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もう1人の伊東家

平成十二年。


二十世紀最後の年。


泉町精工は東京証券取引所第二部上場を果たし、社長の伊東征広はワールドワイドな認知を目指し、株式会社イズミマチに社名変更した。


その頃。


伊東家には、もう一人。


別の場所で、静かに頭角を現していた男がいた。


伊東康則。


三十歳。


クラウザー観光、企画開発部長。


そこに至るまでには、四年前の出来事があった。


     ◇


平成八年。


中国・大連。


クラウザー観光の現地拠点。


康則は、現地スタッフと笑いながら話していた。


「それ、もう少し安くできない?」


「伊東さん、それは無理ですよ。」


「じゃあ、飯でも食いながら考えよう。」


「またですか?」


「飯食ったら、だいたい何とかなるもんだ。」


周囲から笑い声が起きる。


康則は大連に馴染んでいた。


日本人とも、中国人とも、すぐに仲良くなる。


現地のホテル。


旅行代理店。


航空会社。


土産物屋。


康則の周りには、いつの間にか人が集まっていた。



そんなある日。


一本の電話が入った。


「伊東か。」


「はい。」


「倉田だ。」


クラウザー観光の倉田部長だった。


「お疲れさまです。」


少し間があった。


「日本へ戻れ。」


「……え?」


康則は耳を疑った。


「帰ってこい。」


「なんでですか?」


「理由はあとで話す。」


「俺、まだ大連でやることありますけど。」


「知ってる。」


「じゃあ、なんで?」


電話の向こうで、倉田がため息をついた。


「お前を大連に置いとくと、何をしでかすか分からん。」


「何もしてないですよ。」


「それが一番信用ならん。」


電話が切れた。


康則は受話器を置き、しばらく黙った。


そして、小さく笑った。


「……帰るしかないか。」


     ◇


日本へ戻った康則を待っていたのは、企画開発部だった。


倉田が机を指差す。


「ここがお前の席だ。」


「……ずっと日本ですか。」


「日本だ。」


「海外は?」


「当分、控えてもらう。」


康則は露骨に嫌そうな顔をした。


「旅行会社なのに?」


「仕事しろ。」


「してますよ。」


「何を?」


康則は少し考えた。


「……妄想。」


倉田は眉間を押さえた。


「お前な。」


「とにかく、企画を考えろ。それがお前の仕事だ。」


康則は机に向かった。


海外へ行けない。


ならば――。


頭の中で行けばいい。


そして。


頭の中で作った旅を、商品にしてしまえばいい。


康則は企画書を書き始めた。


タイ。


ベトナム。


中国。


東欧。


そして――。



一枚の企画書を倉田の机へ置いた。


「これ、どうですか?」


倉田が見る。


「……カンボジア?」


「はい。」


「誰が行くんだ、こんなところ。」


康則は黙っている。


「プノンペン?」


「はい。」


「シルバーパゴダ?」


「はい。」


「国立博物館?」


「はい。」


倉田は資料を机へ置いた。


「伊東。」


「はい。」


「悪いこと言わんから、もうちょっと普通のところを考えろ。」


「普通のところ?」


「フランスとか、イタリアとか。ハワイでもいい。」


康則は少し考えた。


「そうですか。」


「そうだ。」


康則は企画書を持って席へ戻った。


倉田は安心した。


だが。康則は立ち上がり


「……やっぱり、プノンペンだ。」


倉田は頭を抱えた。


数日後。


康則のカンボジア企画が、試験的に商品化された。


倉田としては、現実を教えてやるつもりだった。


「売れるわけがない。」


そう思っていた。


ところが。


募集開始。


問い合わせが殺到した。


「カンボジアツアー、まだ空いてますか?」


「二名お願いします。」


「こちらも四名で。」


電話が鳴り続ける。


翌日。


担当者が倉田のところへ飛び込んできた。


「部長!」


「なんだ。」


「カンボジア、残りわずかです!」


「……何?」


その翌日。


完売。


倉田は販売実績を見つめた。


プノンペン。


シルバーパゴダ。


国立博物館。


市内観光。


価格は抑えられている。


それでも粗利はしっかり残っている。



ツアー終了した。


参加者からの評判もいい。


「安い。」


「面白い。」


「こんなところがあるとは知らなかった。」


口コミが広がった。


カンボジアツアーは定番商品になった。


倉田は康則を見る。


「伊東。」


「はい。」


「……お前、売れると思ってたのか?」


康則は少し考えた。


「分かりません。」


「分からん?」


「自分が行きたいと思っただけです。」


倉田は黙った。


     ◇


第二弾。


倉田は今度こそ、康則が普通の海外旅行を企画すると思っていた。


「今度はフランスか?」


「違います。」


「イタリア?」


「違います。」


「スペイン?」


「違います。」


「ハワイは?」


「違います。」


倉田が少し身を乗り出す。


「じゃあ、ハリウッドとかラスベガスは?」


康則は首を振った。


「違います。」


「……じゃあ、どこだ。」


康則は企画書を差し出した。


「トルコです。」


倉田は絶句した。


「……トルコ?」


「はい。」


「なぜだ。」


「面白いからです。」


倉田は天井を見上げた。


「だったらエジプトにしたらどうだ。」


康則を見る。


「ピラミッドがある。」


「はい。」


「スフィンクスもある。」


「はい。」


「日本人にも分かりやすい。」


「そうですね。」


「じゃあ――」


「でも、今回はトルコです。」


倉田は言葉を失った。


だが。


商品化した。


そして――。


売れた。


一週間。


二週間。


二週間で完売。


参加者の口コミが広がった。


「トルコが面白かった。」


「思ったよりずっと良かった。」


「この値段で、この内容はすごい。」


旅行誌の編集者が、その評判を聞きつけた。


クラウザー観光へ取材に来た。


「この企画を作った方は?」


「伊東です。」


康則が呼ばれる。


編集者は康則を見る。


「伊東さん。なぜトルコなんですか?」


康則は少し考えた。


「面白いと思ったからです。」


「それだけですか?」


「それだけです。」


編集者は笑った。


翌月。


旅行誌に特集記事が掲載された。


見出しには――。


『新手の敏腕ツアー仕掛け人』


その下に、


クラウザー観光 伊東康則


とあった。


康則は雑誌を手に取った。


「……仕掛け人って。」


隣で倉田が笑う。


「お前、偉くなったな。」


「俺、旅行作ってるだけですよ。」


「それができる奴が少ないんだ。」


トルコツアーも定番化した。


そして。


その後もタイのビーチリゾート、ベトナム・ダナン等、康則の企画は当たり続けた。


知られていない場所。


まだ日本人に馴染みの薄い土地。


しかし、行ってみれば面白い。


安く仕入れられる。


価格を抑えられる。


それでも利益を残せる。


康則は、そんな場所を見つけては商品にした。


口コミ。


旅行誌。


そして大手旅行会社。


やがて、


全日本旅行。


JBT。


近畿ツアー。


そうした大手からも、クラウザー観光へ引き合いが入るようになった。


「伊東さんの企画を扱わせてもらえませんか?」


倉田は、その電話を何度も聞いた。


そして、四年が過ぎた。


     ◇


平成十二年。


クラウザー観光。


決算資料を前に、役員たちは言葉を失っていた。


売上高。


康則が企画開発を始めた頃と比べ――。


十倍。


わずか四年。


会社の規模そのものが変わっていた。


倉田は資料を閉じた。


四年前。


大連から康則を呼び戻した。


「何をしでかすか分からない。」


そう思っていた。


だが。


違った。


こいつは――。


何かをしでかす男ではない。


何かを見つける男だった。


人がまだ知らないもの。


人が面白いと思うもの。


そして、人が動くもの。


康則はそれを見つけていた。


倉田は四十六歳になっていた。


短期間で売上10倍の実績により専務取締役に就任することになった。


同時に。


新しい人事案が出された。


企画開発部長。


倉田は迷わなかった。


「伊東康則でいきます。」


周囲がざわめく。


「三十歳ですよ。」


「若すぎませんか?」


倉田は静かに答えた。


「年齢で企画を作るんですか?」


誰も答えなかった。


「この四年間で、売上を十倍にしたのは誰です?」


倉田は資料を閉じる。


「私は、この男を企画開発部長に推薦します。」


その日の夕方。


康則は倉田の部屋へ呼ばれた。


「伊東。」


「はい。」


「お前、企画開発部長になれ。」


康則は目を丸くした。


そして。


「……嫌ですよ。」


倉田が固まる。


「何?」


「そんな大役。」


「お前な……。」


康則は困ったように笑った。


「部長なんてなったら、会議ばっかりになるじゃないですか。」


「なる。」


「海外にも行けなくなる。」


「そこか。」


「そこですよ。」


倉田はしばらく康則を見た。


そして、笑った。


「分かった。」


「え?」


「今まで以上に海外旅行へ行けるように配慮する。」


康則の顔が明るくなった。


「……本当ですか?」


「本当だ。」


「じゃあ、やります。」


倉田は呆れた。


「三十歳で部長になる条件が、海外旅行か。」


「旅行じゃないですよ。」


康則は真顔だった。


「市場調査です。」


「都合のいい言葉を覚えたな。」


二人は笑った。


こうして。


平成十二年。


伊東康則、三十歳。


クラウザー観光・企画開発部長。


大連から呼び戻された男は。


日本に閉じ込められた四年間で、世界へ飛び出すための翼を手に入れた。


そして。


この男の旅は――。


まだ始まったばかりだった。

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