送り手と受け手
音楽でも絵画でもなんでもいいです。何かしらの創作活動に関しては送り手側がとかく注目を集めがちです。だからAI技術が発達して、人間と見分けがつかないぐらいのクオリティの創作をするようになってきた今、人々はそれを脅威に感じています。しかしそれは創作という行為の片面でしかないと思うわけです。
それらの行為の重要な要素は、送るだけではなく受ける存在が必要だという事です。例え人と寸分違わぬコンテンツをAIが作ったとして、誰がそれに感動できるんでしょうか? それは人間にしかできません。AIが創り出して、それをAIが受け取って感動できるのなら、そりゃ人間はいなくてもいいような気がしますが、多分それは無理のような気がします。
分かりやすいのは建築です。建築は作って終わりではありません。出来上がったあとにそれを使うところがメインです。だから私は建築はモノではなくてコトだと言ってますが、受け取り手や使い手がいて、はじめて成立する行為なわけです。
だからAIが創作することに目くじらを立てなくてもいいような気がしているわけです。素晴らしい建築が作れるのであれば作ってもらえばいいと思います。使うのが人間であれば、主導権はいつでも人間側にあり続けます。なにかが生み出される意味は、生み出されたその後にこそ存在しているのです。
最近AIを使ってアレンジした昔の歌謡曲なんかを聞き漁っていますが、完成度が凄いです。演奏も歌い方も人間と聞き分けがつかないものが多いです(まだ原曲とは歌い方の相違があるものが多いです)。でもそれらはもちろん大元の楽曲があって、それをこう聞かせたいという意思が無ければ完成どころか、生成される事すらなかったでしょう。そんなの当たり前です。そうして聞かせたいの反対側には、『聞きたい』が必ず存在しています。だからAIの作ったものに感動してもいいと思いますし、決してそれは恥じる事ではないと考えます。




