第20話『恐怖の味』
恐怖には、匂いがあった。
それをはっきり意識したのは、餌場を離れてしばらく経ってからだった。
黒岩の通路。
青白い結晶の細い光。
湿った空気。
薄い鉱毒の匂い。
その中に、ひとつだけ違うものが混ざっていた。
血ではない。
腐敗でもない。
毒でもない。
もっと薄く、もっと鋭く、肉の内側から染み出すような匂い。
小型魔物が逃げた跡。
黒鼠。
たぶん一匹。
その匂いに、恐怖が混ざっていた。
追われたのだ。
何かに。
グレイラーヴァは通路の壁に張りついたまま、しばらく動かなかった。
逃げた魔物の匂いは読める。
足跡は乱れている。
何度か滑っている。
血も少しある。
しかし、致命傷ではない。
傷つきながら逃げた。
問題は、それを追ったものの匂いだった。
薄い。
しかし強い。
黒い獣の匂いとは違う。
蛇型魔物とも違う。
虫型ではない。
湿った毛。
硬い爪。
鋭い唾液。
それから、鉱毒に慣れた皮膚の匂い。
中型。
グレイラーヴァより大きい。
おそらく、自分より強い。
グレイラーヴァは、ゆっくりと後退しようとした。
関わらない方がいい。
餌場で学んだばかりだ。
強い魔物が来たら譲る。
無理に戦わない。
生き残るために、奪い返さない選択も必要だ。
それは分かっている。
だが、その匂いの中には別の情報もあった。
傷。
追っていた魔物も、少し傷ついている。
新しくはない。
古い傷が開いたような匂い。
それに、空腹。
強い空腹。
つまり相手は飢えている。
飢えた捕食者は危険だ。
しかし同時に、動きが荒くなる。
判断が鈍る。
グレイラーヴァは、足を止めた。
逃げるべきだ。
それが正しい。
だが、身体の奥が別のことを考えている。
飢えた捕食者を食えば、何を得られるか。
爪。
牙。
筋力。
追跡能力。
恐怖の匂いを追う能力。
捕食者を食べれば、捕食者として強くなれる。
その思考が浮かんだ瞬間、グレイラーヴァは自分で自分を警戒した。
危険を見て、食べる価値を考えている。
前からそうだった。
だが、以前よりも早い。
危ないと分かる前に、食えるかどうかを見ている。
グレイラーヴァは壁に頭を押しつけた。
冷たい黒岩。
進むな。
今は追うな。
そう思う。
だが、匂いが続いている。
逃げた黒鼠。
追った捕食者。
その先で、何かが起きている。
もし捕食者が黒鼠を殺して食べているなら、近づかない方がいい。
もし黒鼠がまだ逃げているなら、捕食者と鉢合わせる可能性がある。
どちらにせよ危険。
なら離れる。
グレイラーヴァは別の通路へ向かった。
その時。
前方の暗闇から、短い悲鳴が響いた。
黒鼠。
近い。
次に、骨が砕ける音。
それから、低い唸り。
獲物が捕まった。
グレイラーヴァは動きを止めた。
捕食者は、思ったより近くにいる。
今から引き返せば、音を出すかもしれない。
この通路は狭い。
相手がこちらへ来れば、逃げ道が限られる。
天井へ移動するか。
壁の亀裂はあるか。
グレイラーヴァは素早く周囲を見た。
右壁に小さな裂け目。
入れるが奥は浅い。
隠れるだけなら使える。
左側は濡れた黒岩で滑りやすい。
天井は低いが、張りつける。
正面は、捕食者のいる方向。
後方は、来た道。
なら、天井。
グレイラーヴァは壁を登り、天井の黒い凹みに身体を沈めた。
外皮を岩に合わせる。
脚を畳む。
呼吸を殺す。
匂いを抑えるように、身体を黒岩へ押しつける。
捕食者の気配が近づく。
ずる。
こつ。
ずる。
足音ではない。
片脚を少し引きずっている。
古い傷。
さっき匂いで読んだ通りだ。
やがて、そいつが通路の奥から姿を現した。
黒い獣。
ただし、水場で見たブラックハウンドとは違う。
もっと細い。
背中が高い。
前脚が長く、後ろ脚の片方をわずかに引きずっている。
頭部は細長く、口は裂けるように広い。
目は小さい。
鼻が大きい。
耳は尖り、常に震えている。
体表は黒い毛ではなく、硬い皮膚に短い棘のようなものが生えていた。
洞窟追い。
そんな言葉が浮かぶ。
逃げる獲物を匂いで追い、狭い通路で追い詰める捕食者。
そいつの口には、黒鼠が咥えられていた。
まだ少し動いている。
黒い獣は通路の中央で止まり、黒鼠を地面に置いた。
前脚で押さえる。
ゆっくり食べ始める。
急いでいない。
いや、腹は減っているはずだ。
だが、周囲を警戒しながら食べている。
強い。
経験がある。
グレイラーヴァは天井で動かなかった。
逃げるなら今か。
相手は食事中。
だが、動けば気づかれるかもしれない。
あの鼻なら、匂いを拾う。
耳もいい。
無理に動かない方がいい。
待つ。
黒い獣が食べ終わるまで。
通り過ぎるまで。
そう判断する。
だが、腹の奥が反応した。
血の匂い。
黒鼠の肉。
黒い獣の唾液。
そして、黒い獣自身の傷の匂い。
食える。
その言葉が浮かぶ。
無理だ。
そう返す。
強い。
大きい。
速い。
自分より格上。
だが、傷がある。
後ろ脚が悪い。
狭い通路では旋回が遅いかもしれない。
鼻に頼るなら、匂いを乱せばいい。
耳がいいなら、音をずらせばいい。
考えるな。
そう思う。
今は逃げるべきだ。
しかし、考えは止まらなかった。
恐怖が、次々と情報を渡してくる。
怖い。
だから相手を見る。
怖い。
だから弱点を探す。
怖い。
だから逃げ道を確認する。
怖い。
だから噛む場所を想像する。
恐怖が、自分を止めるだけではなくなっている。
恐怖が、戦うための材料になっている。
そのことに気づいて、グレイラーヴァは内側が冷えた。
黒い獣が、ふと食事を止めた。
鼻が動く。
グレイラーヴァの身体が固まる。
嗅がれた。
完全ではない。
だが何かに気づいた。
黒い獣が顔を上げる。
天井を見る。
グレイラーヴァは動かない。
外皮は黒岩に溶けている。
だが、匂いは完全には消えない。
黒い獣が低く唸る。
黒鼠の死体を前脚で押さえたまま、ゆっくり後退する。
獲物を守りながら、周囲を探っている。
奪われると警戒している。
グレイラーヴァは理解した。
この獣もまた、自分を捕食者だと感じている。
弱い獲物ではない。
競合する何か。
その認識をされた。
まずい。
このまま通り過ぎてくれる可能性が減った。
黒い獣は、食べ残しを咥えた。
そして、通路の奥へ持っていこうとする。
グレイラーヴァから離れる方向。
逃げる。
いや、移動する。
自分の安全な場所で食べるつもりか。
グレイラーヴァは動かなかった。
それでいい。
去ってくれ。
そう思う。
だが、黒い獣が通り過ぎる瞬間、匂いが強くなった。
傷の匂い。
後ろ脚。
古い裂傷。
何度も開いた傷。
そこなら噛める。
動きを鈍らせられる。
殺せるかもしれない。
喰えるかもしれない。
グレイラーヴァの身体が、ほんの少し動いた。
その瞬間、黒い獣が反応した。
速い。
食べ残しを捨て、天井へ跳ぶ。
届かないと思った距離を、前脚が届かせた。
爪がグレイラーヴァの外皮を掠める。
痛み。
黒い外皮に傷が入る。
グレイラーヴァは天井から跳ねるように離れ、壁へ移った。
見つかった。
もう隠れられない。
黒い獣は着地し、低く構える。
獲物を置いたまま、こちらを見る。
小さな目。
鼻。
耳。
全てがグレイラーヴァを捉えている。
逃げるか。
戦うか。
逃げ道は後方。
だが、黒い獣は追うための魔物だ。
背を向ければ追われる。
壁を登っても、跳躍で届く。
狭い亀裂へ逃げ込めればいいが、近くの亀裂は浅い。
奥へ深く続く逃げ道は遠い。
戦うしかない。
いや、戦いながら逃げ道を作る。
正面から勝とうとするな。
グレイラーヴァは壁に張りついたまま、黒い獣を見る。
怖い。
本当に怖い。
身体の大きさ。
爪の速さ。
鼻の鋭さ。
口の広さ。
噛まれれば終わる。
一撃でも深く入れば、外皮ごと裂かれる。
その恐怖が、身体を固めようとする。
だが、グレイラーヴァは動いた。
恐怖の中で、相手を見る。
後ろ脚。
傷。
左後ろ。
踏み込みの時に一瞬遅れる。
前脚は速い。
口は横に広いが、噛みつく瞬間は首が伸びる。
耳が音に反応する。
鼻は匂いに反応する。
なら、音と匂いをずらす。
グレイラーヴァは壁の上から、近くの小石を弾いた。
小石が通路の右側へ落ちる。
かつん。
黒い獣の耳が一瞬そちらへ向く。
だが、目はグレイラーヴァを離さない。
通用しない。
完全には。
グレイラーヴァは次に、口の中に残った黒鼠の血の匂いを利用した。
さっき食べた小型魔物の残りが牙についている。
それを壁へ擦りつけ、すぐに別方向へ移動する。
匂いの点を作る。
黒い獣の鼻が動く。
わずかに反応する。
その一瞬で、グレイラーヴァは天井へ移った。
黒い獣が跳ぶ。
先ほどの位置を狙って。
しかしグレイラーヴァはもういない。
黒い獣の爪が岩を削る。
その着地で、左後ろ脚に負荷がかかった。
獣の動きがわずかに乱れる。
今。
グレイラーヴァは落ちた。
狙いは後ろ脚の傷。
柔らかく開きやすい場所。
牙を突き立てる。
黒い獣が咆える。
グレイラーヴァは一瞬で離れようとした。
だが、黒い獣の尾が鞭のように振られた。
尾。
見ていなかった。
衝撃。
グレイラーヴァの身体が壁に叩きつけられる。
外皮が割れる。
視界が揺れる。
まずい。
黒い獣が振り向く。
速い。
後ろ脚に傷があっても、前脚と首の動きは速い。
グレイラーヴァは床へ落ちた。
黒い獣が噛みつく。
グレイラーヴァは横へ転がり、牙を避ける。
口が岩を噛む。
ばき、と黒岩が欠けた。
あの顎に挟まれたら終わりだ。
グレイラーヴァは水気のある壁へ向かって走った。
滑りやすい場所。
自分も危険だが、相手も踏み込みづらい。
黒い獣が追う。
速い。
だが、傷ついた後ろ脚がわずかに遅れる。
グレイラーヴァはその遅れを見た。
怖い。
だが、見える。
恐怖で視界が狭くなるのではない。
むしろ、相手の危険な部分が鮮明になる。
爪。
牙。
尾。
傷。
踏み込み。
耳。
鼻。
全てが情報になる。
グレイラーヴァは濡れた岩へ登った。
黒い獣も跳ぶ。
爪が滑る。
わずかに体勢が崩れる。
グレイラーヴァは上から落ちるのではなく、横へ回り込んだ。
狙いは鼻。
嗅覚を潰せば、追跡力が落ちる。
だが鼻は顔の前。
危険。
口が近い。
それでも、やるしかない。
グレイラーヴァは壁を蹴り、黒い獣の顔へ飛んだ。
獣が口を開く。
予想通り。
グレイラーヴァは正面から入らず、頬の側面へ爪をかけた。
牙で鼻の横を裂く。
浅い。
だが血が出る。
黒い獣が悲鳴に近い唸りを上げる。
鼻の匂いが乱れる。
グレイラーヴァはすぐ離れる。
今度は尾が来る。
予想していた。
身体を低くし、尾を避ける。
尾が壁に当たり、黒岩の欠片が飛ぶ。
その欠片がグレイラーヴァの背中に当たる。
痛み。
だが動ける。
黒い獣は怒っている。
鼻を傷つけられ、後ろ脚も開いた。
しかし、まだ強い。
怒りで動きが荒くなるか。
それとも、さらに危険になるか。
グレイラーヴァは距離を取った。
逃げ道は近い。
右奥の細い亀裂。
見つけた。
そこまで行ければ、逃げられる。
だが、黒い獣は通路中央にいる。
ただ走れば追いつかれる。
もう一度、隙を作る必要がある。
グレイラーヴァは、自分の傷を意識した。
背中から体液が少し漏れている。
その匂いがある。
自分の匂い。
血。
それを使える。
グレイラーヴァは、わざと壁へ体液を擦りつけた。
黒い獣の鼻は傷ついているが、まだ匂いに反応する。
グレイラーヴァは体液のついた場所からすぐに離れ、天井へ移る。
黒い獣がその匂いへ突っ込む。
爪が壁を抉る。
一瞬、向きがずれる。
グレイラーヴァは逃げ道へ走った。
しかし、黒い獣はすぐに気づく。
追ってくる。
速い。
亀裂まであと少し。
黒い獣が跳ぶ。
間に合わない。
このままでは背中を噛まれる。
グレイラーヴァは直前で止まった。
逃げる動きを止める。
黒い獣の噛みつきは、前に伸びる。
グレイラーヴァはその下へ潜るように沈んだ。
獣の顎が空を噛む。
体が頭上を越える。
その瞬間、グレイラーヴァは再び後ろ脚の傷へ噛みついた。
深く。
黒い獣が崩れる。
今度は大きく。
後ろ脚が体重に耐えきれず、地面へ沈む。
グレイラーヴァは離れた。
殺し切る必要はない。
逃げる。
亀裂へ飛び込む。
身体を潰して入る。
外皮が硬くなったせいで、以前より苦しい。
だが入る。
入れ。
後ろで黒い獣が叫ぶ。
爪が亀裂の入口を掻く。
届く。
グレイラーヴァの後ろ脚を掠める。
痛い。
だが、掴まれない。
さらに奥へ。
爪は届かなくなる。
黒い獣は入口を掻き続ける。
岩が崩れる。
音が響く。
だが入れない。
グレイラーヴァは亀裂の奥で身体を丸めた。
痛い。
背中。
脚。
外皮。
鼻を裂いた時についた獣の血が口の中に残っている。
濃い。
熱い。
危険な味。
グレイラーヴァは、その血を飲み込んでいた。
戦いの中で。
ほんの少し。
だが身体が反応する。
《中型追跡獣の血液を摂取しました》
《嗅覚が微量上昇しました》
《追跡行動の素質が発現しかけています》
《恐怖下行動を確認》
《恐怖耐性が上昇しました》
恐怖耐性。
グレイラーヴァは、亀裂の奥でその声を聞いた。
恐怖が消えたわけではない。
まだ怖い。
外では黒い獣が怒りの唸りを上げている。
入口を掻いている。
もし亀裂が崩れたら終わる。
そう思うと、身体は震える。
だが、さっきの戦いで恐怖はただの枷ではなかった。
恐怖があったから、相手を見た。
恐怖があったから、尾に気づいた。
恐怖があったから、逃げ道を探した。
恐怖があったから、無理に殺そうとしなかった。
恐怖は味がする。
苦く、冷たく、鋭い。
けれど、飲み込めば情報になる。
グレイラーヴァは、初めてそう理解した。
外の黒い獣は、しばらく亀裂を掻き続けた。
やがて、傷の痛みと出血のせいか、動きが鈍くなった。
唸り声が遠ざかる。
獲物を置いていくのか。
いや、黒鼠の食べ残しは通路にある。
それを回収するかもしれない。
グレイラーヴァは動かなかった。
長く。
完全に気配が遠ざかるまで。
そして、さらに待った。
黒い獣は追跡者だ。
こちらを油断させるかもしれない。
匂いを置いて待つかもしれない。
そう考える。
さっき血を摂取したせいか、相手の性質が少し分かる気がした。
追う。
待つ。
弱ったものを狙う。
匂いを記憶する。
自分と似ている。
そのことが少し嫌だった。
ようやく、グレイラーヴァは亀裂の奥から外を覗いた。
黒い獣はいない。
通路には血が残っている。
黒い獣の血。
自分の体液。
黒鼠の残骸。
匂いが混ざっている。
グレイラーヴァは外へ出た。
傷が痛む。
だが動ける。
黒い獣は去った。
倒せなかった。
食えなかった。
だが、生き残った。
それでいい。
そう思った。
しかし、通路に残った黒い獣の血を見た瞬間、腹の奥が反応した。
強い獣の血。
追跡能力。
嗅覚。
筋力。
恐怖の味。
飲めば、得るものがある。
危険か。
黒い獣が戻る可能性はある。
血の匂いに他の魔物も来るかもしれない。
だが、少しなら。
グレイラーヴァは、血に近づいた。
舐める。
濃い。
魔物の血。
人間の血とは違う。
記憶は流れ込まない。
だが、狩りの感覚がある。
匂いを追う衝動。
逃げるものを追い詰める快感。
弱った後ろ姿を見つける鋭さ。
それが味として入ってくる。
グレイラーヴァはすぐに離れた。
飲みすぎるな。
この衝動は危険だ。
自分の捕食衝動と混ざれば、さらに獲物を追いたくなる。
《追跡獣の血液を摂取しました》
《追跡嗅覚が微量発現しました》
《捕食衝動が反応しています》
《恐怖耐性が上昇しました》
やはり。
グレイラーヴァは、黒鼠の食べ残しには近づかなかった。
黒い獣の獲物だったものだ。
それを食べれば、匂いを辿って戻ってくるかもしれない。
それに、今は戦いの後で疲れている。
傷もある。
欲張るな。
そう判断する。
しかし、黒鼠の肉の匂いは強い。
グレイラーヴァの腹が鳴る。
食べたい。
傷を治したい。
空腹を満たしたい。
だが、食べない。
ここを離れる。
生きるために。
グレイラーヴァは通路を進んだ。
亀裂を抜け、別の細道へ。
少しでも戦いの場から離れる。
傷の匂いを消すために、鉱毒の薄い水を探す必要がある。
血を落とし、匂いを薄める。
追跡獣に追われないように。
恐怖がまた情報になる。
相手は嗅覚で追う。
なら、自分の血を残してはいけない。
自分の通った道を一直線にしない。
時々壁へ登り、足跡を切る。
水の流れを使う。
鉱毒の匂いに紛れる。
グレイラーヴァは、傷ついた身体でそれを実行した。
痛い。
だが動く。
動かなければ追われる。
しばらく進むと、小さな水の流れを見つけた。
鉱毒は少しある。
だが耐えられる。
グレイラーヴァはそこに身体の一部を浸した。
傷に毒水が触れる。
焼けるように痛い。
体液が流れ、水に混ざる。
血の匂いが薄まる。
グレイラーヴァは痛みに耐えた。
《鉱毒への接触を確認》
《傷口洗浄により血臭が低下しました》
《鉱毒耐性が微量反応しています》
声を聞きながら、グレイラーヴァは低く息を吐くように身体を震わせた。
全てが材料だ。
傷も。
毒も。
恐怖も。
敵の血も。
逃走も。
洗い流す行動すら。
この身体は全部を利用する。
グレイラーヴァは、水辺の影で身体を丸めた。
少しだけ休む。
長くは駄目だ。
だが、今すぐ動けば傷が広がる。
恐怖はまだある。
黒い獣が戻ってくるかもしれない。
人間が近くにいるかもしれない。
上位種の振動が届くかもしれない。
それでも、さっきより心は静かだった。
恐怖に飲まれなかった。
恐怖を使った。
その事実がある。
グレイラーヴァは、傷ついた前脚を見た。
震えている。
それでも、まだ動く。
恐怖が消えたわけではない。
消えなくていい。
怖いから見る。
怖いから考える。
怖いから逃げ道を探す。
怖いから噛む場所を選ぶ。
恐怖は敵ではない。
扱えば、生き残るための味になる。
苦く、冷たく、鋭い味。
グレイラーヴァは、その味を覚えた。
やがて、遠くで黒い獣の唸りが聞こえた。
かなり遠い。
しかし、まだ生きている。
追ってくるかもしれない。
いつかまた出会うかもしれない。
その時、自分はどうするのか。
逃げる。
たぶん逃げる。
今はまだ勝てない。
だが、次はもっと傷を負わせられるかもしれない。
次の次なら。
いつかは。
その思考が浮かんで、グレイラーヴァは自分の中の変化を感じた。
以前なら、強いものにはただ怯えた。
今は、いつか食うことを想像している。
それは捕食者としての成長か。
それとも、狂っていく兆しなのか。
答えはない。
水面に映ったグレイラーヴァは、傷だらけだった。
黒灰色の外皮に裂け目。
体液の跡。
鉱毒水に濡れた脚。
牙の間に残る追跡獣の血。
醜い。
だが、生きている。
そして、少し強くなった。
グレイラーヴァは水面から目を逸らした。
休息は終わりだ。
血の匂いが薄まったら、移動する。
新しい隠れ場所を探す。
餌場にも、しばらく戻らない方がいい。
黒い獣に匂いを覚えられたかもしれない。
人間にも、痕跡を読まれるかもしれない。
グレイラーヴァは立ち上がった。
傷は痛む。
だが、動ける。
恐怖もある。
だが、動ける。
遠くの闇へ向かって、静かに脚を進める。
恐怖は消えない。
それでいい。
消えないなら、使えばいい。
生きるために。
喰われないために。
そして、いつか喰う側でいるために。
グレイラーヴァは、黒い通路へ消えた。
その後ろに残った水面には、血と毒が薄く混ざり、青白い光だけが揺れていた。




