飛び級
平成十五年。
クラウザー観光。
企画開発部。
伊東康則は、窓際に立っていた。
三十三歳。
四年前、三十歳で企画開発部長になった男は、今では会社の売上を左右する存在になっていた。
机の上には、最新の決算資料。
だが、康則はそれを開かなかった。
数字には、あまり興味がない。
自分が面白いと思ったものを見つけ、企画にする。
それが康則の仕事だった。
その時。
扉が開いた。
「伊東」
倉田だった。
クラウザー観光専務取締役。
康則を大連から呼び戻した男でもある。
「倉田さん」
「ちょっと来い」
「何です?」
「俺んとこだ、専務室」
「怒られるんですか?」
「何でだ」
「呼ばれると、だいたい怒られるんで」
倉田は呆れた。
「いいから来い」
「はい」
康則は笑いながら後をついていった。
専務室。
倉田は一枚の書類を机の上に置いた。
「これ、見ろ」
康則が手に取る。
「人事案?」
「そうだ」
康則は目を通す。
しばらくして顔を上げた。
「……俺?」
倉田は頷いた。
「クラウザー観光、次期社長」
康則は固まった。
「いやいや」
「何だ」
「無理でしょう」
「何でだ」
「俺、まだ三十三ですよ」
「三十三なら十分だ」
「倉田さん、四十九じゃないですか」
「だから?」
「そろそろ社長やれる歳じゃないですか」
倉田は笑った。
「俺がやるより、お前がやったほうがいい」
「でも……」
康則は困ったように頭を掻いた。
「社長って、会議ばっかりでしょう?」
「増えるな」
「責任も重い」
「重いな」
「海外にも行きにくくなる」
倉田は眉を上げた。
「……結局、それか」
「大事ですよ」
「お前な」
倉田は椅子に座った。
「三年前、お前を部長にした時も嫌がったな」
「そうでしたっけ?」
「海外へ行きたいって言った」
「言いました」
「それで俺が『好きなだけ行け』と言ったら、あっさり受けた」
「いい条件でしたから」
倉田は苦笑した。
「お前は本当に変わらんな」
康則は黙った。
倉田の表情が、少し変わった。
「伊東」
「はい」
「俺はな」
「はい」
「正直、ビビっとる」
康則が目を丸くする。
「……え?」
倉田は真っ直ぐ康則を見る。
「お前が企画を始めてから、七年だ」
「最初の四年で、クラウザー観光の売上を十倍にした」
康則は何でもないことのように聞いている。
倉田は続けた。
「三年前、三十歳で部長にした」
「そこから三年で、さらに売上を倍にした」
「そして今期も、前年比三割増だ」
康則は首を傾げた。
「そうなんですか?」
倉田は呆れたように笑う。
「お前、自分で数字見ないよな」
「興味ないんで」
「俺が報告しても、だいたい上の空だ」
「すみません」
「いい」
倉田はため息をついた。
「それだけじゃない」
「今も、お前の企画が会社を伸ばしてる」
「韓国ドラマの『夏の彼方』」
「あのロン様ツアーだ」
康則が笑った。
「ああ、あれですか」
「『あれですか』じゃない」
倉田は呆れた。
「放送が決まった時点で、お前は言ったよな」
「『日本で絶対に流行る』って」
「俺は半信半疑だった」
「そりゃそうだ」
倉田は両手を広げた。
「あんなメガネのへ・ロンジュンが日本で人気出るなんて、誰が予想できるんだ」
康則が吹き出した。
「倉田さん、失礼ですよ」
「いや、俺だけじゃない」
「みんなそう思っとった」
「ところがお前は、放送前からロン様ツアーを作った」
「今じゃ予約が殺到だ」
倉田は康則を見つめる。
「あれだけじゃない」
「中国でもそうだ」
「大連が好きだからって、北京や上海だけじゃなく、常熟みたいなところまで商品にする」
「誰も見向きもしなかった場所を、面白いと言って売り物にする」
「それで売れる」
「お前はな」
「まだ誰も見えてないものを、先に見つけるんだ」
康則は黙って聞いている。
倉田は静かに続けた。
「俺は、会社を守ることはできる」
「でも、会社をここまで変えることはできなかった」
「お前は、気づいたら会社そのものを変えてしまってる」
少し間を置く。
「俺と、お前じゃ器が違う」
康則は何も言えなかった。
倉田は苦笑する。
「だから、ビビり倒したから推薦してる」
康則は困ったように笑った。
「……倉田さん、そんなこと言わないでくださいよ」
「事実だ」
「でも……」
康則は人事案を見る。
そして、少し考えた。
「海外、行ってもいいですか?」
倉田は吹き出した。
「そこを聞くか!」
「重要です」
「行け」
「本当に?」
「社長になったからって日本に縛り付ける気はない」
「まだまだ新しい商品が海外にあるだろう」
「好きなだけ見てこい」
康則はしばらく考えた。
そして。
「……分かりました」
倉田が笑う。
「やるか?」
「やります」
「よし」
康則は人事案をもう一度見る。
そこには、
代表取締役社長 伊東康則
と書かれていた。
数日後。
クラウザー観光、取締役会。
倉田が議案を読み上げる。
「次期代表取締役社長についてです」
役員たちが資料を見る。
「伊東康則を推薦します」
一瞬、静かになる。
三十三歳。
若い。
あまりにも若い。
だが、反対する者はいなかった。
企画を始めて四年で売上十倍。
三十歳で企画開発部長。
そこから三年でさらに倍。
そして今期、前年比三十パーセント増。
現在も、韓国ドラマ『夏の彼方』のロン様ツアーをはじめ、康則の企画は次々とヒットしている。
数字が、すべてを語っていた。
一人の役員が口を開く。
「倉田さん」
「はい」
「本当に、伊東君でいいんですか?」
倉田は笑った。
「いや」
全員が顔を上げる。
倉田は、はっきりと言った。
「伊東君じゃなきゃ駄目なんです」
平成十五年。
春。
クラウザー観光本社。
新社長就任の朝。
康則は社長室の前に立っていた。
ドアを見る。
「……俺がここか」
少しだけ緊張している。
すると後ろから声がした。
「何してる」
振り返る。
倉田だった。
「いや……本当に俺でいいのかなって」
倉田は康則の肩を軽く叩いた。
「お前、昔からそういうこと言うな」
「そうですか?」
「そうだ」
そしてドアを開ける。
「入れ」
「はい」
康則が社長室へ入る。
倉田は、その背中を見送った。
七年前。
大連から呼び戻した男。
何をしでかすか分からない。
だから自分の手元に置いた。
それが今。
自分の会社の社長になった。
倉田は小さく笑った。
「……俺も、とんでもない奴を拾ったもんだ」
社長室の中から声がする。
「倉田さん!」
「何だ?」
「この机、電話多すぎません?」
倉田は吹き出した。
「知らん!」
「海外の電話、もっと増やしていいですか?」
「社長になったばかりで、それか!」
廊下に笑い声が響いた。
平成十五年。
三十三歳。
伊東康則。
クラウザー観光代表取締役社長。
企画開発部長だった男は、この日から会社そのものを背負う立場になった。
二十六歳で大連から呼び戻され。
企画を始めて四年で売上を十倍にし。
三十歳で部長へ飛び級した。
そして三十三歳。
今度は――
社長へ飛び級した。
だが。
それでも康則の頭の中にあるのは、肩書きではなかった。
次に面白い場所はどこか。
次に日本人が驚くものは何か。
次に、どんな旅を作れるか。
その男の旅は、まだ終わらない。
むしろ。
ここからが、本当の始まりだった。




