第19話『餌場』
水場は、静かだった。
いや、静かに見えただけだ。
黒岩の割れ目から染み出した水が、浅い窪みに溜まっている。
青白い結晶の光が水面に映り、ゆっくり揺れている。
その周囲には、細かな骨片が散っていた。
小型魔物の骨。
薄い甲殻。
黒い毛。
割れた牙。
古いものもあれば、新しいものもある。
血の匂いは薄い。
腐敗も強くない。
だが、死の痕跡は確かに残っていた。
ここは、何かがよく死ぬ場所だ。
グレイラーヴァは、壁の影に張りついたまま水場を見下ろしていた。
体を低くし、外皮を黒岩に馴染ませる。
今の体色なら、動かなければほとんど岩と区別がつかない。
青白い光が当たると、少しだけ輪郭が浮かぶ。
だが、暗い影にいれば見つかりにくい。
嗅覚はよく働いていた。
水。
鉱毒。
古い血。
小型魔物の足跡。
虫型魔物の群れ。
黒岩喰い。
黒鼠。
骨喰い虫。
それから、もっと小さな柔らかい魔物。
ここには弱い魔物が集まる。
理由は水だ。
下層では、水はどこにでもあるわけではない。
水があっても、毒が強すぎる場所が多い。
上位種が潜む水場もある。
黒い獣が縄張りにしている場所もある。
その中で、この水場は比較的毒が薄い。
しかも、通路が複数繋がっている。
小型魔物が来やすい。
逃げ道も多い。
だから、ここには弱い魔物が集まる。
そして、弱い魔物が集まる場所には、それを狙う魔物も集まる。
餌場。
グレイラーヴァは、その言葉を思い浮かべた。
水場ではない。
餌場。
自分にとって。
そう考えた瞬間、腹の奥が静かに熱を持った。
食える。
ここなら狩れる。
強い魔物の縄張りではない。
少なくとも、今は。
小型魔物が多い。
岩陰が多い。
天井も低すぎず、高すぎない。
自分が張りつける場所がある。
水の音で、多少の足音は紛れる。
血の匂いも、鉱毒と水で少し流れる。
悪くない。
いや、かなり良い。
グレイラーヴァは、しばらく動かなかった。
すぐに飛び出してはいけない。
この場所を知る必要がある。
どの道から何が来るか。
どこに隠れられるか。
どこで殺せば血の匂いが広がりにくいか。
死体をどこへ引きずればいいか。
大型魔物が来た時、どこへ逃げるか。
それを覚えなければならない。
餌場を使うには、餌場を読む必要がある。
グレイラーヴァは壁の上をゆっくり移動した。
水場の周囲を一周するように。
通路は四つ。
一つは今来た道。
比較的狭く、黒岩の亀裂が多い。
自分なら通れるが、人間や大型魔物には厳しい。
逃げ道に使える。
二つ目は広めの通路。
足跡が多い。
小型魔物がよく通る。
だが広い分、追跡者も入りやすい。
三つ目は水の流れに沿った細道。
滑りやすい。
鉱毒が少し強い。
足元を取られやすいが、自分は壁を使えば移動できる。
四つ目は上へ続く斜面。
人間が来るならここかもしれない。
靴跡の古い匂いが、ほんのわずかに残っている。
グレイラーヴァは、その匂いを確認してすぐに離れた。
人間の匂いを追いすぎるのは危険だ。
匂いに飲まれる。
今はこの餌場を覚える。
水場の上には、低い天井があった。
黒岩が複雑に突き出し、結晶がいくつか生えている。
影が多い。
張りつく場所も多い。
奇襲に向く。
ただし、結晶に触れると音が鳴る。
硬い澄んだ音。
それは避ける必要がある。
水場の端には、少し高くなった岩棚があった。
そこは血が流れにくい。
小型魔物を引きずり込めば、食事場所にできるかもしれない。
さらにその奥に、細い亀裂。
死体の一部を隠すには良い。
ただし、匂いが溜まりすぎると危険。
グレイラーヴァは、その全てを頭に入れた。
巣ではない。
ここで眠るつもりはない。
だが、狩場として使える。
しばらくすると、最初の獲物が来た。
黒鼠。
単独。
水を飲みに来たのだろう。
鼻を動かしながら、慎重に水場へ近づく。
怪我はない。
若い個体か。
動きは速そうだ。
グレイラーヴァは天井の影に身を沈めた。
黒鼠は何度も周囲を確認している。
上も見る。
鼻も使う。
簡単ではない。
だが、見つかってはいない。
黒鼠が水場へ口をつける。
その瞬間、グレイラーヴァは動かなかった。
まだ。
飲み始めた直後は、警戒が残っている。
一口。
二口。
三口。
黒鼠の耳の動きが少し緩む。
今。
グレイラーヴァは落ちた。
真上からではない。
少し斜め。
影から水音へ紛れるように。
前脚で背を押さえ、首元へ牙を入れる。
黒鼠が跳ねる。
速い。
だが、逃がさない。
顎が深く入る。
以前より力がある。
黒鼠の脚が水を叩く。
ぱしゃり。
音が出る。
まずい。
グレイラーヴァは噛みついたまま、黒鼠を水場から岩棚へ引きずった。
血が水へ広がる前に。
黒鼠が暴れる。
だが、短い。
首元の血管を裂く。
動きが止まる。
グレイラーヴァは、そのまま岩棚の影まで運んだ。
食べる。
筋肉。
血。
内臓。
骨髄。
必要な部分を選ぶ。
短時間で。
《黒鼠魔物を捕食しました》
《脚力が微量上昇しました》
《嗅覚が微量上昇しました》
《捕食効率が微量上昇しました》
声が響く。
グレイラーヴァは食べながら水場を見た。
血は少しだけ水に落ちた。
だが、流れで薄まっている。
匂いは出たが、致命的ではない。
他の魔物が近づく気配はまだない。
悪くない。
次は、水場ではなく岩棚の手前で仕留める方がいい。
水を叩かれると音が出る。
獲物が飲む位置を誘導できれば、もっと静かに殺せる。
誘導。
その言葉が自然に出る。
グレイラーヴァは、黒鼠の食べ残しを亀裂へ押し込み、残った血を岩粉で擦った。
完全には消えない。
だが薄まる。
その後、岩棚の上に黒鼠の内臓の小さな欠片を置いた。
匂いを出すため。
弱い魔物を水場ではなく岩棚側へ誘うため。
罠ではない。
餌だ。
いや、罠でもある。
グレイラーヴァは、その区別が曖昧になっていることに気づいた。
餌を置く。
近づいたものを狩る。
それは罠だ。
だが、ただの餌場の一部でもある。
上層で作った巣の鳴子とは違う。
ここではもっと自然に、環境の一部のように使う。
しばらく待つ。
次に来たのは、小さな甲殻魔物だった。
水ではなく、岩棚に置いた内臓の匂いに反応している。
成功。
グレイラーヴァは天井で待った。
甲殻魔物が内臓へ近づく。
食べようと頭を下げる。
背中の甲殻は硬い。
だが、首の隙間が見える。
落ちる。
噛む。
押さえる。
殺す。
さっきより静かだった。
水を叩かない。
血も岩棚の上に留まる。
グレイラーヴァは、短く食べて残りを亀裂へ押し込んだ。
《小型甲殻魔物を捕食しました》
《外皮硬化が微量上昇しました》
《捕食経験値を獲得しました》
また熱。
腹の奥が少し満ちる。
だが、すぐに次を求める。
グレイラーヴァは、置いた内臓がなくなった場所を見た。
もっと置けば、また来る。
死体の一部を餌にして次の獲物を呼ぶ。
それを繰り返せば、効率よく狩れる。
喰える。
強くなれる。
その考えが浮かぶ。
そして、グレイラーヴァは少しだけ楽しいと感じた。
楽しい。
その感情に気づいた瞬間、身体が固まった。
狩りが。
楽しい。
効率よく獲物を誘い、位置を読み、落ち、噛み、殺す。
音を出させず、血を流しすぎず、次の餌へ繋げる。
その流れが上手くいったことに、気持ちよさを感じた。
それは空腹が満たされる快感だけではない。
成功した。
支配した。
この餌場を使えている。
獲物が自分の思った通りに動いた。
そのことが、楽しい。
グレイラーヴァは、岩棚の上で動けなくなった。
怖い。
腐肉を食べて美味いと思った時に似ている。
同族の味を覚えた時に似ている。
自分の身体を便利だと思った時に似ている。
また一つ、嫌なものが自然になった。
狩りの成功を楽しいと思った。
捕食者として、正しい感情なのかもしれない。
だが、それを認めることが怖かった。
グレイラーヴァは、牙についた体液を岩に擦りつけた。
水を飲む。
口を洗う。
それでも、感情は消えない。
楽しかった。
その事実だけが残る。
グレイラーヴァは、自分に言い聞かせた。
生きるためだ。
効率よく狩るのは生存のため。
楽しいかどうかは関係ない。
だが、身体は答えた。
楽しい方が、続けられる。
続ければ、生きられる。
その答えが正しすぎて、嫌だった。
次の獲物は、二匹で来た。
黒岩喰いの幼体。
小さい。
岩粉を食べながら水場に近づいている。
一匹ずつなら狩れる。
二匹同時は少し面倒だ。
だが、さっきの死骸の匂いに反応して、片方が岩棚へ寄った。
もう片方は水場へ。
分かれた。
グレイラーヴァは、岩棚側を選んだ。
天井から落ちる。
首の隙間へ牙。
黒岩喰いの幼体は硬いが、黒岩喰いより弱い。
関節を噛む。
体液を飲む。
もう一匹が気づく前に、死体を影へ引く。
だが、水場側の一匹が振り返った。
音を感じたのか。
グレイラーヴァと目が合う。
逃げようとする。
逃がせば、別の魔物を呼ぶかもしれない。
いや、ただ逃げるだけかもしれない。
グレイラーヴァは、追った。
壁を走り、相手の進路を塞ぐ。
黒岩喰い幼体は水場へ逃げる。
グレイラーヴァは横から飛び、前脚で押さえた。
水が跳ねる。
少し音が出た。
まずい。
すぐに噛む。
殺す。
死体を引きずる。
水面に波紋が広がる。
通路の奥で、何かが反応した。
気配。
小型ではない。
中型。
この餌場に血と音が集まり始めている。
グレイラーヴァは、二匹目を全部食べず、すぐに岩棚の亀裂へ押し込んだ。
隠す。
血を擦る。
自分も影へ戻る。
待つ。
やってきたのは、細長い蛇型魔物だった。
以前食べた蛇より大きい。
水場の血の匂いに釣られたのだろう。
蛇は水面を舐めるように進む。
毒の匂い。
危険。
グレイラーヴァは天井の影で観察した。
戦うか。
逃げるか。
蛇は中型寄りだが、勝てない相手ではないかもしれない。
ただし、今の餌場で戦えば音が出る。
血も出る。
さらに大きな魔物を呼ぶ可能性がある。
それに、すでに食べた。
今すぐ必要な獲物ではない。
ここは見送る。
そう判断した。
蛇型魔物は水場の血を舐め、岩棚の方へ近づく。
亀裂に押し込んだ死体の匂いを嗅いでいる。
見つかる。
隠した獲物を食われる。
腹の奥で苛立ちが燃える。
自分の餌だ。
そう感じる。
だが、動かない。
無理に守れば危険。
狩場を維持することの方が大事だ。
蛇型魔物は亀裂に頭を入れ、黒岩喰い幼体の死体を引きずり出した。
食べる。
グレイラーヴァは天井からそれを見ていた。
奪われている。
また。
だが、生きている方がいい。
そう言い聞かせる。
蛇型魔物は死体を食べ終えると、水を飲み、やがて去っていった。
グレイラーヴァはまだ動かなかった。
完全に気配が消えるまで。
待つ。
待つ。
待つ。
その間、腹の奥の苛立ちが少しずつ冷えていく。
そして代わりに、別の理解が残った。
この餌場は使える。
だが、食いすぎると強い魔物が来る。
血を出しすぎると奪われる。
音を立てると危険。
餌を隠しても、匂いで見つかる。
なら、ここでは短く狩るべきだ。
連続して狩るなら、間隔を空ける。
死体を溜め込まない。
血を水に流しすぎない。
強い魔物が来たら、譲る。
餌場を守ろうとしすぎない。
ここは巣ではない。
自分の場所ではない。
使う場所だ。
その違いを覚える。
グレイラーヴァは天井から降りた。
水場の端へ近づき、少しだけ水を飲む。
毒は薄い。
冷たい。
体内の熱が落ち着く。
水面に、自分が映る。
黒灰色の外皮。
以前よりさらに輪郭が暗い。
水場の青白い光の中で、目の部分だけが微かに光っている。
グレイラーヴァは、その姿を見た。
もう幼生ではない。
その言葉が、自然に浮かんだ。
白く柔らかく、死肉に震えながら齧りついていたものではない。
共食いに震え、巣を作り、逃げ回っていたものでもない。
今は狩場を読み、獲物を誘い、血の匂いを管理し、強い魔物に餌を譲る判断をする。
捕食者。
そう呼ぶのが正しい。
グレイラーヴァは、自分の水面の姿を見つめた。
恐怖はある。
嫌悪もある。
だが、その二つの奥で、確かに認めている。
狩れる。
自分は、狩る側になった。
その自覚は、思ったよりも重かった。
誇らしいのか。
怖いのか。
分からない。
ただ、腹の奥は静かに満足していた。
それもまた怖かった。
水場から離れようとした時、ふと人間の匂いが流れてきた。
かなり遠い。
しかし、嗅覚が拾った。
薬草。
革。
金属。
そして、ほんの薄い血。
グレイラーヴァは身体を止めた。
餌場の匂いの中でも、人間の血は別だった。
わずかでも分かる。
強く意識を引く。
さっきまで小型魔物を狩って得た満足が、その匂い一つで揺らいだ。
人間。
追うか。
追わないか。
水場の狩りを続けるか。
グレイラーヴァは、牙を閉じた。
追わない。
今は追わない。
ここで人間の匂いを追えば、この餌場のことも、今得た理解も、全部血の衝動に塗りつぶされる。
そう思った。
だが、匂いは残る。
頭の奥に線を引く。
あの方向。
上へ続く斜面の先。
おそらく、低い声の男たちの調査経路。
グレイラーヴァは、そちらを見ないようにした。
水場の横の岩棚に戻り、少しだけ残っていた甲殻片を噛み砕く。
人間ではなく、魔物の殻。
苦い。
硬い。
だが力になる。
《餌場利用行動を確認》
《待ち伏せ効率が微量上昇しました》
《捕食効率が微量上昇しました》
《捕食衝動が活性化しています》
最後の声に、グレイラーヴァは動きを止めた。
捕食衝動が活性化している。
分かっている。
楽しかった。
狩ることが。
餌場を使うことが。
獲物が自分の計算通りに動いたことが。
その楽しさは、捕食衝動と繋がっている。
このまま狩り続ければ、もっと上手くなる。
もっと強くなる。
もっと楽しくなる。
そして、いつか何を狩っているのかなど気にしなくなるかもしれない。
グレイラーヴァは、水場を後にした。
ここは使える。
だが、長居しすぎると危険だ。
強い魔物も来る。
人間も来るかもしれない。
何より、自分がここを好きになりすぎる。
それが危険だった。
通路へ戻る前に、グレイラーヴァはもう一度水面を見た。
黒い外皮。
鋭い牙。
低い姿勢。
狩るための身体。
もう幼生ではない。
それを認める。
認めた上で、飲まれないようにする。
生きるために喰う。
喰うために生きるな。
その言葉を、何度も内側で繰り返す。
だが、通路の奥へ進みながら、グレイラーヴァの身体は次の獲物の匂いを探していた。
無意識に。
自然に。
当然のように。
その事実が、グレイラーヴァを震わせた。




