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現場の声

平成十三年、春。


雨上がりのアスファルトが、まだ乾ききらない匂いを漂わせていた。


営業車の中で、兵藤修司はハンドルを握ったまま、しばらく動かなかった。


黒縁のセルロイド眼鏡を指で押し上げる。


少ししゃくれた顎に、力が入っていた。


芝直樹とは、大卒同期だ。


だが、二人の歩んできた道は違った。


芝は誰とでもすぐに打ち解ける。


初対面の相手とも自然に会話を弾ませ、いつの間にか人の輪の中心にいる。


兵藤は違う。


頼まれた仕事を黙々とこなす。


真面目で、小心者。


興奮すると、言葉が少しつれる。


会社での等級は五。


昇進試験にも合格している。


それでも、役職はつかない。


泉町より西の関西、中国地区を担当し、決められたルートを回る。


既存の客を守り、数字を落とさない。


それを四年、五年と続けてきた。


総務部長の福井明人は、以前から兵藤を見て、こう思っていたらしい。


「あの男は、総務や人事の方が向いている」


年に一度の面談で、福井は静かに聞いたことがある。


「兵藤くん。総務や人事に興味はないか」


兵藤は眼鏡の位置を直し、首を横に振った。


「いえ。営業でやっていきます」


営業が嫌いなわけではない。


むしろ、客先へ行って話を聞くことは好きだった。


ただ、芝のような華やかさはない。


大きな商談を次々に決めるタイプでもない。


だからこそ、営業で結果を出したい。


能力がないわけではない。


ただ、まだ結果を「出し切れていない」。


それが、兵藤修司という男の現在地だった。


     


その週の月曜日。


兵藤は滋賀県の搬送機メーカーを訪ねた。


担当者は、いつものように茶を出してくれた。


「兵藤さん、最近どう?」


「おかげさまで」


機械の話。


納期の話。


材料費の話。


雑談を交わしていると、担当者がふと思い出したように言った。


「そういや、最近ちょっと困っててね」


兵藤が顔を上げる。


「どうしました?」


「時々、過負荷エラーが出るんですよ」


兵藤は手帳を開いた。


「サーボですか?」


「そう。毎回じゃないんだけど、たまに出るんですわ」


「どこのメーカーです?」


「高川電機のギヤサーボ」


兵藤は、手帳に書き込んだ。


高川電機。


過負荷。


時々。


「一応、メーカーには相談してみたんだけどね」


「改善してないんですか?」


「完全にはね」


兵藤は、それ以上は聞かなかった。


営業として、客先の不満を聞くことは珍しくない。


そのときは、そう思っていた。


     


水曜日。


大阪のシャッターメーカー。


工場の片隅で、担当者が肩をすくめた。


「どうも最近、音がうるさくてね」


「音ですか?」


「モーター周り。動かすと、結構気になるんですよ」


「どこのメーカーです?」


「高川電機」


兵藤のペンが止まった。


「……ギヤサーボですか?」


「そう」


兵藤は手帳に一行書き加えた。


音。


高川。


担当者は苦笑する。


「性能そのものに文句があるわけじゃないんだけどね。静かな方がありがたい」


「なるほど」


兵藤は頷いた。


それ以上、深く考えなかった。


     


木曜日。


岡山。


自動化設備を手掛ける会社だった。


担当者と設備の話をしていると、ふとこんな言葉が出た。


「最近、位置決めの精度でちょっと気になることがあってね」


「サーボですか?」


「そう」


「メーカーは?」


「高川」


兵藤の眉が、わずかに動いた。


「以前からですか?」


「いや。最近の設備でね」


兵藤は手帳を開いた。


過負荷。


音。


精度。


同じメーカーの名前が、その横に並んだ。


だが、まだ兵藤は何も言わなかった。


客先ごとに条件は違う。


設備も違う。


単純にメーカーの問題とは限らない。


営業の勘だけで決めつけるわけにはいかなかった。


     


そして金曜日。


広島。


この週最後の訪問先だった。


工場を案内してもらったあと、担当者と事務所で話をしていた。


「兵藤さんとこの減速機、評判ええですよね」


「ありがとうございます」


「うちも、いろいろ使わせてもろうてます」


兵藤は頭を下げた。


その担当者が、何気なく続けた。


「そういや、泉町さんってサーボは作らんの?」


兵藤が顔を上げた。


「……サーボですか?」


「そう。うち、今度設備を増やす予定なんですけどね」


担当者は笑った。


「泉町さん、減速機やっとるでしょう」


「ええ」


「だったら、ギヤサーボも作れそうな気がするんだけどなあ」


兵藤は困ったように笑った。


「そう言ってもらえるのは嬉しいですけど……」


担当者は、さらに続けた。


「今使っとるやつも、まあ悪くはないんですけどね」


「はい」


「もうちょっと静かで、精度が良くて、過負荷にも強いのがあればね」


兵藤は笑顔のまま聞いていた。


だが。


胸の奥で、何かがつながった。


滋賀。


過負荷。


大阪。


音。


岡山。


精度。


そして今日。


広島。


兵藤は手帳を開いた。


四日間の訪問記録を、ゆっくり眺める。


高川電機。


高川電機。


高川電機。


そして――


泉町さんが作ってくれたら。


兵藤はしばらく黙っていた。


一社なら、客先の不満だ。


二社でも、偶然かもしれない。


しかし、この一週間。


泉町より西の客先を回って、別々の会社から同じメーカーの製品について声が出ている。


しかも、不満の内容が違う。


過負荷。


音。


精度。


そして、代わりになる製品への期待。


兵藤は、そこで初めて思った。


これは、単なる愚痴ではない。


現場が、何かを求めている。


     


帰りの営業車。


夕暮れの中国道を走りながら、兵藤は手帳を開いた。


ページには、今週の言葉が並んでいた。


「高川ギヤサーボ」


「過負荷」


「音」


「精度」


「泉町で作ってほしい」


兵藤は眼鏡を上げた。


営業会議で言うべきか。


そんなことを言って、笑われないだろうか。


「サーボを作りましょう」


自分がそんな提案をするのは、少し大げさな気もする。


技術部がどう思うか。


上司がどう思うか。


兵藤は、しばらく黙って運転した。


やがて、小さく息を吐く。


「……一回、言ってみるか」


誰に聞かせるでもない声だった。


「営業会議で……」


兵藤は手帳を閉じた。


営業車は、名古屋へ向かって走り続ける。


兵藤の手帳に記された数行のメモは、イズミマチの次の時代を動かす、最初の一歩になろうとしていた。

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