135勝
平成十四年、春。
イズミマチ本社。
営業部。
芝直樹は、新規開拓先のリストを眺めていた。
営業へ転身して1年。新規開拓を始めて三か月ほどが経つ。
毎日のように会社を回っている。
電話をかける。
訪問する。
名刺を渡す。
話を聞いてもらう。
そして――断られる。
「今のメーカーで間に合っています」
「新規取引は考えていません」
「必要になったら、こちらから連絡します」
それでも芝は笑って頭を下げた。
「分かりました。またお願いします!」
持ち前の明るさ。
人懐っこさ。
野球で培った粘り強さ。
それだけは失わなかった。
だが、さすがに本人にも分かってきた。
少し、手詰まりだ。
野球なら、投げれば相手が打つ。
打たれれば、次の球を投げる。
だが、営業は違う。
どれだけ足を運んでも、相手が必要だと思わなければ話は進まない。
芝は、それを少しずつ感じ始めていた。
それでも――。
「まあ、行ってみるか」
芝は立ち上がった。
その春。
滋賀県立瀬川工業高校が、選抜高校野球大会への出場を決めた。
OBによる激励会が開かれ、芝も参加していた。
会場には懐かしい顔が並んでいた。
高校時代の先輩。
同級生。
野球部関係者。
芝は酒を片手に、昔話に花を咲かせていた。
その時だった。
会場の奥に、見覚えのある男がいた。
芝の動きが止まる。
「……東崎さん?」
男が振り返った。
一瞬、目を細める。
そして笑った。
「おう。芝か?」
「はい!」
東崎博幸。
瀬川工業高校OB。芝の二学年上。
大学も同じだった。
帝国ハムのエースとして活躍し、その後、東部レオンズへ移籍。
通算135勝を挙げた元プロ野球選手だった。
芝にとって、ずっと憧れの先輩だった。
「久しぶりです!」
「何年ぶりだ?」
「サインをもらった時以来ですかね」
「ああ、あの時か」
二人は笑った。
高校時代の話。
大学時代の話。
野球部の練習。
話は尽きなかった。
やがて東崎が、何気なく尋ねた。
「ところで芝。今、何してんの?」
「イズミマチで営業です」
「営業? 何の営業?」
「減速機です」
東崎が眉をひそめる。
「……減速機? よく分からんな」
「まあ、そうですよね。機械の中に入って、回転を落としたり、力を大きくしたりするやつです」
「へえ」
東崎は頷いた。
そして、もう一度芝の顔を見た。
「……お前。ちょっと手詰まりか?」
芝の笑顔が、ほんの少し止まった。
「……まあ。そんな感じです」
東崎は、それ以上聞かなかった。
グラスを傾けながら、ぽつりと言う。
「昔の俺はな。速い球を投げていれば勝てた」
芝が頷く。
「でも、球威が落ちたら勝てんくなった。東部レオンズに行った時なんか、もう終わったと思われてたよ」
東崎は少し笑った。
「それで考えた。打者が何を待ってるか。そこを逆手に取る」
芝が黙って聞いている。
「真っ直ぐを待ってる奴には変化球。変化球を待ってる奴には真っ直ぐ」
一拍置く。
「内を待ってる奴には外。外を待ってる奴には内。」
「打者の読みを読むんだ」
東崎は遠くを見るように言った。
「それで十勝した。カムバック賞まで貰った」
芝が笑う。
「凄いですよね」
「いや。球が速くなくなったから、頭を使うしかなかっただけ」
東崎は芝を見る。
「勝てんようになった時に、今までと同じことをやり続けても仕方ない」
芝は黙った。
その言葉が、胸に残った。
しばらくして、東崎が思い出したように言った。
「ああ、そういや。帝国ハム時代のうちのタニマチがな。機械作っとる会社なんだわ」
「へえ」
「アメダっていう」
芝の目が変わった。
「……アメダってプレス機械のアメダですか?」
「おう。知ってるのか?」
「減速機とやらを使っとるかもしれんな」
芝はすぐに食いついた。
「紹介してもらえます?」
東崎が吹き出した。
「お前、相変わらず食いつくの早いな」
「営業ですから」
「じゃあ、紹介してやる」
東崎は笑った。
「ただしな。俺の紹介だからって、簡単に仕事になるとは思うなよ」
芝も笑った。
「分かってます。何回断られても行きます」
「それでいい」
しばらくして。
芝が少し照れ臭そうに言った。
「東崎さん。もう一つ、お願いがあるんですけど」
「何だ?」
「一緒に写真、撮ってもらえません?」
東崎が目を丸くする。
「今さらか?」
「いや……」
芝は笑った。
「昔、加地のためにサインもらったじゃないですか」
「ああ、お前の言ってた足の速い奴か」
「そうです」
芝は少し間を置いた。
「あ、今は佐久間って言うんですが」
「佐久間?」
「婿入りしたんですよ」
「ほう。あいつ、婿に行ったんか」
「そうなんです」
「じゃあ、今は佐久間か」
「はい。でも、僕らの間では今でも加地ですけどね」
東崎が笑った。
「なるほどな」
芝も笑う。
「そしたらあいつ、『芝さん、本当に東崎さんが書いたんですか?』って」
「何じゃそりゃ!」
東崎が吹き出した。
「『芝さんが書いたんじゃないですか?』って」
「ひどい奴だな!」
二人で大笑いした。
芝が鞄からデジタルカメラを取り出した。
「だから今回は証拠を残しておこうかなと」
「証拠って、お前……」
東崎は笑いながら、近くの若いOBに声を掛けた。
「すまん。これで撮ってくれ」
二人が並ぶ。
カシャ。
一枚。
もう一枚。
芝がデジタルカメラの画面を覗き込む。
「いいですね」
写真の中には、瀬川工業高校の先輩と後輩が並んでいた。
一人は、プロで135勝を挙げた男。
もう一人は、まだ営業マンとして1勝も挙げていない男。
だが、その二人の顔には、同じ野球人の笑顔があった。
数日後。
芝はアメダを訪れた。
紹介を受けた担当者の前に座る。
名刺を差し出した。
「イズミマチの芝です」
担当者が名刺を見る。
「減速機ですか。現在、付き合いのあるメーカーがありますので」
芝は笑った。
「そうですよね。いきなり切り替えてください、なんて言いません」
芝は頭を下げた。
「まず、僕の顔を覚えてもらえたらと思ってます」
担当者は苦笑した。
「まあ……どうぞ」
「ありがとうございます。また来ます」
一度。
二度。
三度。
芝はアメダへ通った。
「また来たの?」
「はい。また来ました」
「芝さん、しつこいね」
「よく言われます」
芝は笑った。
売り込むだけではなかった。
相手の話を聞いた。
機械の話。
世間話。
時には野球の話。
少しずつ、担当者との距離が縮まっていった。
そんなある日。
担当者が言った。
「芝さん。一台だけ、試してみますか?」
芝の顔が輝いた。
「……本当ですか?」
「ええ」
「ありがとうございます!」
芝は深々と頭を下げた。
会社を出た芝は、空を見上げた。
数か月。
何度も断られた。
少し手詰まりだと思った。
それでも――諦めなかった。
投手は、一球打たれたからといってマウンドを降りない。
相手を見る。
相手の読みを見る。
そして、次の球を投げる。
東崎が教えてくれた。
同じ球で勝てないなら、駆け引きを変えればいい。
その日の夕方。
芝が営業部へ戻ってきた。
「福井さん!」
福井が振り返る。
「何だ?」
「アメダ、一台入りました!」
福井は一瞬、芝を見た。
そして笑った。
「……取ったか」
「はい!」
「粘ったな」
「はい!」
福井は頷いた。
「これが新規開拓だ」
芝は嬉しそうに笑った。
夜。
東崎のもとに電話が入った。
「東崎さん! ありがとうございました!」
「何が?」
「アメダです! 一台、入りました!」
東崎は笑った。
「そうか。取ったか」
「はい!」
「芝。営業も野球と一緒だ」
東崎の声が少し低くなる。
「諦めたら終わりだ」
芝は笑った。
「分かりました」
「じゃあ、次の一球だな」
「はい!」
電話を切った東崎は、静かに笑った。
現役時代。
速球とキレで勝負した。
球威が落ちて、勝てなくなった。
それでも終わらなかった。
打者の読みを逆手に取る投球を覚え、十勝。
カムバック賞。
野球人生で身につけたものは、野球だけのものではなかった。
そして芝もまた――。
営業という新しいマウンドで、一歩を踏み出した。
その頃。
芝の机の引き出しには、激励会で撮った一枚の写真が入っていた。
瀬川工業高校の二学年違い。
東崎博幸と芝直樹。
その写真の隣には、古びた一枚のサインがある。
そこには、かつての名前――
「加地淳へ」
と書かれていた。
芝は写真を見て、笑った。
「……加地。これなら文句ないだろ」
そして、また翌朝。
芝は新しい営業先のリストを手に取った。
次の一球を投げるために。




