那の津=奴の津
鴻臚館という飛鳥時代から平安時代にかけての日本の迎賓館は、三か所あった事が知られています。そのうち現在復元整備中の福岡にある鴻臚館は、元の名前は筑紫館でした。ではこれが最古かというと、大阪の難波館の方が古いらしいです。
ならば筑紫館を更に遡るとどうなるのか? 現在の博多区に那津官家というものがあったそうです。ここは軍事や政治の拠点として置かれたもので、それが海に近い場所で筑紫館、山に近い場所で大宰府の二つに分かれていったらしいです。
そこでふと思いました。那の津は現在でも残っている地名ですが、この語源はなんなのだろうと……金印で有名な『漢委奴国王』の奴国とは、現在の春日市あたりを中心とした、福岡市あたりにあった国の名前です。文献に残っている限りは日本で最古の国家です。邪馬台国よりも前です。当時の漢字は音だけを表す当て字が多かったので、もともとは『奴の津』だったのではないでしょうか?
津の方は音というよりは字から類推して、港とか海岸という意味でしょう。つまり那の津には奴国の港といった意味合いが隠されているんじゃないでしょうか? そうして那津官家が置かれたとされる場所は(現在の比恵遺跡あたり)、日本最古級の水田と環濠集落跡である板付遺跡のすぐ近くです。よくよく考えてみれば、このあたりに大規模集落があったのなら、それが元になって奴国が成立していたというのが自然の流れのような気がします。
そうして板付遺跡と奴国の中心とされる須玖岡本遺跡は那珂川と御笠川に挟まれた地域です。 那珂川? ここにも『な』が出てきます。
古代の日本語ではどうも『な』という音は豊かさと場所を表しているらしいですが、奴国の『な』は豊かな場所という意味なのかもしれません。板付遺跡がその元になったのであれば、もしかして当時は国ではなくともその集落は『な』と呼ばれていたのかもしれませんね。奴国成立後も板付遺跡周辺は引き続き集落であり続けて、奴国の産業ベースであった、青銅器の型なんかも出てきているようなので、戦って負けたとか征服されたというよりは、やはり周辺の人々が集まって王族候補を輩出したとかそういった位置づけだったと考えた方が自然のような気がします。
那珂川という名前を聞いて当初は、『中川』に当て字をされたものなのかと思ってましたが、最近は逆のような気がしています。『な』が豊かな場所を示す意味であれば『か』のほうも場所をあらわしているそうです。「すみか」とか「ありか」は今でも使いますね。那珂川と御笠川の中央に位置する豊かな場所。奴国という場所が、中心という意味を持って『なか』=中(漢字自体は象形文字だと思いますが)になったような気がします。
ところで御笠川の方の語源はなんなんでしょうか? 神功皇后の笠伝説とか、源流の宝満山が笠であるとかいろいろと言われていますが、『み』の音が気になります。連想するのは水です。那珂川の方もなんとなく昔は『ながわ』で御笠川は『みがわ』ぐらいだったような気がします。根拠は全くありません。そもそも川に名前を付けていたのかどうかも分かりません。
文字のない時代というのは、本当にどうにも事実を特定しようがなくてもどかしいですね。しかし逆に言えばどう考えても言ったもの勝ちのような気もして、そこは楽しいです。




