は前にある。


人間の手はない。


剣もない。


自分は這う。


歩くのではない。


岩を登る。


人間ではない。


その確認を一つずつ行いながら、グレイは巣へ向かった。


途中、レオンの死体を隠した裂け目の近くを通る。


匂いが残っていた。


血。


人間。


自分の噛み跡。


別の魔物の匂いもある。


おそらく、すでに一部を食われた。


グレイは足を止めた。


近づくな。


そう思う。


だが、裂け目の奥にレオンの残りがある。


食べかけ。


自分が途中でやめたもの。


それを他の魔物が食っているかもしれない。


その考えで、胸の奥がざわつく。


嫌だ。


なぜ嫌なのか。


餌を取られるからか。


レオンを食われるからか。


自分が食べた人間を他の魔物に渡したくないのか。


分からない。


だが、その感情は強かった。


グレイは裂け目へ近づきかけた。


その瞬間、レオンの記憶がまた流れる。


ハルク、逃げろ。


頼む。


帰れ。


戻れ。


グレイは止まった。


駄目だ。


そこへ行けばまた飲まれる。


食べるか、守るか、埋めるか。


何をするにしても、今は危険だ。


自分が自分ではなくなる。


グレイは裂け目から離れた。


巣へ向かう。


自分の場所へ。


骨と殻を置いた入口が見えてくる。


そこへ戻った瞬間、少しだけ匂いが安定した。


グレイの匂い。


黒岩喰いの殻。


岩裂き獣の爪。


腐肉獣の骨。


自分の痕跡。


レオンではない。


人間ではない。


グレイの場所。


グレイは巣の奥へ入り、身体を丸めた。


ようやく、少しだけ息ができる気がした。


頭の奥ではまだ記憶が揺れている。


だが、巣の匂いがそれを少し押さえる。


自分を自分に戻す匂い。


これが帰る場所なのか。


そう思いかけて、グレイは戸惑った。


帰る場所。


ニルの血で知った言葉。


レオンの肉でも知った感情。


それを、自分の巣に重ねてしまう。


巣は巣だ。


家ではない。


そう思う。


だが、戻ると落ち着く。


自分の匂いがある。


外より安全。


そこへ帰る。


その感覚は、人間の帰りたいと少しだけ似ているのかもしれない。


グレイは、巣の奥で目を閉じた。


すると、今度はレオンの記憶ではなく、グレイ自身の記憶が浮かんだ。


白い幼生だった頃。


腐肉を齧った。


同族を食べた。


水場で人間を見た。


グレイラーヴァと呼ばれた。


巣を作った。


失った。


下層へ逃げた。


上位種に追われた。


捕食幼種へ進化した。


餌場を作った。


人間の血を舐めた。


名前を覚えた。


巣を作った。


人を食べた。


それらが並ぶ。


自分の記憶。


短い。


レオンの記憶より、ずっと短い。


人間一人の人生に比べれば、自分の時間はあまりにも短い。


だが、確かにある。


グレイは、それにしがみついた。


自分にも記憶がある。


食べたものではない。


自分で生きた記憶。


それを忘れなければ、レオンにはならない。


グレイは小さく口を動かした。


「グレイ」


声が巣の中に響く。


前よりも少し人間の発音に近い。


それが怖かった。


人間を食べたからか。


喉が言葉を覚えたのか。


それとも、レオンの記憶が舌の使い方を教えたのか。


分からない。


でも、その音は必要だった。


「グレイ」


もう一度。


自分の名。


仮の名。


人間がつけた危険個体の呼称から削った音。


それでも今は、それが自分を繋ぐ。


頭の奥で声が響いた。


《記憶酔いが安定化に向かっています》


《人族記憶片の一部を保持》


《不要記憶の沈殿を開始》


《言語模倣能力が微量上昇しました》


《自我保持行動を確認》


自我保持。


グレイは、その言葉を理解しきれなかった。


だが、自分の名を呼ぶことが、何かを保つ行動なのだと分かった。


記憶は完全には消えない。


レオンの断片は残る。


地上の光も、酒場の匂いも、ハルクの声も、弟への金も。


全部は消えない。


だが、沈んでいく。


表面からは少しずつ遠ざかる。


グレイは、その沈んでいく記憶を感じながら、ゆっくり身体を丸め直した。


腹の奥はまだ重い。


人間の肉を消化している。


消化するたびに、また何かが身体へ入る気がする。


力。


言葉。


記憶。


嗜好。


危険なものばかりだ。


それでも、もう吐き出せない。


食べたものは、自分になる。


レオンも、もう一部は自分になった。


その事実を受け入れるには、まだ時間が必要だった。


巣の外で、小さな魔物が動く音がした。


今なら狩れる。


だが、グレイは動かなかった。


今は食べない。


人間の味が薄れるまで。


自分の匂いが戻るまで。


巣の中で、ただ静かにいる。


生きるために。


自分でいるために。


暗闇の中、グレイは眠りに落ちかけた。


その直前、レオンの記憶の奥から、誰かの声が小さく聞こえた。


「帰ってこいよ」


グレイは目を開けた。


巣の暗闇。


黒岩。


骨。


殻。


自分の匂い。


帰る場所。


その言葉が、少しだけ違う意味を持ち始めていた。


グレイは、もう一度だけ小さく呟いた。


「グレイ」


今度は、レオンの声は重ならなかった。


巣の中に残ったのは、黒い魔物のかすれた声だけだった。

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