第9話 離縁届は、まだ白い
茶会の後、私は、夫と二人で話した。
お義母様も、使用人もいない部屋。
セドリック様は、私が座るまで、窓のそばに立っていた。
「今日のことで、傷ついたか」
私は、うなずいた。
「離縁の話を聞くと、初日の約束を思い出します」
彼が、視線を落とす。
「君が、離れる道を塞ぎたくなかった」
「その約束があったから、安心できたこともあります」
私は、続けた。
「でも、夫らしい優しさを期待するなと言われたことは、まだ、少し残っています」
彼は、椅子へ座った。
言い訳を、すぐ探さなかった。
「俺は、うまくできないことを、先に断っておけばよいと思っていた」
ゆっくりした声だった。
「君が何を望むか、訊く前に。俺の方で、ここまでだと決めた」
私は、膝の上の手を見た。
「はい」
「すまなかった」
声は、初日の公爵の声より、やわらかかった。
でも、やわらかいだけで、全部忘れるつもりはなかった。
「これからは、言葉にしてください。何を望んでいるのか」
彼は、私を見た。
「君と、暮らし続けたい」
私は、顔を上げた。
言うかもしれないと思っていた。
思っていても、聞くと、胸が熱くなった。
「お義母様が、喜ぶからではなく?」
「母上が喜ぶことと、俺が君に会いたいことは、別だ」
彼は、少し笑った。
「別邸へ行ったのは、最初は、君が困っていないか知りたかったからだ。その後は、帰ると、また行きたくなった」
私は、指先を重ねた。
「花を持ってきたのも?」
「会いたいと言う代わりに、渡せるものを探した」
「多すぎました」
「分かった。次は、少なくした」
その言葉に、私は、笑った。
私が嫌だったことを言えば、この人は変えてくれた。
全部一度にではなくても。
私は、机の引き出しから、初日の取り決めを出した。
半年後は、まだ先だ。
離縁のための用紙も、控えとして入っている。
名前を書く欄は、白い。
「私は、今、離縁したいとは思っていません」
彼の肩が、少し下がった。
「でも、出ていくことを選べる約束は、残してください。それがある方が、ここにいたいと言いやすいです」
「残す」
彼は、すぐ答えた。
紙を、破らなかった。
「愛していると言ったら、君は困るか」
私は、彼を見た。
そんなことを、先に訊く人になった。
「困りません。驚きます」
彼は、息を吸った。
「ニナ。君を愛している」
私は、目を閉じた。
小説の続きを知っているから、選ばれたのではない。
この人に会い、話して、笑った。
まだ間違うところもある。
それでも、もっと知りたい。
「私も、あなたが好きです」
彼は、手を差し出した。
私が、握る。
温かかった。
「抱きしめても、いいか」
「はい」
腕が、背中へ回った。
大きな花束より、ずっと近い。
私は、彼の肩に頬を寄せた。
しばらくして、廊下から声がした。
「お茶を、持ってきました」
お義母様だった。
扉は、開かなかった。
ちゃんと、待っていた。
私は夫を見た。
彼も、私を見た。
「もう少し、後でお願いします」
私が言うと、外が、しばらく静かになった。
「分かったわ。冷めたら、淹れ直す」
足音が、離れる。
夫が、笑った。
「母上にも、先を越されない時間ができた」
私は、彼の袖を軽く引いた。
「お義母様と、競争ではありません」
「分かっている」
彼はそう言って、私の額へ唇を寄せた。
私は、目を閉じた。
白い離縁届は、机の上に残っていた。
その紙を見ても、もう、今夜の私の気持ちは変わらなかった。




