第16話『捕食幼種』
暗闇の中で、グレイラーヴァは動かなかった。
いや、動けなかったわけではない。
動ける。
痛みはある。
傷も残っている。
失った脚が完全に馴染んだわけでもない。
けれど、動こうと思えば動ける。
それどころか、以前よりも身体は軽かった。
問題は、身体の中にある熱だった。
進化が終わったはずなのに、腹の奥がまだ燃えている。
空腹。
ただの空腹ではない。
胃が空っぽだから食べたい、という単純なものではない。
もっと深い場所から来る命令だった。
探せ。
見つけろ。
狙え。
喰え。
そういう命令。
目の前にいるものを餌として見ろ、と身体が言っている。
グレイラーヴァは、岩陰の中でゆっくりと脚を動かした。
新しい脚。
以前より太く、強い。
先端の爪は岩を掴むだけでなく、獲物の外皮に引っかけるための形をしている。
軽く床を叩くと、黒い岩から微かな振動が返ってきた。
その振動が脚を通して身体へ入る。
小さな虫。
遠くの水。
どこかで崩れる石。
そして、近くを通る小型魔物。
分かる。
以前よりも、はっきり分かる。
グレイラーヴァは頭を上げた。
視界は広くなったわけではない。
目が劇的に増えたわけでもない。
だが、動くものが見える。
暗闇の中で、揺れる影が分かる。
獲物の輪郭が、音や匂いや振動と重なって浮かぶ。
見るというより、捉える。
そんな感覚だった。
口を少し開く。
牙が触れ合う。
以前よりも大きい。
細かく裂く牙だけではない。
深く刺す牙。
逃がさない牙。
首の隙間、関節、柔らかい腹、血が通る場所。
そこへ入る形をしている。
グレイラーヴァは、自分の口を意識して、少しだけ嫌悪した。
肉を裂くために変わった。
食うために。
殺すために。
けれど、その嫌悪は薄い。
声は告げていた。
嫌悪反応が低下した、と。
その意味が、今はよく分かる。
醜い。
気持ち悪い。
危険だ。
そう思う気持ちは残っている。
だが、その奥で身体は冷静に答える。
役に立つ。
それで生きられる。
なら問題ない。
その答えが、あまりにも強い。
グレイラーヴァは岩陰から出た。
通路は暗い。
黒い岩肌。
青白い結晶の光。
湿った空気。
遠くで水が流れる音。
下層の空気は、もう少しだけ馴染み始めている。
外皮は灰色からさらに濃くなっていた。
完全な黒ではない。
だが、黒い岩の影に入ると、輪郭が曖昧になる。
以前より目立たない。
この場所に合わせて、身体が少しずつ変わっている。
食べた黒殻骨喰いの影響か。
鉱毒の水の影響か。
それとも、下層そのものの圧力か。
分からない。
だが、分からなくても変わる。
この身体はそういうものだ。
グレイラーヴァは、壁沿いに進んだ。
一歩。
また一歩。
脚が自然に足場を選ぶ。
砂利を避ける。
骨片を避ける。
水たまりを避ける。
音を殺す。
それらが以前より速い。
考える前に身体が動く。
まるで、洞窟の上を流れる影になったようだった。
その時、前方に小さな気配があった。
虫型魔物。
一匹。
細い脚で黒い岩を舐めるように進んでいる。
骨喰いではない。
腹が柔らかく、殻も薄い。
小型。
弱い。
狩れる。
その判断が、あまりにも早かった。
以前なら、まず隠れた。
逃げるか、やり過ごすか、食えるかを考えた。
今は違う。
見た瞬間に、獲物として処理した。
どこを噛むか。
どの角度で落ちるか。
音を出させずに殺せるか。
逃げ道はどこか。
食べる場所はどこにするか。
そういうことが一瞬で浮かぶ。
グレイラーヴァは壁へ上がった。
音もなく。
虫型魔物は気づかない。
天井近くから、真下を見る。
距離。
十分。
グレイラーヴァは落ちた。
その瞬間、身体は勝手に獲物の首元へ向かった。
前脚で殻を押さえ、牙を隙間へ差し込む。
虫型魔物が跳ねるより早く、噛む。
ぶち。
短い音。
体液が口へ流れ込む。
暴れようとした脚を爪で押さえる。
もう一度噛む。
終わり。
あっけなかった。
グレイラーヴァは、牙を抜いた。
虫型魔物は動かない。
以前なら苦戦した相手。
追われ、噛まれ、傷つけられた小型魔物。
それが今は、ほとんど抵抗する間もなく死んだ。
グレイラーヴァは、死体を見下ろした。
勝った。
いや、勝ったというほどでもない。
狩った。
ただ、それだけ。
その感覚が胸の奥へ沈む。
自分は、もう完全に食われるだけの幼生ではない。
狩る側になった。
グレイラーヴァは死体を岩陰へ引きずった。
入口や広い通路で食べるのは危険だ。
血の匂いが広がる。
他の魔物が寄ってくる。
それは分かっている。
分かっているのに、口の中はもう体液の味を求めていた。
食え。
早く。
その衝動を押さえながら、死体を運ぶ。
岩陰へ入る。
周囲を確認。
大きな気配はない。
ようやく食べる。
薄い殻を割り、柔らかい部分を引き出す。
噛む。
飲む。
体液が腹に落ちる。
熱になる。
《小型虫魔物を捕食しました》
《捕食幼種としての吸収効率が反応しています》
《反応速度が微量上昇しました》
《捕食経験値を獲得しました》
声が響く。
同時に、食べた量に対して、身体が得る熱が大きいことに気づいた。
以前より少ない量で、力になる。
肉が無駄になりにくい。
食べたものが、すぐ身体へ入る。
それは強さだった。
同時に危険でもあった。
少し食べただけで、次を求める。
効率が上がったのに、満足しない。
グレイラーヴァは食事を終えた。
死体はほとんど残らない。
以前なら、硬い部分は避けた。
今は殻の薄いところなら噛み砕ける。
顎が強くなっている。
骨喰いの力が混ざっているのかもしれない。
グレイラーヴァは口元を岩に擦りつけた。
体液を落とす。
そして、すぐに次の匂いを探している自分に気づいた。
もう食べた。
まだ腹は完全に空ではない。
なのに、探している。
次。
次の獲物。
次の肉。
次の能力。
身体が勝手に周囲を探る。
グレイラーヴァは、脚を止めた。
喰うために生きるな。
その言葉を、自分の中で繰り返す。
生きるために喰う。
喰うために生きるな。
だが、違いが曖昧になっている。
生きるには喰わなければならない。
喰えば強くなる。
強くなれば生きられる。
なら、もっと喰えばいい。
その理屈は正しい。
正しいから怖い。
グレイラーヴァは、狭い岩陰から出た。
通路を進む。
今度は、わざと獲物の匂いから少し離れた。
空腹衝動を落ち着かせるため。
水を探す。
水場。
毒が薄い場所。
できれば、強い魔物の縄張りではない場所。
しかし、水の匂いを追っているはずが、血の匂いも同時に拾ってしまう。
それも、かなり遠くの血まで。
小型魔物。
古い傷。
新しい死体。
弱っている個体。
分かる。
分かってしまう。
グレイラーヴァは、足を止めた。
右の細い通路。
血の匂い。
新しい。
弱い呼吸。
怪我をした魔物がいる。
たぶん小型。
狩りやすい。
身体がそちらへ向かおうとする。
グレイラーヴァは、逆へ進んだ。
水の方へ。
今は水だ。
そう決める。
だが数歩進んで、また止まる。
血の匂いが強い。
弱った獲物。
逃げられない。
食べやすい。
喰えば、傷を治せる。
進化後の身体を安定させられる。
そういう理由が浮かぶ。
きれいに。
正しく。
グレイラーヴァは、牙を噛んだ。
そして結局、右の通路へ入った。
水は後でいい。
そう判断した。
それが本当に必要な判断だったのか、空腹衝動に押された結果なのかは分からない。
分からないまま、進んだ。
通路の奥には、傷ついた小型魔物がいた。
黒い鼠型魔物。
片脚を折っている。
おそらく何かから逃げてきたのだろう。
体の横に裂け傷があり、血が岩に染みていた。
グレイラーヴァを見ると、鼠型魔物は逃げようとした。
だが脚が動かない。
よろける。
倒れる。
それでも、牙を剥く。
生きようとしている。
グレイラーヴァは、ゆっくり近づいた。
鼠型魔物の目が揺れる。
恐怖。
怒り。
痛み。
その匂いが分かる。
以前なら、その恐怖に少しは止まったかもしれない。
怪我をしているだけの獲物を食べるのか、と迷ったかもしれない。
今も、迷いはある。
だが薄い。
本当に、薄い。
鼠型魔物はもうすぐ死ぬ。
自分が食わなくても別の魔物が食う。
なら、自分が食う。
生きるために。
その理屈が、すぐに出る。
グレイラーヴァは鼠型魔物の首元へ近づいた。
相手が噛みつこうとする。
遅い。
前脚で頭を押さえる。
牙を入れる。
短く、深く。
鼠型魔物は一度だけ大きく痙攣し、動かなくなった。
殺すことに、時間はかからなかった。
グレイラーヴァはその場で食べ始めそうになった。
だが、すぐに止まる。
血の匂いが強い。
ここは通路の中央。
危険。
死体を引きずり、横穴へ移動する。
以前なら、こうした冷静な判断に安心したかもしれない。
今は、狩りと食事の手順が上手くなっていることに、少しだけ寒気がした。
横穴で食べる。
黒い鼠型魔物の肉は、上層の鼠より硬かった。
筋肉が詰まっている。
血も濃い。
骨は少し黒く、鉱石の味がする。
グレイラーヴァは必要な部分を選んで食べた。
柔らかい内臓。
脚の筋肉。
血の残った首元。
骨髄。
食べ方が分かる。
どこが効率いいか分かる。
身体が知っている。
《黒鼠魔物を捕食しました》
《脚力が微量上昇しました》
《嗅覚が微量上昇しました》
《黒岩適応が微量進行しました》
《捕食経験値を獲得しました》
黒岩適応。
グレイラーヴァは、自分の外皮を見た。
少しだけ黒が濃くなっている気がした。
この下層に近づいている。
下層の魔物を食べれば、下層へ馴染む。
当然のようでいて、恐ろしい。
このまま食べ続ければ、グレイラーヴァは下層の魔物になっていく。
上層へ戻れば、また違和感が出るのかもしれない。
環境が変われば、身体も変わる。
なら、自分の本来の形はどこにある。
白い幼生だった頃か。
灰色の幼生だった頃か。
今の捕食幼種か。
それとも、まだ先か。
答えはない。
喰えば変わる。
それだけだった。
食事を終えた後、グレイラーヴァはやっと水を探した。
腹は満ちている。
だが、満足はしていない。
奥でまだ欲しがっている。
それを無視して進む。
水の匂いを追う。
通路の奥に、小さな水溜まりがあった。
青白い結晶の根元。
水は少なく、少し濁っている。
匂いを嗅ぐ。
鉱毒は薄い。
飲める。
グレイラーヴァは周囲を確認した。
大きな気配なし。
小型魔物の気配も遠い。
水へ口をつける。
冷たい。
苦い。
体内の熱が少しだけ落ち着く。
口の中に残った血の味が薄まる。
それでも完全には消えない。
グレイラーヴァは水面を見た。
映る姿は、もう以前と違っていた。
灰色ではない。
黒灰色。
長い脚。
鋭くなった爪。
広がった顎。
牙。
体の線は、前よりも低く、狩るための形に近い。
白い幼生だった頃の面影はほとんどない。
人間が見れば、もう“灰幼生”とは呼ばないかもしれない。
グレイラーヴァ。
その音だけは残る。
けれど、その意味は変わっていく。
灰色の幼生。
今はもう、幼生ですらない。
捕食幼種。
グレイラーヴァは水面を見つめたまま、口を閉じた。
怖い。
自分の姿が。
でも、第2話で水面を叩いた時ほどではない。
あの時は、こんなものが自分のはずがないと思った。
今は違う。
これは自分だ。
そう認めかけている。
そのことが怖い。
水面の自分は、醜い。
だが強い。
少なくとも、前よりは。
その強さを、嫌いきれない。
グレイラーヴァは水場を離れようとした。
その時、遠くから人間の声が聞こえた。
かなり遠い。
だが、今の耳なら拾える。
「……血の跡が増えてる」
若い声。
「狩ってるな」
低い男の声。
「以前より食べ方が変わっている。骨の砕き方も違う」
少し間があった。
「進化したかもしれん」
グレイラーヴァの身体が止まった。
人間は、痕跡からそこまで読む。
まただ。
自分が変わったことを、食べ跡から知る。
「幼生じゃなくなったってことですか?」
「可能性はある。捕食寄りに変化しているなら、危険度は上がる」
「見つけたら?」
「近づくな。今までの動きとは違うはずだ」
グレイラーヴァは、岩陰へ移動した。
人間は遠い。
まだこちらには気づいていない。
だが、声は聞こえる。
言葉がはっきり分かる。
進化。
捕食寄り。
危険度。
それらの言葉が、自分に向けられている。
人間は怖い。
だが、以前よりも人間を遠く感じない。
言葉が分かるから。
感情の揺れも少し分かるから。
若い男は恐れている。
低い男は警戒しているが、焦ってはいない。
もう一人いる。
声は出していないが、足音がある。
重い。
人間たちはこちらへは来ない。
痕跡を調べている。
グレイラーヴァは動かなかった。
隠れて聞く。
人間の情報は餌ではない。
だが、生きるために必要なものだ。
「捕獲案は?」
若い男が聞く。
低い男がすぐに答えた。
「却下したい」
「上は欲しがってます」
「欲しがるだろうな。短期間で変化する魔物だ。研究者は放っておかない」
研究者。
捕獲。
またその言葉。
グレイラーヴァの外皮が冷える。
殺されることより、捕まることの方が嫌だった。
喰われるより、閉じ込められる方が想像しにくくて怖い。
「だが、生かして持ち帰るのは危険だ」
低い男が続ける。
「こいつは環境に適応する。檻に入れれば檻に、毒を盛れば毒に、飢えさせれば飢えに慣れる可能性がある」
グレイラーヴァは、その言葉を聞いて、少しだけ震えた。
低い男は自分を理解している。
完全ではない。
だが、危険なほど近い。
檻に入れれば檻に適応する。
自分でも、それを否定できない。
もし閉じ込められたら。
最初は苦しむ。
飢える。
傷つく。
だが、この身体は変わる。
鉄を噛もうとするかもしれない。
狭さに合わせて変形するかもしれない。
人間の匂いに慣れるかもしれない。
観察されることにすら、適応するかもしれない。
そしていつか出る。
グレイラーヴァ自身が、そうなる可能性を感じている。
だから、低い男の警戒は正しい。
「じゃあ殺すしかないんですか」
若い男の声が硬くなる。
低い男はすぐには答えなかった。
「分からん」
その答えは意外だった。
「危険だ。だが、まだ行動が読めない。昨日も、こちらを襲う機会はあった」
若い男が黙る。
「それでも襲わなかった。今回も、人間の血を追ってくる様子は今のところない」
グレイラーヴァは、水場の影でじっとしていた。
人間の血。
追っていない。
本当だ。
追っていない。
追えたかもしれない。
匂いは覚えている。
若い男の血の匂い。
低い男の匂い。
人間たちの移動方向。
全部、完全ではないが追跡できる。
でも追っていない。
なぜか。
まだ駄目だと思うから。
人間を喰うのは、まだ。
その理由は曖昧だ。
だが、低い男はその行動を見ている。
「だから、今は観察する」
低い男は言った。
「刺激しすぎるな。追い詰めすぎるな。こいつは、追い詰められるほど変わる」
その言葉は、グレイラーヴァの中に深く沈んだ。
追い詰められるほど変わる。
その通りだった。
飢えたから死肉を食った。
襲われたから戦った。
巣を荒らされたから捨てた。
上位種に追われたから進化した。
毒を受けたから毒に慣れた。
人間の血を舐めたから言葉が深まった。
追い詰められた時、この身体は変化を選ぶ。
生きるために。
人間はそれを見抜き始めている。
グレイラーヴァは、静かに後退した。
これ以上聞き続けるのは危険だ。
人間の足音がこちらへ向かう可能性もある。
今は距離を取る。
だが、去り際にも声は聞こえた。
「もし本当に捕食型に進化しているなら、次は人を食うかもしれませんね」
若い男の声。
低い男は答えない。
少し沈黙してから、低く言った。
「その時は、もう別の段階だ」
グレイラーヴァは、暗い通路へ入った。
人を食う。
その言葉が耳に残った。
身体が反応する。
人間の血の味を思い出す。
帰りたい。
助かりたい。
仲間。
名前。
情報。
記憶。
感情。
喰えば、もっと分かる。
その思考が浮かぶ。
同時に、牙の奥が疼く。
肉の味を想像する。
駄目だ。
グレイラーヴァは立ち止まり、壁に頭を押しつけた。
冷たい岩。
痛み。
それで衝動を少し押さえる。
まだ駄目だ。
まだ。
だが、いつまで止められる。
捕食幼種になった身体は、以前よりもはっきり人間を餌として認識し始めている。
柔らかい肉。
温かい血。
情報の詰まった骨。
そう考えそうになる。
グレイラーヴァは、ゆっくりと呼吸のような動きをした。
生きるために喰う。
喰うために生きるな。
もう一度、心の中で繰り返す。
だが、奥の空腹は静かに笑っているようだった。
生きることと喰うことを、どう分ける。
分ける必要があるのか。
その問いに、答えはなかった。
通路の先に、小さな気配。
小型魔物。
弱い。
グレイラーヴァは、それを狩った。
以前よりも簡単に。
何の迷いもなく。
食べた。
力にした。
そして食べ終わった後、すぐに次の匂いを探している自分に気づいた。
グレイラーヴァは、暗闇の中で身体を止めた。
このままではいけない。
そう思う。
だが、このまま進まなければ死ぬ。
それも分かる。
捕食幼種。
その名の通り、自分は捕食するものになった。
それでも。
グレイラーヴァは牙を閉じ、暗闇の奥を見た。
何を喰うかは、まだ選ぶ。
その小さな抵抗だけを抱えて、グレイラーヴァは下層の通路を進んだ。
背後では、人間の足音が遠ざかっていく。
前方では、まだ見ぬ獲物の匂いがしていた。




