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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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18/48

第18話『匂い』

匂いが増えていた。


それに気づいた時、グレイラーヴァは狭い空洞の奥で身体を丸めていた。


眠っていたわけではない。


休んでいた。


黒岩喰いの硬い殻を砕いた顎はまだ鈍く痛み、鉱毒の水を飲んだ腹の奥には痺れが残っている。


黒岩に近づきつつある外皮は、少し熱を持っていた。


それらを落ち着かせるために、しばらく動かずにいた。


動かないこと。


それは、以前ならただの恐怖だった。


外に出れば死ぬ。


だから隠れる。


その程度のものだった。


だが今は違う。


動かないことにも意味がある。


身体を馴染ませる。


外皮の変化を待つ。


毒を分解する。


音を聞く。


匂いを読む。


周囲の気配を分ける。


それもまた、生きるための行動だった。


グレイラーヴァは目を閉じていた。


視界がなくても、周囲が分かる。


岩の匂い。


湿った土。


古い骨。


鉱毒の水。


黒岩喰いの残った殻。


通路を通った黒殻狩りの匂い。


遠くの水場で揺れる薬液の匂い。


人間が使った刺激性の粉。


黒い獣の血。


さらに薄く、人間の血。


あまりにも多い。


以前より、はるかに多い。


匂いがただの匂いではなくなっていた。


それぞれが線のように伸び、過去の行動や今いる場所を示している。


水の匂いは、水場へ繋がる。


黒殻狩りの匂いは、移動経路を示す。


薬液の匂いは、人間がどこを通ったかを示す。


血の匂いは、傷の深さや時間を教える。


腐敗臭は、死んでからどれだけ経ったかを伝える。


グレイラーヴァは、ゆっくりと頭を上げた。


情報が多すぎる。


便利だ。


生きるためには間違いなく有利だった。


だが、落ち着かない。


匂いが頭の中でずっと動いている。


目を閉じても消えない。


耳を塞げる器官はない。


鼻を塞げる手もない。


いや、鼻という器官ですらないのかもしれない。


身体のどこかが、空気の変化を読み取り続けている。


止まらない。


グレイラーヴァは、外へ出た。


じっとしている方が、かえって匂いに飲まれそうだった。


細い裂け目を抜ける。


黒い岩の通路。


青白い結晶の淡い光。


下層の空気。


一歩出た瞬間、匂いの量がさらに増えた。


グレイラーヴァは思わず身を低くした。


濃い。


通路の奥から、黒岩喰いの匂いがする。


その上に黒殻狩りの匂い。


さらに奥には、強い鉱毒水。


左の亀裂からは、古い死体。


右の細道には、小型魔物の群れ。


上からは、コウモリ型とは違う翼ある魔物の匂い。


そして遠く、人間。


グレイラーヴァの身体が固まった。


人間の匂い。


火ではない。


薬草でもない。


革や金属でもない。


血。


薄い。


乾きかけている。


だが、人間の血だ。


若い男のものとは違う。


別の人間。


それでも分かる。


人間の血には、他の魔物と違う匂いがある。


肉の匂いだけではない。


熱。


塩。


恐怖。


薬。


言葉の残滓。


そういうものが混ざっているような気がする。


グレイラーヴァは牙を閉じた。


思い出す。


人間の血を舐めた時のこと。


帰りたい。


助かりたい。


仲間。


名前。


ほんの数滴で、頭の奥に感情の断片が流れ込んだ。


あれは危険だ。


分かっている。


だが、匂いを嗅いだだけで、身体がそちらへ向かおうとしている。


血の匂いを追えば、人間がいる。


人間がいれば、知れる。


言葉を。


記憶を。


感情を。


そして、喰えるかもしれない。


その思考が浮かんだ瞬間、グレイラーヴァは壁へ頭を押しつけた。


違う。


まだ駄目だ。


人間を喰うのは、まだ駄目だ。


そう言い聞かせる。


だが、なぜ駄目なのかは曖昧だった。


仲間がいるから。


名前があるから。


帰りたいと思うから。


人間の血の中に、それを知ったから。


理由はある。


けれど、この洞窟ではそれは弱い。


獣にも、虫にも、幼生にも、生きたいという感覚はあった。


それでも食べた。


では、人間だけを特別にする理由は何か。


言葉があるからか。


感情が流れ込むからか。


理解したいからか。


それとも、食べることと理解することを混ぜたくないからか。


分からない。


グレイラーヴァは、しばらく動かなかった。


血の匂いは遠い。


追わなければ消える。


別の道へ行けばいい。


水を探す。


餌を探す。


黒岩喰いを狩る。


そうすればいい。


だが、身体は人間の血の方向を記憶していた。


一度嗅いだ匂いが、頭の中に線として残っている。


消えない。


グレイラーヴァは、結局その方向へ進んだ。


早くはない。


獲物を追う速度ではない。


確かめるため。


そう自分に言い聞かせる。


人間が近くにいるなら、危険を知る必要がある。


調査隊の動きを知る必要がある。


罠を避ける必要がある。


だから匂いを追う。


そういう理由を並べる。


それが本当かどうかは分からない。


通路を進むほど、匂いは濃くなった。


血だけではない。


人間の足跡。


革靴が黒岩を擦った匂い。


金属。


油。


乾いた薬草。


刺激粉。


汗。


恐怖。


複数人。


少なくとも三人。


そのうち一人が怪我をしている。


血はその者のもの。


別の一人は重い防具。


もう一人は薬品を多く持っている。


低い声の男の匂いは薄い。


いるかもしれない。


だが、先頭ではない。


いや。


グレイラーヴァは足を止めた。


なぜ、そこまで分かる。


匂いだけで。


まだ姿も見ていない。


声も聞いていない。


それなのに、人数や状態が浮かぶ。


正確かどうかは分からない。


だが、かなり近い気がする。


嗅覚が鋭くなりすぎている。


便利だ。


だが、頭が匂いに引っ張られる。


血の濃い方へ。


弱い方へ。


狩りやすい方へ。


まるで空気そのものが、獲物までの道を示している。


グレイラーヴァは、足元の黒岩を掴んだ。


爪が食い込む。


落ち着け。


匂いに動かされるな。


匂いを使え。


そう思う。


使うのと、使われるのは違う。


その違いを忘れたら、ただの獣になる。


いや。


獣の方がまだ単純かもしれない。


自分は、食えば変わる。


匂いで学び、血で記憶を拾い、恐怖ですら適応する。


ただの獣よりも、もっと厄介なものになりつつある。


グレイラーヴァは、天井へ上がった。


足跡のある通路を下から進むのは危険だ。


人間は地面を見る。


足跡や擦り跡を探す。


なら、天井。


音を殺し、影に溶ける。


黒くなった外皮が、以前よりも下層の天井に馴染んでいた。


進む。


人間の匂いが濃くなる。


やがて、声が聞こえた。


「止まってください。ここにも痕跡があります」


知らない声。


少し高い。


緊張している。


研究者系の人間かもしれない。


グレイラーヴァは天井の岩陰で止まった。


下の通路に人間たちがいる。


四人。


低い声の男。


若い男。


薬品の匂いの強い人間。


それから、重い足音の防具の男。


以前の水場にいた者たちと似ている。


だが、薬品の人間は初めてかもしれない。


「食い跡ですね。黒岩喰いの殻を砕いている。顎力が上がっています」


薬品の人間が言った。


声に興奮が混じっている。


恐怖よりも、興味が強い。


グレイラーヴァは、その匂いを不快に感じた。


獲物を見る匂いではない。


素材を見る匂い。


自分を“知るもの”として見ている。


食べるのではなく、調べる。


それが嫌だった。


「やはり捕獲すべきです」


薬品の人間は続けた。


「こんな短期間で環境適応が進む個体は見たことがありません。黒岩喰いを捕食しただけで体色変化の兆候。毒水への耐性も上がっている可能性が高い」


低い男が答える。


「捕獲は危険だと言ったはずだ」


「危険だから価値があるんです」


その声を聞いた瞬間、グレイラーヴァの背中がわずかに震えた。


価値。


人間は、そういう見方をする。


魔物の牙を素材にする。


死体を金にする。


自分の変化を研究価値にする。


人間は、死体だけでなく、生きているものにも価値をつける。


それは、食うこととは違う怖さだった。


「殺すには惜しい」


薬品の人間が言った。


「グレイラーヴァは、捕食した対象から性質を引き出している。普通の進化速度ではありません。幼生から捕食幼種へ。しかも人間の罠や道具にも対応し始めている。生かして調べるべきです」


グレイラーヴァは、天井に張りついたまま動かなかった。


捕食幼種。


人間がそう呼んだ。


自分の変化を、また言葉にした。


「調べるというのは、どうするつもりだ」


低い男が冷たく聞いた。


「檻、給餌、刺激実験。毒、火、音、光、餌の種類による変化の比較。可能なら、人族血液への反応も見たいですね」


人族血液。


グレイラーヴァの口の中が、わずかに疼いた。


薬品の人間は続ける。


「この個体は人間の血に興味を示している可能性があります。縦穴で血痕が減っていた報告がありましたよね」


低い男が黙る。


若い男の匂いが強く変わった。


恐怖。


あの血の持ち主だ。


彼は覚えている。


自分の血が舐められたことを。


知らないはずなのに、感じ取っている。


「つまり、俺の血を……」


若い男の声が震える。


薬品の人間は、淡々と言った。


「摂取した可能性はあります。血を介して言語や記憶に反応するなら、非常に興味深い」


低い男の声が低くなる。


「言い方に気をつけろ」


薬品の人間は少しだけ黙った。


だが、恐れてはいない。


「失礼。しかし事実です。もしこの個体が人間の情報を捕食できるなら、ただの魔物ではない」


ただの魔物ではない。


その言葉は、何度も聞いた。


人間にもそう見えている。


では自分は何なのか。


グレイラーヴァには分からない。


食べて変わる魔物。


それだけでは足りないのか。


「だからこそ、追い詰めるなと言っている」


低い男が言う。


「理解するより先に逃げられる。逃げた先でまた変わる。捕獲しようとして檻や薬に適応されたら最悪だ」


「それもまた観察価値があります」


「人里で逃げたらどうする」


その言葉に、少し沈黙が落ちた。


人里。


地上。


人間の帰る場所。


血の記憶にあった光景が、グレイラーヴァの奥で揺れた。


空。


明るい場所。


声。


名前。


帰りたい。


もし自分がそこへ出たら。


人間の血がたくさんある場所。


人間の匂いが満ちた場所。


言葉が溢れる場所。


自分は、耐えられるのか。


グレイラーヴァは、天井で牙を閉じた。


薬品の人間が言う。


「それは管理次第です」


低い男はすぐに返す。


「管理できるという思い込みが一番危険だ」


その声には、怒りがあった。


グレイラーヴァは、その怒りを匂いで感じた。


低い男は、自分を恐れている。


だがそれだけではない。


自分を軽く扱おうとする人間にも怒っている。


なぜ。


グレイラーヴァを守るためではない。


おそらく、人間側を守るため。


危険を甘く見る者への怒り。


それは理解できる。


巣に不用意に入ってきた小型魔物を見た時の感覚に少し近い。


危険を知らないものは死ぬ。


低い男は、それを避けたいのだろう。


若い男が言った。


「でも、今は近くにいるんですよね」


全員が黙る。


グレイラーヴァの身体が硬直した。


「血の匂い、追ってるんじゃないですか」


若い男の声は小さい。


だが、確信に近い恐怖があった。


「俺、さっきから見られてる気がします」


グレイラーヴァは動かない。


天井の影。


黒い外皮。


匂いを殺す。


呼吸を抑える。


だが、若い男の恐怖は正しい。


見ている。


匂いを追って来た。


血の匂いに引かれて。


それを否定できない。


低い男が静かに言う。


「全員、動くな」


足音が止まる。


光石の明かりが少し上がる。


天井を照らそうとしている。


グレイラーヴァは、ほんのわずかに横へ移動した。


光の届かない凹みに。


しかし、薬品の人間が小袋を取り出す音がした。


刺激粉。


また匂いを壊す道具。


まずい。


天井にいる今、匂い粉を撒かれれば居場所が乱れる。


それだけではない。


嗅覚が鋭くなった今、刺激は以前より強く感じるかもしれない。


グレイラーヴァは、逃げ道を探した。


天井の亀裂。


右へ二歩。


そこから細い縦穴。


通れるか不明。


下には人間。


後方は来た道。


そこにも足跡が残る可能性。


匂い粉を撒かれる前に移動するか。


だが動けば見つかる。


「粉は使うな」


低い男が言った。


薬品の人間が止まる。


「なぜです」


「刺激したくない。今、天井にいる可能性がある。落ちてこられたら面倒だ」


グレイラーヴァは低い男を見た。


見えているわけではない。


だが、匂いと声の位置で分かる。


この男は、やはり危険だ。


こちらの行動を予測する。


追い詰めず、刺激せず、見失わないようにする。


狩るでも、逃がすでもない。


観察。


それが厄介だった。


「ではどうするんですか」


薬品の人間が苛立つ。


「下がる」


低い男が言った。


「血の匂いを消す。負傷者を前に出すな。通路を変える」


若い男が息を飲む。


低い男は続けた。


「こいつが血を追っているなら、こちらの血を餌にするな」


餌。


人間が、自分たちの血を餌と言った。


グレイラーヴァの中で、腹がわずかに鳴った。


聞こえないほど小さいはずだ。


だが、自分にははっきり分かった。


やめろ。


自分に言う。


人間を餌として見るな。


だが、匂いはそう告げる。


温かい肉。


情報を含んだ血。


記憶。


言葉。


力。


欲しい。


グレイラーヴァは、牙を噛み合わせた。


人間たちはゆっくり後退し始めた。


低い男が最後尾。


若い男は中央。


薬品の人間は不満げだが、従っている。


重装の男が盾を持っている。


隊列。


人間は自分たちの弱いところを隠す。


怪我人を内側へ入れる。


危険な方向に盾を向ける。


匂いを消す薬草を若い男の傷に塗る。


血の匂いが薄れる。


グレイラーヴァは、それを見ていた。


追える。


まだ追える。


匂いは完全には消えない。


だが追いづらくなった。


足跡、振動、薬草、金属。


追跡は可能。


行くか。


身体は行けと言う。


人間の血。


人間の情報。


自分を呼ぶ者たち。


自分を理解しかけている者たち。


追えば何か得られる。


だが、低い男はそれを想定している。


追えば、また何かを用意されるかもしれない。


追わない。


グレイラーヴァは、天井から動かなかった。


人間の足音が遠ざかる。


匂いも薄くなる。


薬草で隠された血の匂いが、やがて通路の奥へ消えた。


グレイラーヴァは、まだ待った。


完全に消えるまで。


それからようやく、天井から下りた。


通路には人間の匂いが残っている。


薬草。


革。


金属。


恐怖。


興味。


警戒。


それぞれ違う。


低い男は警戒の匂いが濃い。


若い男は恐怖。


薬品の人間は興味。


重装の男は苛立ちと緊張。


人間にも個体差がある。


当たり前かもしれない。


だが、グレイラーヴァにとっては新しい理解だった。


人間は一つではない。


皆が同じように殺そうとしているわけではない。


捕まえたい者もいる。


恐れる者もいる。


慎重に観察する者もいる。


守ろうとする者もいる。


自分に名をつけたのも人間。


殺すと言ったのも人間。


殺さなかったのも人間。


捕獲したいと言ったのも人間。


血を流し、帰りたいと思ったのも人間。


複雑だ。


魔物よりずっと。


いや、魔物も本当は複雑なのかもしれない。


自分が知らなかっただけで。


グレイラーヴァは、人間たちが去った方向を見た。


追わない。


そう決めた。


それでも、足元に残った匂いを、前脚で軽く触れる。


若い男の血は薄くなっていた。


薬草に隠されている。


だが完全には消えていない。


グレイラーヴァは、口を近づけそうになった。


床に残った血のわずかな痕跡。


舐めれば、また何か流れ込むかもしれない。


だが、そこには薬草も混ざっている。


刺激粉も。


人間の道具。


危険。


それ以上に、低い男の言葉が残っていた。


血を餌にするな。


グレイラーヴァは、ゆっくり後ずさった。


舐めなかった。


それは我慢なのか。


警戒なのか。


分からない。


ただ、舐めなかった。


《人族血液への追跡衝動を確認》


《捕食衝動への抵抗を確認》


《嗅覚情報処理が上昇しました》


《匂い識別能力が上昇しました》


声が響いた。


グレイラーヴァは、少しだけ動きを止めた。


抵抗すら、能力になる。


追わなかったこと。


舐めなかったこと。


それすら、この身体は記録する。


この身体は、喰うことだけでなく、喰わないことからも変わる。


それが救いなのか、もっと深い異常なのかは分からない。


グレイラーヴァは、人間とは逆の通路へ進んだ。


まず水。


次に餌。


そして、新しい巣。


匂いを頼りに、今度は人間ではなく水場を探す。


しかし、嗅覚が鋭くなったせいで、遠くの血や死体が何度も意識を引いた。


左には傷ついた魔物。


右には古い死骸。


奥には黒岩喰い。


さらに奥には、人間の古い足跡。


匂いの線がいくつも伸びている。


グレイラーヴァは、それらを一つずつ分けた。


追うもの。


追わないもの。


危険なもの。


使えるもの。


今必要なもの。


必要でないもの。


それを選ぶ。


匂いに動かされるのではなく、匂いを使う。


そうしなければ、自分はすぐに血を追うだけの獣になる。


通路の先で、水の匂いが強くなった。


鉱毒は薄い。


近くに大型の気配はない。


良い。


グレイラーヴァは水場へ向かった。


小さな水溜まり。


黒岩の割れ目からしみ出した水。


青白い結晶の光が揺れている。


グレイラーヴァは周囲を確認してから水を飲んだ。


冷たい。


苦味は弱い。


身体の熱が少し落ち着く。


口の中の乾きが消える。


匂いも少しだけ穏やかになった。


水面に、自分の姿が映る。


黒灰色の外皮。


細長い脚。


鋭い牙。


捕食幼種。


人間の言葉ならそう呼ぶのだろう。


グレイラーヴァ。


危険個体。


研究対象。


討伐候補。


捕獲対象。


どれも人間がつけた意味。


自分の内側には、まだはっきりした名前はない。


でも、匂いなら分かる。


自分の匂い。


黒岩。


毒。


血。


腐肉。


虫の殻。


獣の肉。


人間の血のわずかな名残。


それら全部が混ざっている。


それが今の自分だ。


グレイラーヴァは、水面から目を逸らした。


匂いは嘘をつかない。


なら自分は、もうただの幼生ではない。


喰ったものと、逃げたものと、我慢したものと、見たものが混ざった何かだ。


通路の奥で、小さな魔物が動いた。


グレイラーヴァは反射的にそちらを向いた。


狩れる。


そう思った。


だが、すぐには動かない。


まず匂いを読む。


小型。


怪我はない。


群れではない。


近くに大型の気配なし。


毒は薄い。


狩っても危険は少ない。


なら、狩る。


判断してから、動く。


グレイラーヴァは音もなく壁へ上がった。


匂いの線を辿り、獲物の上へ。


空腹はある。


だが、匂いに溺れてはいない。


今はまだ。


落ちる。


牙を入れる。


一瞬で命が消える。


血の匂いが広がる。


魔物の血。


人間ではない。


グレイラーヴァはそれを確認してから食べ始めた。


腹の奥は満足しない。


きっと、これからも満足しない。


それでも、選べるうちは選ぶ。


何を追うか。


何を喰うか。


何を喰わないか。


匂いの濃い暗闇の中で、グレイラーヴァはそう決めた。


その決意がどれほど持つのかは分からない。


ただ、遠くに残る人間の血の匂いだけが、いつまでも頭の奥から消えなかった。

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