第15話『幼生』
暗い。
狭い。
冷たい。
それだけなら、もう慣れていた。
洞窟の暗さ。
岩の冷たさ。
湿った空気。
腐敗の臭い。
血の臭い。
骨の音。
どれも、グレイラーヴァにとっては当たり前になりつつあった。
だが、その小さな空洞の暗闇は、いつもより重かった。
身体が動かない。
動かせないわけではない。
動かそうと思えば動く。
だが、動けば傷が開く。
外皮が軋む。
失った脚の付け根が熱を持つ。
腹の奥に残った卵の栄養が、ずっと燃えている。
生きるために身体が働いている。
治すために。
変わるために。
その熱が、グレイラーヴァを内側から焼いていた。
痛い。
苦しい。
けれど、その痛みすら遠かった。
上位種の振動が、まだ身体に残っている。
水場に沈んでいた巨大な魔物。
岩と見間違えるほどの外皮。
水を震わせる声。
脚が岩を砕く音。
横に裂けた口。
届かないと思った壁まで迫る巨体。
あれは違った。
今まで出会った魔物とは、何もかもが違った。
虫型魔物。
鼠型魔物。
蛇型魔物。
痩せた獣。
黒い獣。
コウモリ型の魔物。
それらは危険だった。
強かった。
だが、まだ“相手”だった。
逃げるか、隠れるか、噛むか、毒を使うか、地形を使うか。
何かしら考える余地があった。
あの上位種には、それがなかった。
考える前に死ぬ。
そういう存在だった。
グレイラーヴァは、身体を丸めたまま小さく震えた。
怖い。
まだ怖い。
恐怖耐性が上がったはずなのに。
何度も死にかけたはずなのに。
痛みにも、毒にも、腐肉にも、同族の味にも、少しずつ慣れてきたはずなのに。
あれは怖かった。
ただ大きいからではない。
ただ強いからでもない。
あれは、この場所に完全に合っていた。
水に沈み。
岩に紛れ。
毒に耐え。
振動で獲物を止め。
卵で誘う。
生きる場所そのものと一体になっていた。
適応していた。
グレイラーヴァより、ずっと先に。
それが怖かった。
同時に、焼きつくようなものも残っていた。
ああなれば、生きられるのか。
そう思ってしまった。
上位種のように、環境に溶け込む。
上位種のように、縄張りを持つ。
上位種のように、他の命を近づけさせない。
上位種のように、存在するだけで周囲を震わせる。
そうなれば。
死なないのか。
食われないのか。
追われないのか。
グレイラーヴァは、自分の思考に気づいて少しだけ身を縮めた。
まただ。
恐怖の対象すら、いつか取り込もうとしている。
怖いものを避けるのではなく、怖いものに近づこうとしている。
あれを喰いたいとは思わない。
勝てるはずがない。
だが、あの在り方を見て、身体のどこかが覚えようとしている。
振動。
岩。
水。
待ち伏せ。
縄張り。
上位。
それらの情報を、自分の中に沈めている。
食べてもいないのに。
見ただけで。
逃げただけで。
生き残っただけで。
変わろうとしている。
《上位個体との遭遇情報を保持しています》
頭の奥で声が響いた。
グレイラーヴァは、目を開けた。
暗闇。
青白い光は届かない。
だが、声だけは鮮明だった。
《極限状態からの生存を確認》
《進化条件が更新されました》
進化。
その言葉を聞くと、身体の奥が一気に熱くなる。
やはり近い。
もう、すぐそこまで来ている。
グレイラーヴァは動こうとした。
だが、脚が震えてうまく動かない。
失った脚の付け根から、新しい肉芽が伸びかけている。
まだ脚ではない。
柔らかい突起。
そこが熱い。
ほかの脚も傷だらけだった。
外皮は割れている。
腹には鉱毒で焼けた跡がある。
背中には岩で削られた傷。
まともに動ける状態ではない。
だが、この場所も長く安全とは限らない。
匂いは薄い。
生き物の気配も少ない。
それでも、完全な安全などない。
空腹が来れば動かなければならない。
上位種が近づくことはないかもしれないが、小型魔物が入ってくる可能性はある。
人間も。
人間。
その単語が浮かぶと、また血の記憶が揺れた。
帰りたい。
助かりたい。
仲間。
名前。
グレイラーヴァは牙を噛み合わせた。
人間の血は危険だ。
今でも分かる。
ほんの数滴で、言葉と感情が流れ込んだ。
もっと飲めば、もっと分かる。
人間を理解できる。
だが、それは食欲と近すぎる。
知りたい。
だから喰いたい。
喰えば分かる。
その考えは危険だった。
けれど、完全には消えない。
人間は、自分を見つけた。
名をつけた。
追った。
殺すと言った。
それでも、低い声の男は、水場で自分を見逃した。
なぜ。
目的が違ったから。
仲間が怪我をしていたから。
危険だから。
それだけかもしれない。
でも、殺せるかもしれない場面で殺さなかった。
あれは何だった。
理解したい。
グレイラーヴァは、暗闇の中で身体を丸めた。
上位種の恐怖。
人間の不可解さ。
巣を失った痛み。
同族を食った記憶。
毒の痺れ。
腐肉の味。
全部が、身体の内側で混ざっていた。
この身体は、食べたものだけでできているわけではない。
逃げたもの。
見たもの。
怖れたもの。
失ったもの。
それらでも変わっていく。
そう思った。
その時、横穴の外で音がした。
かさ。
グレイラーヴァの身体が即座に反応する。
小さい。
一匹。
入口付近。
骨喰い虫ではない。
もっと柔らかい。
匂いは薄い。
黒い岩に近い匂い。
下層の小型魔物か。
グレイラーヴァは動けるか試した。
脚に力を入れる。
痛みが走る。
だが、動ける。
完全ではないが、隠れることはできる。
戦えるかは分からない。
音が近づく。
横穴の入口から、細い魔物が入ってきた。
黒い幼虫のような姿。
白い幼生だった自分に似ているが、外皮が黒い。
頭部が小さく、身体は細長い。
光を嫌うのか、ほとんど音を立てずに這っている。
下層の幼生。
そう思った。
同族ではない。
だが、近い存在。
未発達。
弱い。
小さい。
グレイラーヴァの腹が反応した。
まだ空腹は強くない。
だが、傷を治すために栄養がいる。
進化のためにも。
黒い幼生は、こちらに気づいていない。
入口付近の岩を舐めている。
鉱物か苔を食べているのかもしれない。
グレイラーヴァは動かなかった。
食うべきだ。
そう思う。
弱い。
逃がす理由はない。
だが、同時に別の感情があった。
自分に似ている。
それだけ。
白い幼生を食べた時の記憶が蘇る。
黒い目。
恐怖。
柔らかい肉。
濃い味。
あの時ほどの拒絶は、もうない。
それが余計に嫌だった。
黒い幼生が、さらに奥へ入ってくる。
グレイラーヴァの隠れている場所に近づく。
気づいていない。
今なら、一撃で殺せる。
グレイラーヴァは少しだけ身体を起こした。
脚が痛む。
だが、牙は使える。
黒い幼生の首元。
柔らかい部分。
そこへ噛みつけば終わる。
そう判断した瞬間、黒い幼生がぴたりと止まった。
触角のようなものを震わせる。
気づいたか。
グレイラーヴァも止まる。
互いに動かない。
暗い横穴の中で、二つの幼生が向かい合った。
黒い幼生は震えていた。
怖がっている。
それが分かった。
逃げたい。
だが、後ろに下がるとグレイラーヴァの方へ腹を向けることになる。
だから動けない。
弱い。
あまりにも。
少し前の自分を見るようだった。
グレイラーヴァは、牙を閉じた。
食うか。
見逃すか。
考える。
見逃せば、何の得にもならない。
後で敵になるかもしれない。
別の魔物に食われるかもしれない。
自分の傷は治らない。
進化にも近づかない。
食えば得る。
栄養。
下層への適応。
黒い外皮の性質。
鉱物を食べる能力。
きっと何か得られる。
それは分かっている。
なら食うべきだ。
生きるために。
グレイラーヴァは一歩近づいた。
黒い幼生が震えた。
その震えを見て、グレイラーヴァは止まった。
帰りたい。
人間の血にあった感情が、なぜか浮かんだ。
この黒い幼生に帰る場所があるとは思えない。
巣があるのかも分からない。
誰かが待つわけでもないだろう。
だが、死にたくないのは分かる。
それだけは。
グレイラーヴァは、しばらく黒い幼生を見ていた。
そして、横へずれた。
入口へ向かう隙間を開ける。
黒い幼生は動かなかった。
理解できないのか。
罠だと思っているのか。
グレイラーヴァも動かない。
やがて、黒い幼生はゆっくり後ずさった。
少しずつ。
こちらを警戒しながら。
そして入口へ達すると、一気に逃げ出した。
かさかさと小さな音が遠ざかる。
グレイラーヴァは追わなかった。
なぜ見逃したのか。
自分でも分からない。
腹は納得していない。
身体は栄養を求めている。
進化も近い。
見逃す理由などない。
それでも、食わなかった。
人間の血のせいだろうか。
帰りたいという感情に触れたからか。
あるいは、ただ自分と似たものをこれ以上食べるのが嫌だっただけか。
分からない。
だが、見逃した。
その事実が残る。
《捕食機会を放棄しました》
頭の奥で声が響いた。
グレイラーヴァは動きを止めた。
声は続く。
《行動判断に非捕食選択を確認》
《共感反応、微弱》
共感。
またその言葉。
グレイラーヴァは、暗闇の中で目を細めた。
共感。
他者の感情を、自分の中に感じること。
黒い幼生の恐怖を、自分の恐怖と重ねた。
だから食わなかった。
そういうことなのか。
だが、それは正しいのか。
この洞窟で、そんなものは生存の邪魔になる。
弱いものを食わずに逃がせば、自分が弱ったままだ。
食うべきだった。
そう考える自分もいる。
でも。
食わなかったことで、何かを失わずに済んだ気もした。
何を失わずに済んだのかは分からない。
グレイラーヴァは、再び身体を丸めた。
その時、今度は別の音がした。
さっきの黒い幼生が逃げた方向。
短い悲鳴。
潰れる音。
グレイラーヴァは固まった。
すぐに分かった。
さっき見逃した幼生が、別の何かに食われた。
外の通路で。
グレイラーヴァは動かなかった。
動けなかった。
見逃しても、死ぬものは死ぬ。
水場で白い幼生を見逃した時と同じだ。
あの時も、すぐにコウモリ型の魔物に捕まった。
今回も。
弱いものは死ぬ。
自分が食わなかっただけで、助かったわけではない。
ただ、別のものの餌になっただけ。
グレイラーヴァの腹が静かに鳴った。
さっき食っていれば、自分の力になった。
そう言われているようだった。
グレイラーヴァは、岩に頭を押しつけた。
冷たい。
だが、頭の中のざわめきは消えない。
見逃す意味はあるのか。
助けられないなら。
結局死ぬなら。
食った方が合理的ではないか。
そう思う。
だが、もしそう割り切れば、次は迷わず食う。
黒い幼生も。
白い幼生も。
怪我をした小型魔物も。
人間も。
恐怖を見ても、帰りたいを知っても、ただ餌として処理する。
その方が生きやすい。
きっと。
でも、それでいいのか。
グレイラーヴァには答えが出せなかった。
外の通路から、食っている音が聞こえる。
ぐちゅ。
ばき。
小さい骨が砕ける。
黒い幼生はもう死んでいる。
その音を聞いていると、グレイラーヴァの中でまた別の感情が動いた。
悔しい。
自分が見逃したものを、別の魔物が食っている。
助けられなかった悔しさなのか。
餌を奪われた悔しさなのか。
分からない。
分からないことばかりだ。
グレイラーヴァは、ゆっくりと横穴の入口へ向かった。
外を覗く。
通路にいたのは、骨喰い虫に似た魔物だった。
ただし、骨喰い虫より大きい。
殻は黒い。
顎が発達している。
黒い幼生を半分ほど食べている。
グレイラーヴァに気づいていない。
今なら、背後から襲える。
相手は食事中。
隙がある。
強さは自分より少し上かもしれないが、傷ついてはいない。
勝てるかは分からない。
だが、今は怒りがあった。
何に対する怒りか分からないまま、グレイラーヴァは動いた。
壁へ登る。
音を殺す。
黒い骨喰いの背後へ回る。
天井から落ちる。
狙いは首の付け根。
以前の骨喰い虫より硬い。
だが、構造は似ている。
顎を避ける。
脚の付け根を狙う。
黒い骨喰いが暴れる。
食べかけの幼生の残骸が飛ぶ。
グレイラーヴァは、それを見てさらに牙を深く入れた。
黒い骨喰いの顎が背中を掠める。
外皮が割れる。
痛い。
だが、離さない。
一度脚を切る。
黒い骨喰いが体勢を崩す。
もう一本。
さらに首。
グレイラーヴァは動きながら噛む。
自分の身体が、骨喰い虫との戦い方を覚えている。
同じ種類なら、弱点も似ている。
利用する。
学んだことを使う。
やがて、黒い骨喰いが動かなくなった。
グレイラーヴァは、その死体の上でしばらく息を潜めていた。
勝った。
だが、すぐに食べなかった。
隣には、見逃した黒い幼生の残骸がある。
半分食われている。
もう生きていない。
グレイラーヴァは、それを見た。
自分が食わなかったもの。
助けられなかったもの。
別の魔物の餌になったもの。
それが、今は死体として転がっている。
食べるか。
身体は反応した。
死んでいる。
もう苦しまない。
食わなければ腐る。
別の魔物が食う。
なら、自分が食っても同じ。
いつもの理屈が浮かぶ。
グレイラーヴァは、しばらく動かなかった。
そして、黒い骨喰いの方を食べた。
黒い幼生には、牙を立てなかった。
それが何の意味を持つのか、分からない。
ただ、そうした。
黒い骨喰いの肉は硬く、苦く、鉱石の味がした。
顎の付け根は栄養が濃い。
外殻は食べにくいが、少しずつ削れば飲み込める。
《黒殻骨喰いを捕食しました》
《顎力が上昇しました》
《外皮硬化が上昇しました》
《黒岩適応の素質が発現しかけています》
《鉱物消化の素質が上昇しました》
《捕食経験値を獲得しました》
黒岩適応。
グレイラーヴァは、黒い岩肌を見た。
やはり、この場所へ合わせて変わる。
白から灰へ。
灰から、次は黒へ。
そうやって、環境ごとに身体が作り変わっていく。
自分に決まった形はない。
その事実は、もう何度も突きつけられている。
グレイラーヴァは黒殻骨喰いを食べ終えた。
傷が熱い。
腹の奥が燃える。
卵の栄養。
黒殻の性質。
上位種から逃げた恐怖。
人間の血。
共感反応。
捕食の放棄。
すべてが一つの場所へ集まっていく。
身体の中心。
そこが膨らむような感覚。
熱が限界に近づいている。
《進化条件を達成しました》
声が響いた。
グレイラーヴァは動きを止めた。
ついに。
《現在の個体状態を確認》
《幼生段階、限界値へ到達》
《進化先を選択可能です》
グレイラーヴァの視界が歪んだ。
目の前の暗闇に、文字のようなものが浮かぶ。
読める。
意味が分かる。
それは声と同じで、頭の奥へ直接入ってくる。
三つ。
いや、最初は三つだった。
だが、揺れている。
これまでの行動が影響しているのか、候補が形を変えていく。
《捕食種》
生体捕食に特化した進化。
筋力、顎力、反応速度が上昇。
捕食による能力獲得効率が上昇。
空腹衝動が強化される。
《夜魔幼体》
暗所行動に特化した進化。
隠密、壁面移動、静音移動が大きく上昇。
光への耐性が低下。
孤立環境での生存力が上昇。
《群生核》
眷属、寄生、群体化への進化素質。
自己分裂、幼体支配、巣形成能力が上昇。
単独戦闘能力は低下。
グレイラーヴァは、三つの候補を見た。
捕食種。
夜魔幼体。
群生核。
どれも、生きるための形だった。
捕食種になれば、喰う力が増す。
獲物を狩り、肉を得て、さらに変わる。
分かりやすい。
今の自分に近い。
だが、空腹衝動が強化される。
それは危険だった。
ただでさえ、自分は食欲に引きずられている。
人間の血を知った。
同族の味も知った。
さらに空腹が強くなれば、止まれるのか。
分からない。
夜魔幼体。
隠れる力。
逃げる力。
暗闇に溶ける力。
人間からも、上位種からも、少しは逃げやすくなるかもしれない。
ただし、光に弱くなる。
人間の火や光石に、さらに危険になる。
それでも、自分らしい進化かもしれない。
グレイラーヴァは隠れて生きてきた。
音を殺し、壁を走り、影に潜んだ。
夜魔幼体は、その延長だ。
群生核。
それを見た時、グレイラーヴァの身体の奥が奇妙に震えた。
眷属。
寄生。
群体。
自己分裂。
巣形成。
単独ではなくなる。
自分が、自分だけではなくなる。
それは怖かった。
今までの恐怖とは違う。
自分の輪郭が薄くなるような恐怖。
だが同時に、上位種のような存在へ近づく可能性も感じた。
巣。
縄張り。
複数。
支配。
もし自分が一匹でなくなれば。
もし、自分の一部を増やせれば。
生存率は上がる。
だが、それは本当に自分なのか。
グレイラーヴァは三つの候補を見続けた。
どれを選ぶ。
生きるために。
まず、群生核は違う。
そう思った。
今の自分には早すぎる。
自分が何かも分からないのに、増えることなどできない。
巣を失ったばかりで、群れを持つ余裕などない。
それに、単独戦闘能力低下は危険だ。
今は一匹で生きなければならない。
残るは、捕食種と夜魔幼体。
喰うか。
隠れるか。
狩るか。
逃げるか。
グレイラーヴァは、上位種の振動を思い出した。
あれから逃げるには、隠密が必要だ。
壁面移動も、静音も、暗所適応も必要だ。
だが、人間に追われるなら、ただ逃げるだけでは足りない。
餌を得られなければ死ぬ。
水を得られなければ死ぬ。
強い魔物から逃げ続けても、弱い獲物すら狩れなければ死ぬ。
捕食種。
その言葉が、身体に強く響く。
食えば変わる。
これまでずっとそうだった。
死肉を食った。
虫を食った。
獣を食った。
蛇を食った。
卵を食った。
血を舐めた。
自分は、喰って生き延びてきた。
喰わなければ死んでいた。
なら、進むべき道は決まっているのかもしれない。
だが、空腹衝動。
それが怖い。
喰うことへの抵抗が薄れている。
今でも、同族を食った記憶は消えない。
人間の血の味も消えない。
捕食種になれば、それがもっと強くなる。
人間を見た時、止まれるか。
恐怖で逃げるのではなく、食欲で飛びかかってしまわないか。
分からない。
グレイラーヴァは、黒い幼生の残骸を見た。
自分が見逃したもの。
別の魔物に食われたもの。
それでも、自分はその残骸を食べなかった。
まだ選べる。
捕食種になっても、選べるだろうか。
分からない。
でも、選ぶ力が欲しいなら、生きていなければならない。
死ねば何も選べない。
夜魔幼体なら、生き延びる力は高い。
だが、今の下層では隠れるだけでは足りない。
上位種に怯え、人間に追われ、餌を奪われる。
それで終わるかもしれない。
捕食種なら。
狩れる。
奪える。
食って変われる。
危険だ。
だが、進まなければ死ぬ。
グレイラーヴァは、選択肢を見た。
捕食種。
夜魔幼体。
群生核。
そして、その奥。
一瞬だけ、文字が乱れた。
《未確定進化経路》
《条件不足》
《人族摂取情報、上位個体遭遇情報、共感反応、捕食放棄行動を保持》
《現在は選択不可》
グレイラーヴァは、その乱れた文字に意識を奪われた。
未確定。
まただ。
自分には、決まっていない道がある。
普通の進化ではない何か。
だが、まだ足りない。
人間の血。
上位種。
共感。
捕食しなかった選択。
それらが関わっている。
グレイラーヴァは、理解できないままその文字を見つめた。
自分は、ただの魔物なのか。
それとも。
考えても答えはない。
今選べるのは三つ。
選ばなければならない。
身体は限界だ。
進化しなければ、傷も完全には戻らないかもしれない。
グレイラーヴァは静かに決めた。
《捕食種》
選ぶ。
恐怖があった。
嫌悪もあった。
だが、今は力が必要だった。
逃げるためにも、隠れるためにも、理解するためにも。
まず、生きなければならない。
生きるには、喰う力が必要だ。
グレイラーヴァの意識が、選択肢へ触れる。
その瞬間、全身が燃えた。
《捕食種への進化を開始します》
熱。
痛み。
圧力。
身体の内側から、何かが押し広げられる。
外皮が軋む。
背中が裂ける。
脚の付け根が膨らむ。
失った脚が再生するどころか、形を変えて伸びていく。
顎が熱い。
牙が疼く。
腹の奥が燃える。
グレイラーヴァは声を出しそうになった。
だが、喉が塞がる。
音にならない。
身体が勝手に丸まる。
脱皮の時とは違う。
もっと深い。
外側を脱ぐだけではない。
内側から組み替えられている。
骨があるのか分からない身体の奥で、硬い芯のようなものが生まれる。
顎が広がる。
牙が抜け、新しい牙が押し出される。
目が熱い。
視界が黒く染まる。
匂いが濃くなる。
血の記憶が強くなる。
肉。
骨。
毒。
卵。
人間の血。
全部の味が一度に蘇る。
喰いたい。
猛烈な衝動が来た。
傷を治すため。
進化を完了させるため。
身体が餌を求めている。
今すぐ。
近くの黒い幼生の残骸。
食べろ。
そう命令される。
グレイラーヴァは、苦痛の中でそれを感じた。
食べれば楽になる。
進化が進む。
栄養になる。
目の前にある。
死んでいる。
もう苦しまない。
食え。
食え。
食え。
グレイラーヴァの身体が、残骸へ向かって動きそうになる。
だが、止めた。
理由は分からない。
ただ、それだけは食べなかった。
黒殻骨喰いは食べた。
卵も食べた。
蛇も食べた。
獣も食べた。
同族も、前に食べた。
それでも、今そこにある黒い幼生の残骸だけは食べなかった。
自分が見逃したもの。
助けられなかったもの。
せめて、それだけは。
そんな言葉が浮かんだ。
せめて。
誰に対するものか分からない。
何の意味があるのかも分からない。
それでも、牙を向けなかった。
身体は怒っているようだった。
飢えが内側から暴れる。
足りない。
足りない。
食え。
しかしグレイラーヴァは、黒殻骨喰いの残った殻へ噛みついた。
硬い。
苦い。
栄養は少ない。
それでも食う。
殻を砕く。
顎が痛む。
新しい顎が、殻を割る感覚を覚える。
ばき。
ばき。
硬いものを砕く音が横穴に響く。
グレイラーヴァは食べ続けた。
黒い幼生ではなく、骨喰いの殻を。
それで足りるのかは分からない。
だが、意地のようにそうした。
《捕食衝動への抵抗を確認》
《選択行動を確認》
《進化過程に影響します》
グレイラーヴァは、苦痛の中でその声を聞いた。
影響。
何に。
分からない。
だが、少しだけ安堵した。
まだ選べた。
進化の最中でも。
捕食種を選んでも。
完全に飢えに飲まれたわけではない。
それだけは確かだった。
やがて、身体の熱が頂点に達した。
外皮が裂ける。
古い灰色の皮が剥がれ落ちる。
その下から、新しい外皮が現れる。
灰より濃い。
黒に近い。
だが完全な黒ではない。
岩の影のような色。
光を吸うような鈍い外皮。
脚は少し太くなった。
先端の爪は鋭い。
壁を掴むだけでなく、獲物を押さえるための形。
顎は大きくなった。
裂けた口はさらに広がり、牙は前より深く肉へ入る形に変わっている。
目は増えていない。
だが、暗闇の中で動くものを捉えやすくなった。
匂いは強烈だった。
近くの残骸。
自分の血。
鉱毒。
遠くの小型魔物。
全てが鮮明に分かる。
腹の奥は、まだ空いている。
進化したのに、空腹は消えない。
むしろ質が変わった。
ただ腹が減るのではない。
獲物を探す感覚。
何を食えば何を得られるか、身体が考えている。
これは危険だ。
そう思った。
だが、同時に強い。
圧倒的に。
グレイラーヴァは、ゆっくりと身体を起こした。
痛みは残っている。
しかし、動ける。
失った脚も新しく伸びている。
完全ではないが、以前より力強い。
横穴の床に脚を立てる。
岩を掴む。
身体が軽い。
傷は塞がり始めている。
外皮は硬い。
牙は鋭い。
もう白い幼生ではない。
灰色の幼生でも、以前のままではない。
捕食種。
その言葉が、自分の中に沈む。
《進化が完了しました》
《個体名仮称、グレイラーヴァ》
《種族、捕食幼種》
《捕食による能力獲得効率が上昇しました》
《空腹衝動が上昇しました》
《嫌悪反応が低下しました》
最後の言葉で、グレイラーヴァは動きを止めた。
嫌悪反応が低下しました。
はっきり告げられた。
身体の変化として。
能力のように。
腐肉を嫌わなくなる。
血を恐れなくなる。
同族を食うことへの抵抗が薄くなる。
人間の肉を、餌として見やすくなる。
その方向へ、確実に進んでいる。
グレイラーヴァは、黒い幼生の残骸を見た。
まだそこにある。
食べなかったもの。
進化の最中でも、牙を立てなかったもの。
もし今なら。
どう感じる。
グレイラーヴァは近づいた。
残骸の匂いがする。
弱い。
死んでいる。
食べられる。
栄養になる。
以前よりも、ずっと抵抗が薄い。
本当に、薄い。
グレイラーヴァは、口を開いた。
牙が残骸に触れそうになる。
その瞬間、人間の血にあった感情が浮かんだ。
帰りたい。
黒い幼生にそんな感情があったかは分からない。
だが、死にたくなかったはずだ。
グレイラーヴァは口を閉じた。
食べなかった。
それが何になるのかは分からない。
ただ、食べなかった。
横穴の奥に、幼生の残骸を前脚で押した。
食べるためではなく、隠すために。
他の魔物が来れば食うだろう。
それを止める力はない。
けれど、自分は食べない。
その選択だけをした。
《捕食衝動への抵抗を確認》
《共感反応、微弱》
《未確定進化経路に記録されます》
未確定進化経路。
その言葉がまた響いた。
グレイラーヴァは、暗闇の中でしばらく動かなかった。
自分には、まだ分からない道がある。
捕食種になった。
喰う力を選んだ。
だが、喰わない選択もどこかに記録されている。
この身体は、その矛盾すら材料にする。
恐ろしい。
だが、少しだけ救いにも思えた。
全部が飢えに飲まれるわけではない。
まだ。
グレイラーヴァは横穴の入口へ向かった。
新しい外皮が岩に触れる。
音は少ない。
身体が軽い。
暗闇の奥から、小さな魔物の匂いがする。
以前なら怯えた。
今は、狩れると分かる。
その感覚が自然にある。
それを受け入れながら、同時に警戒する。
喰う力に呑まれるな。
生きるために喰え。
喰うために生きるな。
そんな言葉が浮かんだ。
誰に教わったわけでもない。
人間の血から拾ったものかもしれない。
自分の中に残った何かかもしれない。
どちらでもいい。
グレイラーヴァは外へ出た。
通路は暗い。
黒い岩。
青白い結晶。
遠くの水音。
上位種の気配は遠い。
人間の足音も聞こえない。
小型魔物の気配がある。
餌になる。
だが、今すぐ飛びかからない。
まず周囲を見る。
出口を確認する。
匂いを読む。
振動を拾う。
捕食者になっても、油断すれば死ぬ。
それは変わらない。
グレイラーヴァは壁へ登った。
以前より速い。
脚がしっかり岩を掴む。
天井近くの影へ身を移す。
そこから通路を見下ろす。
下を小さな虫型魔物が通る。
グレイラーヴァはじっと待った。
一匹。
弱い。
狩れる。
だが、すぐには動かない。
他に気配がないか確認する。
上から狙うものはいないか。
壁の奥に蛇はいないか。
人間の匂いはないか。
待つ。
見る。
選ぶ。
そして。
落ちる。
捕食は一瞬だった。
虫型魔物が反応する前に、首の隙間へ牙が入る。
以前より深い。
以前より速い。
体液が口へ広がる。
味が鮮明だ。
どこが栄養になるか。
どこが殻で、どこが柔らかいか。
全部分かる。
グレイラーヴァは短く食べ、残りを岩陰へ引きずった。
無駄にしない。
音を出さない。
血の匂いを広げすぎない。
それらは変わらない。
《小型甲殻魔物を捕食しました》
《捕食幼種としての適応を確認》
《捕食経験値を獲得しました》
身体が熱くなる。
だが、以前より効率がいい。
少ない量でも力になる。
グレイラーヴァは食べながら、遠くを見た。
この暗い通路の先に何があるのかは分からない。
上には人間。
下には上位種。
周囲には魔物。
自分はまだ小さい。
まだ弱い。
だが、幼生のままではなくなった。
死肉を漁るだけの白いものではない。
逃げるだけの灰色のものでもない。
喰うことで進む捕食幼種。
グレイラーヴァ。
その音を、静かに自分の中で呼ぶ。
名前ではない。
人間がつけた仮称。
それでも、今はそれでいい。
いつか別の名になるのかもしれない。
あるいは、名など必要なくなるのかもしれない。
分からない。
ただ、今はこの音がある。
グレイラーヴァは、虫型魔物の残骸から口を離した。
空腹は少し満たされた。
だが完全には消えない。
捕食種の腹は、奥で静かに次を求めている。
それを抑えながら、グレイラーヴァは暗闇へ進んだ。
生きる。
何になってでも。
だが、何でも喰えばいいわけではない。
まだ、そう思える。
その小さな抵抗を抱えたまま、グレイラーヴァは下層の影へ溶けていった。
幼生は、終わった。
捕食者が、目を覚ました。




