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再来?

平成十三年、春。


株式会社イズミマチ。


営業本部。


芝直樹、営業初日。


朝八時。


芝は営業本部の入口に立っていた。


手には新しい辞令。


「営業本部営業部勤務を命ずる」


何度見ても、まだ実感が湧かない。


「ほんまに営業になったんやなあ……」


芝は頭を掻いた。


人事課から営業部。


野球を引退してから、会社では人事の芝として過ごしてきた。


それが今日から営業マンである。


芝は営業本部の中を見回した。


当然、知っている顔も多い。


「お、芝やん」


「今日からこっち?」


「そうなんすよね。」


「営業か。似合っとるやん」


「そうっすか?」


芝は笑いながら返す。


その様子を見ていた営業部員たちも、自然と笑った。


その中に、一人の男がいた。


黒縁のセルロイド眼鏡。


少ししゃくれた顎。


真面目そうな顔で書類を整理していた。


男が顔を上げる。


「……芝。」


「あ?」


芝も顔を向けた。


「おう、兵藤?」


大卒同期の兵藤修司だった。


「今日から営業か」


「そうなんよね」


「営業、初めてだろ」


「おう。何したらええか、まだ分からん」


兵藤は眼鏡を押し上げた。


「分からんことがあったら聞いてくれよ。俺も分かる範囲なら教える」


「おう。頼むわ」


「まあ……同期のよしみだな。」


「そういや、お前まだその眼鏡なんか」


「悪いか」


「いや。変わらんなと思って」


「芝もな」


「俺は変わったぞ。今日から営業や」


「そこだけかよ」


芝が笑った。


「ほんなら、また後でな」


「ああ」


兵藤は再び書類に目を落とした。


芝も営業本部の中へ入っていく。


その奥には、一人の若い男がいた。


伊東信裕。


営業本部長。


二十八歳。


芝より五歳年下だった。


信裕は執務室の窓から、芝の姿を見ていた。


もちろん知っている。


芝直樹。


野球部の有名選手。


そして、自分が入社する前から会社にいた社員だ。


信裕にとっては、芝は「野球部の芝」という印象が強い。


一方、芝にとって信裕は――


社長の息子だった。


芝が入社した頃、現在会長の信裕の父・伊東信成は社長だった。


その息子が、今では営業本部長。


信裕自身も芝のことを知っている。


だが、直接話したことはほとんどない。


信裕は少し考えた。


年上の部下。


しかも、社内では自分よりずっと有名な男。


どう話しかけるべきか。


「芝さん」


……いや。


さん付けでいいのか。


「芝君」


……それも妙だ。


信裕は一度、咳払いをした。


そして執務室から出る。


芝と目が合った。


「あ」


芝が笑った。


「信裕本部長」


信裕も笑顔を作る。


「芝さん。今日から営業本部で――」


そこまで言ったところで、


芝が手を上げた。


「部長」


「はい?」


「気ぃ使わんでええですよ」


「……え?」


芝は笑った。


「芝って呼び捨てでええです」


信裕が一瞬、黙った。


「いや、でも……」


「俺の方が年上ですけど、部長は部長ですから」


「それはそうですが……」


「それに俺、野球部んときから、年下にさん付けされるの苦手なんですよ」


芝は豪快に笑った。


「芝でええです」


信裕は少し戸惑った。


だが、芝の顔には何の遠慮もない。


媚びもない。


年下の上司を立てながら、必要以上に距離を取ることもない。


信裕はようやく笑った。


「……じゃあ、芝」


「はい」


「今日からよろしくお願いします」


「こちらこそ」


芝は頭を下げた。


そして顔を上げると、


「ところで部長」


「何です?」


「俺、何したらええんですか?」


信裕が思わず笑った。


「そこからですか」


「営業、初めてですから」


「確かに」


二人の間に、初めて自然な笑いが生まれた。


信裕は芝を執務室へ招き入れた。


「まず、うちの営業のやり方を説明します」


「お願いします」


芝は椅子に座った。


信裕が資料を開く。


「イズミマチの営業は、従来から――」


芝は黙って聞いている。


時折、


「なるほど」


「へえ」


と頷く。


信裕は話しながら、少しずつ肩の力が抜けていくのを感じていた。


もっと気を使うと思っていた。


もっと扱いにくいと思っていた。


だが、違った。


芝は自分が年下の上司であることを、まったく問題にしていない。


それどころか、こちらが気を使っていることまで見抜いている。


説明が終わる。


「芝」


「はい」


「何か質問ありますか」


芝は少し考えた。


「あります」


「何です?」


「部長は、営業本部をどうしたいんですか?」


信裕の表情が変わった。


「……どういう意味です?」


「いや」


芝は笑った。


「営業のやり方より、そっちの方が大事かなと思って」


信裕は黙った。


芝は続けた。


「部長が何を目指しとるか分からんと、俺も何を手伝ったらええか分からんですから」


信裕は芝を見る。


まだ営業初日。


商品知識もない。


営業経験もない。


それでも――


人の話を聞くことだけは、誰より上手い。


信裕は静かに口を開いた。


「……売上を伸ばしたい」


「はい」


「でも、それだけじゃない」


信裕は言葉を選んだ。


「イズミマチを、もっと強い会社にしたい」


芝は頷いた。


「なるほど」


そして、いつものように笑った。


「じゃあ、手伝いますわ」


信裕も笑った。


「頼みます」



その日の夜。


営業部では、芝直樹の歓迎会が開かれた。


場所は、本社近くの居酒屋。


営業部員を中心に、総務部から福井明人も参加していた。


そして――


伊東征広も顔を出していた。


「それでは、芝さんの営業部異動を祝って!」


「乾杯!」


グラスが一斉に上がる。


「乾杯!」


芝は豪快にビールを飲み干した。


「いやあ、久しぶりにこういう席に呼ばれたわ」


「芝さん、野球部以来じゃないですか?」


「そうかもしれんな」


笑い声が起こる。


芝は誰とでも話す。


営業部の若手には野球部時代の話をし、古株とは昔の会社の話をする。


いつの間にか、席のあちこちで芝の笑い声が響いていた。


その様子を、信裕も笑いながら見ていた。


「芝さん、よく喋りますね」


「会社では芝言うてたのに、またさん付けして」


「頼むよ、信ちゃん」


「……信ちゃん?」


「今日からや」


「勝手に決めないでくださいよ」


「嫌なんか?」


「いや……別に」


「ほんなら決まりや」


芝が笑う。


信裕も笑った。


「じゃあ、芝さん」


「なんや」


「会社でも、信ちゃんでいいですよ」


「おう」


芝は満足そうに頷いた。


「じゃあ俺も芝でええ」


「それは……」


信裕が少し困った顔をする。


「さっきから言っとるやろ」


「でも、僕より年上ですし」


「会社では部長やろ」


「そうですけど」


「なら芝でええ」


信裕は苦笑した。


「……分かりました。芝」


「おう、信ちゃん」


二人はグラスを合わせた。


カチン。


その様子を少し離れた席から見ていた福井が、ふっと笑った。


隣に座っていた征広が尋ねる。


「どうした、福井くん」


福井は二人を見たまま答えた。


「……社長」


「ん?」


「あの二人、信伸コンビみたいになりませんかね」


征広の目が芝と信裕へ向く。


「信伸?」


「はい」


福井は笑った。


「小橋さんと会長です」


征広も、すぐに意味を理解した。


小橋伸夫。


伊東信成。


小橋は信成を「信ちゃん」と呼んだ。


立場も年齢も違った。


だが、二人は互いを認め合い、会社を支えた。


「……なるほどな」


征広が呟く。


福井は二人を見ながら笑った。


「社長、信ちゃんって呼んでますよ」


「そうだな」


二人はしばらく黙って、芝と信裕を見る。


信裕は何かを話している。


芝はそれを笑いながら聞いている。


やがて芝が信裕の肩を軽く叩いた。


「信ちゃん、お前なあ」


「はい?」


「もっと人に頼らなあかんぞ」


信裕が苦笑する。


「……それ、今日も言われました」


「誰に?」


「芝に」


「俺か」


芝が笑う。


「じゃあ、もっと言うたる」


「勘弁してくださいよ」


二人が笑う。


福井が小さく頷いた。


「……似ていますね」


征広は黙っていた。


そして、静かにグラスを傾ける。


信裕には、芝にないものがある。


経営を見る目。


数字を見る力。


若さゆえの柔軟さ。


そして芝には、信裕が苦手としているものがある。


人との距離を縮める力。


相手の懐へ入り込む力。


本音を引き出す力。


征広の胸が熱くなった。


「……福井くん」


「はい」


「面白いことになりそうだな」


「はい」


福井も笑った。


征広は、もう一度二人を見る。


芝が笑う。


信裕も笑う。


まだ始まったばかりだ。


だが――


悪くない。


むしろ、楽しみだった。


やがて芝がこちらを振り向いた。


「社長!」


「ん?」


「信ちゃん、ええ奴ですね!」


「そうか」


「ええ奴ですよ!」


信裕が苦笑する。


「芝、飲みすぎだぞ」


「お前もな、信ちゃん!」


福井が吹き出す。


征広も笑った。


「……いいコンビになりそうだ」


その言葉を聞いて、福井が静かに頷いた。


かつての――


「信伸コンビ」。


その記憶が、征広の胸をよぎる。


小橋伸夫と伊東信成。


長い年月をともに戦い、会社を支えた二人。


そして今。


目の前にも、年齢も立場も違う二人がいる。


芝直樹。


伊東信裕。


まだ何も始まっていない。


今日が、二人が仕事で顔を合わせた最初の日だ。


それでも――


征広には、どこか懐かしいものが見えていた。


「……再来、か」


征広が小さく呟いた。


福井が振り返る。


「はい?」


「いや」


征広は笑った。


「なんでもない」


芝が笑う。


信裕も笑う。


新しい時代のイズミマチに、新しい二人が出会った。


かつてのような関係になるのか。


それとも――


まったく違う、新しい関係になるのか。


それは、まだ誰にも分からない。


ただ一つ。


この日から、二人の物語が始まった。

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