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切先落とし

平成十四年。春。


泉町精工野球部グラウンド。


春季中日本新聞杯。


対戦相手は、大林記録紙。


先発は甲山次晴。


栄商出身の右腕。


スリークォーターから繰り出される鋭いシュートを武器に、すでにチームのエースとして頭角を現していた。


この日の甲山も、立ち上がりから強気だった。


初回。


先頭打者。


外角の真っ直ぐで追い込み、最後は内角シュート。


バシッ。


打者のバットは完全に詰まった。


三塁ゴロ。


一死。


続く打者。


初球、内角。


シュート。


打者が腰を引く。


二球目も内角。


またシュート。


今度は一塁ゴロ。


二死。


甲山は笑った。


「今日は打たれる気がしねえな。」


捕手の柏原隆成がミットを叩く。


「調子ええな。」


三番打者。


右打者だった。


甲山がセットに入る。


その瞬間。


大林記録紙のベンチから声が飛んだ。


「寄せろ!」


打者がホームベース寄りへ移動した。


柏原が気づく。


「……なるほど。」


甲山のシュート対策だった。


内角へ食い込むシュート。


それが甲山の最大の武器。


ならば――。


最初からホームベース寄りに立つ。


内角へ投げれば、死球になる可能性が高い。


甲山は打者を見る。


そして、ニヤリと笑った。


「そんなに当ててほしいんか。」


柏原が低い声で言う。


「甲山。」


「なんですか。」


「外も使え。」


甲山は首を振った。


「大丈夫です。」


サインが出る。


内角。


甲山が振りかぶる。


腕が振り下ろされた。


シュート。


打者の身体へ食い込む。


避けきれない。


ドスッ。


死球。


観客席がざわついた。


打者が一塁へ歩いていく。


甲山は悪びれない。


「……向こうが寄ってきたんだから。」


柏原が立ち上がる。


「甲山。」


「何すか。」


「次、外も使え。」


「嫌です。」


即答だった。


「俺のシュートでいけます。」


柏原は甲山を見つめた。


「そういう問題じゃねぇ。」


甲山は聞かなかった。


次の打者。


大林記録紙は、またホームベース寄りに構えた。


甲山の目が細くなる。


「またかよ。」


柏原がサインを出す。


外角。


甲山は首を振る。


内角。


柏原がもう一度サインを出す。


甲山は、また首を振った。


そして――。


内角シュート。


投げた。


ドスッ。


二人連続の死球。


大林記録紙のベンチが沸く。


「よし!」


「これでいい!」


甲山の顔が険しくなる。


「……何がいいんだよ。」


柏原がマウンドへ歩いていく。


「甲山。」


「お前、こんなんは栄商魂じゃねぇぞ。」


甲山が睨む。


「向こうが悪いんですよ。」


「強気とムチャクチャは違う。」


「俺は打たせたくないだけです。」


柏原はミットを叩いた。


「だったら野球で勝て。」


「相手を怖がらせるのと、相手を壊すのは違うぞ。」


甲山は黙った。


「次は俺のサイン通り投げろ。」


「……分かりました。」


柏原が戻る。


しかし――。


次の打者もホームベース寄りに立った。


甲山はサインを見る。


外角。


首を振る。


柏原が眉をひそめる。


もう一度。


外角。


甲山は首を振った。


内角。


投げる。


打者が身体を引く。


ストライク。


甲山は笑った。


「ほら。」


柏原の表情が曇る。


次の球。


内角。


打者はバットを出しかけ、身体を引いた。


「ストライク!」


三球目。


また内角。


打者は詰まりながらもバットを出した。


ファウル。


甲山が叫ぶ。


「おら!」


柏原がミットを構える。


四球目。


内角シュート。


打者の腰付近へ食い込んだ。


ドスッ。


三人目の死球。


今度は球審がマウンドへ歩いてきた。


「ピッチャー!」


甲山が振り向く。


「はい。」


「危険だぞ。」


「ちゃんと投げてますけど。」


「打者が三人も当たっている。」


「向こうが寄ってきてるんですよ。」


球審の顔が険しくなる。


「それでも投手には投手の責任がある。」


甲山の表情が変わった。


「俺のせいじゃないでしょう。」


「甲山!」


柏原が叫ぶ。


しかし、甲山は止まらなかった。


「こっちはちゃんと勝負してんだよ!」


「審判が余計なこと言わないでくださいよ!」


球審は即座に告げた。


「退場。」


甲山の顔が固まる。


「……は?」


「退場だ。」


柏原が駆け寄る。


「甲山、やめろ!」


だが、もう遅かった。


甲山はボールを投げ捨て、マウンドを降りた。


「なんで俺が退場なんだよ……。」


ベンチは静まり返っていた。


浅谷嘉一も何も言わなかった。


甲山はベンチへ戻る。


誰も目を合わせない。


柏原だけが甲山を見ていた。


「……甲山。」


「何ですか。」


「お前、自分が一番強いと思ってるだろ。」


甲山は答えなかった。


「今日は、それを勘違いしたな。」


甲山はムッとした顔で横を向いた。


「俺は悪くない。」


柏原はそれ以上言わなかった。


「……そう思っとけ。」


試合はそのまま進んだ。


甲山はベンチからグラウンドを見つめていた。


自分なら抑えられた。


自分なら勝てた。


そう思っていた。


だが――。


試合後。


誰もいなくなったグラウンドの端。


甲山は一人で座っていた。


そこへ佐久間が歩いてきた。


現役を引退した後も公式戦は子供を連れて観に来ていた。


浅谷や柏原とは現役時代に一緒にプレーした。


甲山とは、一緒にやっていない。


佐久間は少し離れたところに腰を下ろした。


「甲山。」


「……はい。」


「今日は荒れたな。」


甲山は黙っていた。


やがて、ぽつりと言った。


「向こうが悪いんだし。」


佐久間は笑った。


「そう思うか。」


「だって、向こうがホームベース寄りに立ったんですよ。」


「そうだな。」


「だったら内角に投げるしかないでしょう。」


佐久間はしばらく黙っていた。


「俺も昔、尖ってたんよ。」


甲山が顔を上げる。


「……佐久間さんが?」


「そう。」


佐久間は笑った。


「今のお前より酷かったかもしれん。」


甲山は意外そうな顔をした。


「俺にはな、石川さんっていう、でっけえ怖い監督がおってね。」


甲山は黙って聞いている。


「俺を煽るんよ。」


「『お前なら全国取れる』って。」


佐久間は遠くを見る。


「最初は、何言っとんだこの人って思った。」


「でも、何回も言われるもんだから……俺も本気にしちゃってね。」


少し笑う。


「本当に全国制覇したからさ。」


「……。」


「あの人の言うこと、間違ってなかったなあってね。」


佐久間は甲山を見る。


「だから、お前の強気は捨てんでええと思う。」


甲山が顔を上げる。


「……。」


「でもな。」


佐久間は立ち上がった。


「強気っていうのは、何でも内角に投げることじゃない。」


「自分で一番いい球を、一番いいところへ投げることだ。」


甲山は黙っている。


佐久間が続ける。


「お前、外に逃げる変化球は?」


甲山は少し考えた。


「カーブとスライダーの中間みたいな球なら……中学んとき投げてました。」


「ほう。」


佐久間が手を出した。


「じゃあ、それ投げてみい。」


「今ですか?」


「今。」


甲山が立ち上がる。


ボールを握る。


少し考えた。


そして――。


腕を振った。


外角へ。


カーブほど大きく曲がらない。


スライダーほど速くもない。


だが、打者から逃げるように、鋭く横へ滑った。


バシッ。


柏原のミットに収まった。


佐久間が頷く。


「これでいい。」


甲山が見る。


佐久間はもう一度言った。


「これでいい。」


「これと同じところに、真っ直ぐをたまーに投げる。」


「そしたら、お前のシュートがさらに怖くなる。」


甲山は黙っていた。


「シュートを待ってたら、今度は外へ追いかけなきゃいけない。」


「外を待ってたら、内角にシュートが来る。」


「外を待ってて内角が来たら、腰が引ける。」


佐久間は指を一本立てる。


「難しさは二倍じゃない。」


「五倍……いや、十倍になる。」


甲山の目が変わった。


佐久間は笑った。


「俺は今でも、浅谷や柏原より当てるのだけは上手いよ。」


「お前のシュートだって、詰まるのを利用すりゃ、簡単に内野安打にできる。」


甲山がムッとする。


「でもな。」


佐久間は甲山の肩を軽く叩いた。


「お前のシュートに、今の球が加わったら、俺だってめちゃくちゃ手こずるぞ。」


甲山は、自分が投げた球を見つめた。


「打者は、お前のシュートを待ってええのか、外を待ってええのか、分からんようになる。」


「そこで、たまに真っ直ぐ。」


「全部、お前のシュートを生かすための球だ。」


甲山は小さく頷いた。


佐久間は、もう一度甲山の肩を叩いた。


「甲山。」


「忘れるなよ。」


甲山が顔を上げる。


「一番大事な時に使うのは、お前の一番自信のあるシュートだ。」


「それだけは間違えるなよ。」


「新しい球を覚えたからって、そっちへ逃げるんじゃない。」


「お前の一番の武器は、シュートだ。」


「外へ逃げる球は、そのシュートをもっと怖くするために使うんだ。」


甲山はしばらく黙っていた。


やがて、


「……はい。」


小さく答えた。


佐久間は笑った。


「そうだ。」


グラウンドの向こうでは、浅谷と柏原が片付けをしていた。


柏原が甲山を見る。


甲山も柏原を見る。


ほんの少しだけ、頭を下げた。


柏原は何も言わなかった。


ただ、ミットを掲げた。


甲山も小さく頷いた。


佐久間は、その二人を見ていた。


そして、ふと昔を思い出す。


石川満。


大きな身体。


怖い顔。


そして、いつも自分を煽っていた声。


――お前なら全国取れる。


佐久間は小さく笑った。


「……石川さん。」


誰にも聞こえない声で呟く。


「今度は、俺が煽る番ですかね。」


夕暮れのグラウンド。


甲山はもう一度、ボールを握った。


今度はシュート。


腕を振る。


バシッ。


柏原のミットが鳴った。


その音を聞きながら、甲山は思った。


――この球を、もっと怖くしてやる。


尖った切っ先を捨てる必要はない。


丸くなる必要もない。


ただ――。


その切っ先を、自分で操れるようになればいい。


甲山は、もう一度ボールを握り直した。


それは、エースになるための一歩ではない。


すでにエースである男が、さらに一段上へ進むための一歩だった。

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