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芝、営業へ

平成十三年、春。


株式会社イズミマチ。


本社総務部。


人事課の窓際で、芝直樹は社員からの相談を受けていた。


「芝さん、ちょっとええですか」


「ん? どしたん?」


相談に来たのは、製造部の若手社員だった。


「実は、係長とちょっと……」


芝は椅子を少し引いた。


「まあ、座りゃあ」


相手が話し始める。


芝は途中で口を挟まない。


ただ、時折、


「うん」


「それで?」


「なるほどな」


と相槌を打つ。


十数分後。


「まあ、係長もお前に辞めてほしいわけじゃないと思うで」


「そうですかね……」


「うん。たぶん、言い方が悪かっただけや」


芝は笑った。


「明日、俺から係長にちょっと話してみるわ」


「お願いします」


社員が頭を下げて出ていく。


その背中を見送り、隣の女性社員が呟いた。


「芝さん、人事向いてますよね」


「そう?」


「ええ。相談しやすいですもん」


芝は照れくさそうに笑った。


「野球やっとっただけやけどな」


芝直樹。


かつて泉町精工野球部で活躍した男。


社会人野球の全国大会にも出場した。


豪快で、よく笑い、誰とでもすぐに打ち解ける。


そして何より、打たれても引きずらない。


野球部を引退してからは、総務部人事課に配属されていた。


野球部員は練習の都合で、シフトの融通が利く部署へ配置されることが多かった。


芝もその一人だった。


だが、引退した今となっては話が違う。


もう午後からグラウンドへ行く必要はない。


人事課で腰を据えて仕事をすることもできる。


実際、芝はそれなりに仕事を覚えていた。


社員の相談にもよく乗った。


そして、芝に相談した社員の評判は悪くなかった。


むしろ、良かった。


その様子を、ずっと見ていた男がいた。


総務部長・福井明人だった。




ある日の午後。


社長室。


伊東征広が福井を呼んでいた。


「福井くん」


「はい」


「信裕の話だが」


「はい」


「営業本部長としては、まだ若い」


「ああ」


征広は静かに続けた。


「本人も分かっていると思うが、支える人間が必要だ」


福井は黙って聞いている。


「商品を売るだけじゃない」


「相手の懐に入って、本音を引き出せる人間だ」


征広が福井を見る。


「福井くん、誰かいるか」


福井は少し考えた。


そして、


「……一人、心当たりがあります」


「誰だ」


「芝直樹です」


征広が目を細める。


「野球部の、あの芝か」


「はい」


福井は続けた。


「人事課では、相談に来る社員の評判が非常に良いです」


「相手を構えさせない」


「役員でも新人でも、同じように話す」


「自然と本音が出てくるタイプです」


征広は頷いた。


「営業向きだな」


「そう思います」


少し間を置いて、征広が尋ねる。


「信裕の下で、彼を使えるか」


「差し支えありません」


征広は小さく笑った。


「では、頼む」


「かしこまりました」



翌日午前。


福井は芝を自分の部屋へ呼んだ。


一枚の書類を芝の前に置く。


「営業部への異動を命ずる」


芝は書類を見て、目を丸くした。


「……俺が営業ですか?」


「そうだ」


「人事から?」


「そうだ」


芝は頭を掻いた。


「いやあ……営業なんてやったことないですよ」


「商品知識もまだまだですし」


「覚えればいい」


福井は湯呑みに口をつけた。


「それに営業はな、商品を売るだけじゃない」


「相手が何を欲しがっているのかを見つける仕事だ」


芝が頷く。


「なるほど」


「君は相手を構えさせない」


「役員でも新人でも、同じように話す」


「相手も自然と本音を話す」


芝は黙って聞いていた。


「営業で大事なのは、喋ることじゃない」


「相手が何を考えとるか聞くことだ」


しばらく沈黙が流れた。


「……俺にできますかね」


福井は即座に答えた。


「やってみればいい」


芝は少し笑った。


「福井部長、珍しいですね」


「何がだ」


「いつもの『差し支えない』が出んかったから」


福井も少し笑った。


「そうかもしれんな」


そして、表情を引き締めた。


「芝」


「はい」


「野球は終わった」


「はい」


「だが、勝負はこれからだ」


福井は静かに言った。


「営業でも、君なら柱になれる」


芝はしばらく黙っていた。


やがて、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべる。


「……それなら、やってみます」


福井は頷いた。


「差し支えあるまい」


芝は苦笑した。


「最後はやっぱり、それですか」


「いい言葉だろう」


部屋に、穏やかな笑い声が響いた。


こうして。


芝直樹は営業部へ異動した。


伊東信裕を支える一人として。


人の話を聞き、人の懐へ入る。


それまで人事課で無意識に培ってきた力を、今度は営業の武器として使うために。


そして――


イズミマチの新しい営業の柱として。

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