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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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19/45

第19話『餌場』

水場は、静かだった。


いや、静かに見えただけだ。


黒岩の割れ目から染み出した水が、浅い窪みに溜まっている。


青白い結晶の光が水面に映り、ゆっくり揺れている。


その周囲には、細かな骨片が散っていた。


小型魔物の骨。


薄い甲殻。


黒い毛。


割れた牙。


古いものもあれば、新しいものもある。


血の匂いは薄い。


腐敗も強くない。


だが、死の痕跡は確かに残っていた。


ここは、何かがよく死ぬ場所だ。


グレイラーヴァは、壁の影に張りついたまま水場を見下ろしていた。


体を低くし、外皮を黒岩に馴染ませる。


今の体色なら、動かなければほとんど岩と区別がつかない。


青白い光が当たると、少しだけ輪郭が浮かぶ。


だが、暗い影にいれば見つかりにくい。


嗅覚はよく働いていた。


水。


鉱毒。


古い血。


小型魔物の足跡。


虫型魔物の群れ。


黒岩喰い。


黒鼠。


骨喰い虫。


それから、もっと小さな柔らかい魔物。


ここには弱い魔物が集まる。


理由は水だ。


下層では、水はどこにでもあるわけではない。


水があっても、毒が強すぎる場所が多い。


上位種が潜む水場もある。


黒い獣が縄張りにしている場所もある。


その中で、この水場は比較的毒が薄い。


しかも、通路が複数繋がっている。


小型魔物が来やすい。


逃げ道も多い。


だから、ここには弱い魔物が集まる。


そして、弱い魔物が集まる場所には、それを狙う魔物も集まる。


餌場。


グレイラーヴァは、その言葉を思い浮かべた。


水場ではない。


餌場。


自分にとって。


そう考えた瞬間、腹の奥が静かに熱を持った。


食える。


ここなら狩れる。


強い魔物の縄張りではない。


少なくとも、今は。


小型魔物が多い。


岩陰が多い。


天井も低すぎず、高すぎない。


自分が張りつける場所がある。


水の音で、多少の足音は紛れる。


血の匂いも、鉱毒と水で少し流れる。


悪くない。


いや、かなり良い。


グレイラーヴァは、しばらく動かなかった。


すぐに飛び出してはいけない。


この場所を知る必要がある。


どの道から何が来るか。


どこに隠れられるか。


どこで殺せば血の匂いが広がりにくいか。


死体をどこへ引きずればいいか。


大型魔物が来た時、どこへ逃げるか。


それを覚えなければならない。


餌場を使うには、餌場を読む必要がある。


グレイラーヴァは壁の上をゆっくり移動した。


水場の周囲を一周するように。


通路は四つ。


一つは今来た道。


比較的狭く、黒岩の亀裂が多い。


自分なら通れるが、人間や大型魔物には厳しい。


逃げ道に使える。


二つ目は広めの通路。


足跡が多い。


小型魔物がよく通る。


だが広い分、追跡者も入りやすい。


三つ目は水の流れに沿った細道。


滑りやすい。


鉱毒が少し強い。


足元を取られやすいが、自分は壁を使えば移動できる。


四つ目は上へ続く斜面。


人間が来るならここかもしれない。


靴跡の古い匂いが、ほんのわずかに残っている。


グレイラーヴァは、その匂いを確認してすぐに離れた。


人間の匂いを追いすぎるのは危険だ。


匂いに飲まれる。


今はこの餌場を覚える。


水場の上には、低い天井があった。


黒岩が複雑に突き出し、結晶がいくつか生えている。


影が多い。


張りつく場所も多い。


奇襲に向く。


ただし、結晶に触れると音が鳴る。


硬い澄んだ音。


それは避ける必要がある。


水場の端には、少し高くなった岩棚があった。


そこは血が流れにくい。


小型魔物を引きずり込めば、食事場所にできるかもしれない。


さらにその奥に、細い亀裂。


死体の一部を隠すには良い。


ただし、匂いが溜まりすぎると危険。


グレイラーヴァは、その全てを頭に入れた。


巣ではない。


ここで眠るつもりはない。


だが、狩場として使える。


しばらくすると、最初の獲物が来た。


黒鼠。


単独。


水を飲みに来たのだろう。


鼻を動かしながら、慎重に水場へ近づく。


怪我はない。


若い個体か。


動きは速そうだ。


グレイラーヴァは天井の影に身を沈めた。


黒鼠は何度も周囲を確認している。


上も見る。


鼻も使う。


簡単ではない。


だが、見つかってはいない。


黒鼠が水場へ口をつける。


その瞬間、グレイラーヴァは動かなかった。


まだ。


飲み始めた直後は、警戒が残っている。


一口。


二口。


三口。


黒鼠の耳の動きが少し緩む。


今。


グレイラーヴァは落ちた。


真上からではない。


少し斜め。


影から水音へ紛れるように。


前脚で背を押さえ、首元へ牙を入れる。


黒鼠が跳ねる。


速い。


だが、逃がさない。


顎が深く入る。


以前より力がある。


黒鼠の脚が水を叩く。


ぱしゃり。


音が出る。


まずい。


グレイラーヴァは噛みついたまま、黒鼠を水場から岩棚へ引きずった。


血が水へ広がる前に。


黒鼠が暴れる。


だが、短い。


首元の血管を裂く。


動きが止まる。


グレイラーヴァは、そのまま岩棚の影まで運んだ。


食べる。


筋肉。


血。


内臓。


骨髄。


必要な部分を選ぶ。


短時間で。


《黒鼠魔物を捕食しました》


《脚力が微量上昇しました》


《嗅覚が微量上昇しました》


《捕食効率が微量上昇しました》


声が響く。


グレイラーヴァは食べながら水場を見た。


血は少しだけ水に落ちた。


だが、流れで薄まっている。


匂いは出たが、致命的ではない。


他の魔物が近づく気配はまだない。


悪くない。


次は、水場ではなく岩棚の手前で仕留める方がいい。


水を叩かれると音が出る。


獲物が飲む位置を誘導できれば、もっと静かに殺せる。


誘導。


その言葉が自然に出る。


グレイラーヴァは、黒鼠の食べ残しを亀裂へ押し込み、残った血を岩粉で擦った。


完全には消えない。


だが薄まる。


その後、岩棚の上に黒鼠の内臓の小さな欠片を置いた。


匂いを出すため。


弱い魔物を水場ではなく岩棚側へ誘うため。


罠ではない。


餌だ。


いや、罠でもある。


グレイラーヴァは、その区別が曖昧になっていることに気づいた。


餌を置く。


近づいたものを狩る。


それは罠だ。


だが、ただの餌場の一部でもある。


上層で作った巣の鳴子とは違う。


ここではもっと自然に、環境の一部のように使う。


しばらく待つ。


次に来たのは、小さな甲殻魔物だった。


水ではなく、岩棚に置いた内臓の匂いに反応している。


成功。


グレイラーヴァは天井で待った。


甲殻魔物が内臓へ近づく。


食べようと頭を下げる。


背中の甲殻は硬い。


だが、首の隙間が見える。


落ちる。


噛む。


押さえる。


殺す。


さっきより静かだった。


水を叩かない。


血も岩棚の上に留まる。


グレイラーヴァは、短く食べて残りを亀裂へ押し込んだ。


《小型甲殻魔物を捕食しました》


《外皮硬化が微量上昇しました》


《捕食経験値を獲得しました》


また熱。


腹の奥が少し満ちる。


だが、すぐに次を求める。


グレイラーヴァは、置いた内臓がなくなった場所を見た。


もっと置けば、また来る。


死体の一部を餌にして次の獲物を呼ぶ。


それを繰り返せば、効率よく狩れる。


喰える。


強くなれる。


その考えが浮かぶ。


そして、グレイラーヴァは少しだけ楽しいと感じた。


楽しい。


その感情に気づいた瞬間、身体が固まった。


狩りが。


楽しい。


効率よく獲物を誘い、位置を読み、落ち、噛み、殺す。


音を出させず、血を流しすぎず、次の餌へ繋げる。


その流れが上手くいったことに、気持ちよさを感じた。


それは空腹が満たされる快感だけではない。


成功した。


支配した。


この餌場を使えている。


獲物が自分の思った通りに動いた。


そのことが、楽しい。


グレイラーヴァは、岩棚の上で動けなくなった。


怖い。


腐肉を食べて美味いと思った時に似ている。


同族の味を覚えた時に似ている。


自分の身体を便利だと思った時に似ている。


また一つ、嫌なものが自然になった。


狩りの成功を楽しいと思った。


捕食者として、正しい感情なのかもしれない。


だが、それを認めることが怖かった。


グレイラーヴァは、牙についた体液を岩に擦りつけた。


水を飲む。


口を洗う。


それでも、感情は消えない。


楽しかった。


その事実だけが残る。


グレイラーヴァは、自分に言い聞かせた。


生きるためだ。


効率よく狩るのは生存のため。


楽しいかどうかは関係ない。


だが、身体は答えた。


楽しい方が、続けられる。


続ければ、生きられる。


その答えが正しすぎて、嫌だった。


次の獲物は、二匹で来た。


黒岩喰いの幼体。


小さい。


岩粉を食べながら水場に近づいている。


一匹ずつなら狩れる。


二匹同時は少し面倒だ。


だが、さっきの死骸の匂いに反応して、片方が岩棚へ寄った。


もう片方は水場へ。


分かれた。


グレイラーヴァは、岩棚側を選んだ。


天井から落ちる。


首の隙間へ牙。


黒岩喰いの幼体は硬いが、黒岩喰いより弱い。


関節を噛む。


体液を飲む。


もう一匹が気づく前に、死体を影へ引く。


だが、水場側の一匹が振り返った。


音を感じたのか。


グレイラーヴァと目が合う。


逃げようとする。


逃がせば、別の魔物を呼ぶかもしれない。


いや、ただ逃げるだけかもしれない。


グレイラーヴァは、追った。


壁を走り、相手の進路を塞ぐ。


黒岩喰い幼体は水場へ逃げる。


グレイラーヴァは横から飛び、前脚で押さえた。


水が跳ねる。


少し音が出た。


まずい。


すぐに噛む。


殺す。


死体を引きずる。


水面に波紋が広がる。


通路の奥で、何かが反応した。


気配。


小型ではない。


中型。


この餌場に血と音が集まり始めている。


グレイラーヴァは、二匹目を全部食べず、すぐに岩棚の亀裂へ押し込んだ。


隠す。


血を擦る。


自分も影へ戻る。


待つ。


やってきたのは、細長い蛇型魔物だった。


以前食べた蛇より大きい。


水場の血の匂いに釣られたのだろう。


蛇は水面を舐めるように進む。


毒の匂い。


危険。


グレイラーヴァは天井の影で観察した。


戦うか。


逃げるか。


蛇は中型寄りだが、勝てない相手ではないかもしれない。


ただし、今の餌場で戦えば音が出る。


血も出る。


さらに大きな魔物を呼ぶ可能性がある。


それに、すでに食べた。


今すぐ必要な獲物ではない。


ここは見送る。


そう判断した。


蛇型魔物は水場の血を舐め、岩棚の方へ近づく。


亀裂に押し込んだ死体の匂いを嗅いでいる。


見つかる。


隠した獲物を食われる。


腹の奥で苛立ちが燃える。


自分の餌だ。


そう感じる。


だが、動かない。


無理に守れば危険。


狩場を維持することの方が大事だ。


蛇型魔物は亀裂に頭を入れ、黒岩喰い幼体の死体を引きずり出した。


食べる。


グレイラーヴァは天井からそれを見ていた。


奪われている。


また。


だが、生きている方がいい。


そう言い聞かせる。


蛇型魔物は死体を食べ終えると、水を飲み、やがて去っていった。


グレイラーヴァはまだ動かなかった。


完全に気配が消えるまで。


待つ。


待つ。


待つ。


その間、腹の奥の苛立ちが少しずつ冷えていく。


そして代わりに、別の理解が残った。


この餌場は使える。


だが、食いすぎると強い魔物が来る。


血を出しすぎると奪われる。


音を立てると危険。


餌を隠しても、匂いで見つかる。


なら、ここでは短く狩るべきだ。


連続して狩るなら、間隔を空ける。


死体を溜め込まない。


血を水に流しすぎない。


強い魔物が来たら、譲る。


餌場を守ろうとしすぎない。


ここは巣ではない。


自分の場所ではない。


使う場所だ。


その違いを覚える。


グレイラーヴァは天井から降りた。


水場の端へ近づき、少しだけ水を飲む。


毒は薄い。


冷たい。


体内の熱が落ち着く。


水面に、自分が映る。


黒灰色の外皮。


以前よりさらに輪郭が暗い。


水場の青白い光の中で、目の部分だけが微かに光っている。


グレイラーヴァは、その姿を見た。


もう幼生ではない。


その言葉が、自然に浮かんだ。


白く柔らかく、死肉に震えながら齧りついていたものではない。


共食いに震え、巣を作り、逃げ回っていたものでもない。


今は狩場を読み、獲物を誘い、血の匂いを管理し、強い魔物に餌を譲る判断をする。


捕食者。


そう呼ぶのが正しい。


グレイラーヴァは、自分の水面の姿を見つめた。


恐怖はある。


嫌悪もある。


だが、その二つの奥で、確かに認めている。


狩れる。


自分は、狩る側になった。


その自覚は、思ったよりも重かった。


誇らしいのか。


怖いのか。


分からない。


ただ、腹の奥は静かに満足していた。


それもまた怖かった。


水場から離れようとした時、ふと人間の匂いが流れてきた。


かなり遠い。


しかし、嗅覚が拾った。


薬草。


革。


金属。


そして、ほんの薄い血。


グレイラーヴァは身体を止めた。


餌場の匂いの中でも、人間の血は別だった。


わずかでも分かる。


強く意識を引く。


さっきまで小型魔物を狩って得た満足が、その匂い一つで揺らいだ。


人間。


追うか。


追わないか。


水場の狩りを続けるか。


グレイラーヴァは、牙を閉じた。


追わない。


今は追わない。


ここで人間の匂いを追えば、この餌場のことも、今得た理解も、全部血の衝動に塗りつぶされる。


そう思った。


だが、匂いは残る。


頭の奥に線を引く。


あの方向。


上へ続く斜面の先。


おそらく、低い声の男たちの調査経路。


グレイラーヴァは、そちらを見ないようにした。


水場の横の岩棚に戻り、少しだけ残っていた甲殻片を噛み砕く。


人間ではなく、魔物の殻。


苦い。


硬い。


だが力になる。


《餌場利用行動を確認》


《待ち伏せ効率が微量上昇しました》


《捕食効率が微量上昇しました》


《捕食衝動が活性化しています》


最後の声に、グレイラーヴァは動きを止めた。


捕食衝動が活性化している。


分かっている。


楽しかった。


狩ることが。


餌場を使うことが。


獲物が自分の計算通りに動いたことが。


その楽しさは、捕食衝動と繋がっている。


このまま狩り続ければ、もっと上手くなる。


もっと強くなる。


もっと楽しくなる。


そして、いつか何を狩っているのかなど気にしなくなるかもしれない。


グレイラーヴァは、水場を後にした。


ここは使える。


だが、長居しすぎると危険だ。


強い魔物も来る。


人間も来るかもしれない。


何より、自分がここを好きになりすぎる。


それが危険だった。


通路へ戻る前に、グレイラーヴァはもう一度水面を見た。


黒い外皮。


鋭い牙。


低い姿勢。


狩るための身体。


もう幼生ではない。


それを認める。


認めた上で、飲まれないようにする。


生きるために喰う。


喰うために生きるな。


その言葉を、何度も内側で繰り返す。


だが、通路の奥へ進みながら、グレイラーヴァの身体は次の獲物の匂いを探していた。


無意識に。


自然に。


当然のように。


その事実が、グレイラーヴァを震わせた。

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