人間しかお金を使わない
人間だって所詮は動物の一種に過ぎない。量子力学でいうところの観測問題にしても、何も人間が観察しなくても、犬や猫が観察しても同じ事だろうと言われるかもしれない。しかし本当にそうなのだろうか?
人間は、特にその肉体については動物のそれと同じでしかない。それは確かにそうだ。しかし意識までひっくるめて全体としては、かなり特殊な存在だなと思う。動物の肉体であってもその中身が突出して変わっている。分かり易いところで言えばお金という概念を持っているのは、人間しかいない。
お金自体には何の価値もない事を人間であれば皆知っている。金貨や銀貨はそれなりに金属材料としての価値はありそうだが、紙幣などというものはただの印刷した紙である。水のない砂漠や、食べ物の無い荒野では何の役にも立たない。そのお金という存在に対する約束と信用が、なにかしらの価値をもつものを交換するために、メモ書きのようにして使われているだけなのだ。
同様な役目を持たせられるものであれば、切手でも証券でも、一昔前なら切符でも同じことだ。最近の電子マネーなら、その約束事をデジタル化して情報の中に溶け込ませてさえいる。これは実は人間が極めて特殊な存在である証拠ではないだろうか。そうしてその対価は生きる為の糧、食べ物やエネルギーだけに使われるわけでもない。趣向品や娯楽にも費やされる。生きる為の労働と娯楽を等価にしてしまうのだ。改めて考えれば動物、いや生物としてはかなり変わった事をしているとは思えないだろうか?
しかもそのお金という物をめぐって、他者の命を奪うものまでいる。またそれが不足する事で人生を悲観して自ら命を絶つものもいるのだ。命といえば生物にとってはかなり重要な存在なのに、ただの約束事でそこまで熱くなれるというのは他の動物には理解が不能だろう。
但しお金は文明が進化する上での、ひとつの過渡期に存在する徒花なのかもしれない。本質はそこに無いような気もする。どうにも一万年後の未来人がお金をやり取りしている姿が想像できないのだ。だからきっとお金は、分かり易い人間が描く価値交換のメタファーなんだろう。大昔にはそれは米だったり、食べ物だったりしたように、遠い未来では違う物に置き換わるのだろう。置き換わったところで、それがメタファーしている本質的な何かは無くならないのかもしれない。それがきっと人間の特殊性から来るなにかなのだろう。




