新世代
平成十二年、春。
泉町精工野球部に、大きな世代交代の時が訪れていた。
長年、チームを支えてきた芝と佐久間が、ユニフォームを脱ぐことになった。
芝は、体力の限界だった。
若い頃なら、試合の翌日でも平気で仕事に行けた。
だが、年齢には勝てない。
「もう、身体がついてこんわ。」
芝は笑っていた。
寂しさはあった。
それでも、本人の表情はどこか晴れやかだった。
そして佐久間。
こちらは、もっと現実的な理由だった。
子供が生まれた。
休日になれば、野球より子供と過ごしたい。
「俺も、もう子育てせんといかんし。」
そう言って、佐久間は退部した。
かつてグラウンドを駆け回った男は、いつの間にか子供を連れて試合を見に来る父親になっていた。
「パパ、あれ誰?」
「昔の仲間。」
「パパも野球やっとったの?」
「めちゃくちゃやっとったぞ。」
佐久間は笑った。
その横顔には、少しだけ名残惜しさがあった。
さらに、エース瀬戸にも異変が起きていた。
肘の故障。
投げられない。
泉町精工の投手陣は、一気に苦しくなった。
その年の公式戦。
一回戦。
泉町精工は、あっけなく敗れた。
世代交代。
誰もがそう感じていた。
そんな中。
一人の新人が入部した。
甲山次晴。
栄商出身。
甲子園出場経験者。
高校では遊撃手だった。
だが、中学までは投手。
強肩を買われ、栄商ではショートを守っていた。
それでも。
投手への思いは、消えていなかった。
栄商。
愛知県内でも知られた、伝統の不良校だった。
野球部にも、独特の空気があった。
不良たちに囲まれて野球をする。
だからこそ、選手たちは一つの心得を叩き込まれていた。
舐められたら、やられる。
だから――
舐められるな。
喧嘩をしろという意味ではない。
逃げるな。
怯むな。
自分から弱みを見せるな。
体力、気力、根性を鍛えろ。
どんな相手にも堂々と向き合え。
それが、栄商野球部に受け継がれてきた「栄商魂」だった。
甲山自身は、不良ではない。
だが、その三年間で身につけたものは、身体の隅々まで染みついていた。
入部初日。
柳田監督が甲山に尋ねた。
「ポジションは?」
「ショートで。」
甲山は答えた。
柳田は頷いた。
「高校もショートだったよな。」
「はい。」
ところが。
瀬戸の故障の話になると、甲山の表情が変わった。
しばらく考える。
そして、顔を上げた。
「監督。」
「なんや。」
「自分、ピッチャー出来ます。」
柳田が眉を上げた。
「高校はショートやろ?」
「はい。」
「投げたことは?」
「中学までピッチャーでした。」
「それで投げられるんか?」
甲山は即答した。
「投げられます。」
その言い方に、柳田は少し笑った。
「……強気やな。」
甲山は何も言わない。
その横で、捕手の柏原隆成が笑っていた。
甲山より七歳上。
栄商から那古野工業大学へ進み、泉町精工に入社した。
馬場元の栄商の後輩でもある。
柏原と馬場は、以前から顔馴染みだった。
会社でも野球でも、何度も顔を合わせてきた。
「じゃあ、俺が受けましょうか。」
柏原がミットを構えた。
甲山がマウンドへ向かう。
スリークォーターから腕を振った。
ズバン!
柏原のミットが鳴った。
「……。」
柏原の目が変わる。
もう一球。
ズバン!
速い。
それだけではない。
球にキレがある。
三球目。
右打者の内角。
甲山が腕を振る。
シュート。
柏原のミットが大きく押し込まれた。
「おい……。」
柏原が笑った。
「速いじゃん。」
甲山は黙ってボールを受け取る。
「もう一球。」
ズバン!
柳田は腕を組んだ。
しばらく甲山を見つめる。
やがて、
「……投手でいくか。」
甲山は頷いた。
「はい。」
「合格だ。」
泉町精工に、新しい投手が生まれた。
何球か投げ込んでいると
グラウンドの入口から、ガラガラと台車の音が聞こえてきた。
柳田が振り返る。
「……馬場さん?」
台車を押して現れたのは、馬場元だった。
昨年、定年退職して泉町団地に住んでいた。
グラウンドまでは近い。
その台車の上には、スポーツドリンクの段ボールが一箱。
二十四本入り。
しかも。
泉町精工の発送用台車だった。
「馬場さん。」
柳田が近づく。
「何です、それ。」
「差し入れ。」
「その台車……。」
馬場は平然としている。
「借りてきた。」
「会社のですよね。」
「そうや。」
「勝手に?」
「ちゃんと返す。」
柳田は、それ以上言えなかった。
馬場元。
柳田にとっては、野球でも仕事でも雲の上の存在だった。
三代目監督。
そして元運輸部長。
定年退職しても、柳田にとっては大先輩である。
「みんなで飲め。」
馬場はスポーツドリンクの箱を指差した。
「ありがとうございます。」
「ええって。」
馬場はグラウンドを見渡した。
そして、一人の新人に目を止める。
「……あそこか。」
柏原が笑った。
「そうです。」
馬場は甲山を見る。
栄商の後輩。
しかも甲子園に出た男。
「一回、見たかったんや。」
甲山がマウンドで再び投げ始めた。
ズバン!
馬場は目を細める。
しばらく見ている。
そして柏原を見る。
「おい、カシ。」
「はい?」
「……甲山、ピッチャーやっとんのかい。」
柏原が笑った。
「本人がやるって言いまして。」
「高校、ショートだったやろ。」
「そうです。」
「投手、やりたかったんか。」
「みたいですね。」
馬場は嬉しそうに甲山を見る。
「そうか。」
しばらくして。
甲山が投げる。
ズバン!
馬場の目が変わった。
もう一球。
ズバン!
甲山が内角へ投げ込む。
シュート。
馬場は黙っている。
そして、
「おい、カシ。」
柏原が振り向く。
「はい。」
「ミット貸せや。」
「え?」
「俺が受ける。」
柏原はすぐにミットを渡した。
「どうぞ。」
馬場がミットをはめる。
甲山を見る。
「甲山。」
「はい。」
「投げてみい。」
甲山が腕を振る。
ズバン!
馬場の身体が、ほんの少し後ろへ動いた。
もう一球。
ズバン!
馬場はミットを見つめた。
そして、ふっと笑った。
「……小橋さんの球を。」
一拍置く。
「速くした感じやな。」
柏原が馬場を見る。
柳田も黙って聞いている。
馬場は、小橋伸夫の球を知っていた。
泉町精工で、長年バッテリーを組んだ。
小橋が投手として投げ、馬場がその球を受けた。
小橋は三愛商時代、三塁手だった。
投手をやれる人間がいなかった。
だから小橋が投げた。
そして泉町精工では、馬場がその球を受けた。
その記憶が、今、甲山の球と重なった。
馬場はミットを外す。
「ええ球や。」
甲山は黙っている。
ただ、ボールを握り直した。
その目を見て、馬場が笑う。
「栄商魂、忘れるなよ。」
甲山は短く答えた。
「はい。」
馬場は満足そうに頷いた。
その頃。
泉町精工野球部には、もう一人の新しい柱が育っていた。
浅谷嘉一。
小府高校出身。
瀬戸の四年後輩だった。
元来は、チャンスに強いアベレージヒッター。
倉地が四番を打っていた時代には、三番を任されていた。
だが、浅谷には人一倍好きなものがあった。
筋トレだった。
仕事が終われば筋トレ。
休日も筋トレ。
派手なことはしない。
ただ、地道に続けた。
その結果。
少しずつ打球が変わっていった。
外野の頭を越える。
フェンス際まで飛ぶ。
そして。
スタンドへ届くようになった。
一方。
四番の倉地は長打力こそあった。
だが、チャンスに弱かった。
あと一本が出ない。
その一本が出なかったために、何度も接戦を落とした。
それでも泉町精工には、長年の伝統があった。
四番を軸に、打順を大きく動かさない。
四番は四番。
それが当たり前だった。
だからこそ。
三番だった浅谷を四番にする。
それは異例中の異例だった。
柳田監督は決断した。
「四番、浅谷。」
チームがざわついた。
浅谷嘉一。
泉町精工野球部、七代目の四番。
初代・小橋。
二代目・馬場。
三代目・石川。
四代目・山路。
五代目・都築。
六代目・倉地。
そして七代目。
浅谷。
地道な筋トレで飛距離を伸ばした男が、ついに伝統の四番を奪った。
泉町精工野球部は今。
大きく変わろうとしていた。
世代が変わる。
芝が去る。
佐久間が去る。
そして。
甲山。
柏原。
浅谷。
新しい世代が、グラウンドに立ち始めていた。
平成十ニ年、秋。
秋季中日本新聞杯。
泉町精工の一回戦の相手は、守山石油だった。
泉町精工が全国大会で初優勝を果たした後、守山石油は全国大会で二度の優勝を重ねていた。
今や愛知の新しい王者である。
その躍進の中心にいたのが、社長の守山一志だった。
守山は軟式野球に対して、並々ならぬ情熱を持っていた。
会社を挙げて選手を強化。
元プロ野球選手まで社員として迎え入れ、野球部に加えた。
元プロ選手の就職先として企業軟式野球部が受け皿になることには、賛否両論あった。
だが、守山一志の軟式野球に対するバイタリティは、誰もが認めていた。
その強豪を相手に。
泉町精工は新人をマウンドへ送った。
甲山次晴。
栄商出身。
甲子園出場経験者。
社会人初登板だった。
一回表。
守山石油の一番打者。
柏原隆成がサインを出す。
外角。
甲山は首を振った。
もう一度。
内角。
甲山が頷く。
初球。
内角ストレート。
ズバン!
打者が詰まらせる。
三塁ゴロ。
二番。
内角シュート。
セカンドゴロ。
三番。
シュート。
ショートゴロ。
三者凡退。
二回も同じだった。
内角。
シュート。
ストレート。
またシュート。
守山石油の強打線は、次々と内野ゴロを打たされた。
三回。
四回。
甲山は外角へ逃げない。
右打者の懐へシュートを食い込ませる。
打者が踏み込めば詰まる。
芯を捉えてもファウルになる。
五回終了。
守山石油は、まだ一人も塁に出ていなかった。
六回。
先頭打者。
甲山のシュートに詰まった。
打球がふわりと上がる。
内野と外野の間。
センターが前進する。
しかし、あと一歩。
ポテン。
ボールが芝生に落ちた。
初ヒット。
甲山はマウンドから打球を見つめた。
スタンドでは佐久間が思わず立ち上がった。
「……俺なら取れた。」
隣の子供が父親を見る。
「パパ、ほんと?」
佐久間は少し考えた。
「……たぶん。」
子供が笑った。
佐久間も笑う。
だが、すぐにグラウンドへ視線を戻した。
その打者の次に入ったのが、元プロ野球選手だった。
一、二打席。
甲山のシュートに詰まらされている。
しかし三打席目。
身体がわずかに開いている。
柏原が見る。
甲山も見ていた。
柏原がタイムを取りマウンドに向かう。
「身体、開いてますね。」
「え?」
「内角待っとるように見せて。」
甲山は打者を見つめる。
「外角を呼び込もうとしてるんだ。」
柏原が目を細めた。
さすが元プロ。
甲山の投球を読んできた。
だが甲山は笑った。
「俺のシュートは。」
ボールを握り直す。
「内野ゴロか。」
一拍。
「芯で捉えてもファールだぜ。」
柏原が笑った。
「強気やな。」
「シュート、行きます。」
「了解。強気にいこう。」
内角。
甲山が腕を振る。
シュート。
カキン!
ファウル。
二球目。
またシュート。
カキン!
ファウル。
打者は完全にシュートを狙いになった。
柏原がサインを変えた。
内角ストレート。
甲山が頷く。
ズバン!
見逃し三振。
柏原がミットを叩いた。
「シュートしか投げんのちゃうんか?」
甲山は笑った。
「シュートしか投げんとは言ってません。」
柏原も笑った。
守山石油は、その後も何度となく走者を出そうとする。
だが、甲山は崩れない。
ポテンヒット一本。
それ以外は、すべて抑え込んだ。
そして。
試合は終盤まで、0―0のままだった。
九回表。
泉町精工の攻撃。
先頭打者。
アウト。
一死。
打席に入ったのは倉地だった。
この年まで四番を務めてきた男。
その前の打席でも、倉地は凡退している。
守山石油の投手が投げる。
一球目。
ボール。
二球目。
ストライク。
三球目。
ファウル。
倉地は粘る。
四球目。
ボール。
五球目。
ファウル。
六球目。
低め。
ボール。
フルカウント。
倉地がバットを短く持つ。
投手が投げた。
見送った。
「ボール!」
四球。
倉地が一塁へ歩く。
ベンチから声が飛ぶ。
「ナイス!」
倉地は一度だけ拳を握った。
長年、泉町精工の四番を務めてきた男。
この試合。
自分が打って決めることはできなかった。
それでも。
最後に仕事をした。
そして。
打席に入った。
浅谷嘉一。
この年、倉地から四番を奪った男だった。
元々は三番。
チャンスに強いアベレージヒッター。
だが、筋力トレーニングを続け、少しずつ飛距離を伸ばしてきた。
その努力が、四番という打順を引き寄せた。
泉町精工にとって、四番を途中で入れ替えることは異例だった。
だが。
この男なら。
そう思わせるだけのものを、浅谷は身につけていた。
一塁には倉地。
浅谷が打席に入る。
守山石油の内野陣が下がる。
一球目。
ストライク。
浅谷は動かない。
二球目。
ファウル。
三球目。
外角。
浅谷が踏み込んだ。
カキーン!
打球が右中間を破った。
「行った!」
倉地が一塁を蹴る。
二塁。
三塁。
浅谷も走る。
倉地がホームへ突っ込む。
「セーフ!」
泉町精工。
一点先制。
1―0。
浅谷は三塁ベース上で拳を握った。
倉地がホームから振り返る。
浅谷を見る。
そして。
小さく頷いた。
四番を譲った男。
四番を受け継いだ男。
その二人が。
この一点を作った。
九回裏。
守山石油最後の攻撃。
甲山がマウンドへ向かう。
一点差。
一人でも出せば、流れが変わる。
だが。
甲山は動じなかった。
柏原がミットを構える。
内角。
甲山が頷く。
シュート。
詰まった。
セカンドゴロ。
一死。
次。
内角ストレート。
ファウル。
シュート。
ショートゴロ。
二死。
あと一人。
守山石油の最後の打者。
甲山がセットに入る。
柏原のサイン。
内角。
甲山が頷いた。
投げる。
シュート。
打者が詰まらせる。
ふらりと上がった打球。
ショートが下がる。
グラブを構える。
捕った。
「アウト!」
試合終了。
守山石油――0。
泉町精工――1。
甲山次晴。
被安打一。
完封。
柏原がマウンドへ駆け寄る。
「やったな。」
甲山は頷いた。
「はい。」
柏原が甲山の肩を叩く。
「今日から、お前がエースや。」
甲山は黙ってその言葉を噛み締めた。
スタンド。
佐久間は拍手をしていた。
隣では子供が飛び跳ねている。
「パパ、イズミマチ勝った?」
「ああ。」
佐久間はグラウンドを見る。
芝はいない。
自分もいない。
瀬戸も肘を痛めている。
だが。
泉町精工には、新しいエースがいる。
そして。
新しい四番もいる。
「……大丈夫やな。」
佐久間は小さく呟いた。
試合後。
選手たちが集まった。
甲山と柏原が並ぶ。
二人とも栄商出身。
顔を見合わせる。
「歌うか。」
柏原が言った。
甲山が頷く。
二人が声を合わせる。
「この青空と深きみどり――」
グラウンドに校歌が響いた。
「仰げばこころ昂るや――」
少し離れた場所。
馬場元が立っていた。
黙って大声で歌う二人の歌を聞いている。
「穂波の丘に鵬の――」
馬場の目が潤んだ。
栄商。
自分が青春を過ごした場所。
泉町精工で小橋伸夫と組んだバッテリー。
すべてが蘇る。
「翼を羽ばたく我らが母校――」
馬場の唇が動いた。
小さな声だった。
だが、確かに歌っていた。
甲山が気づく。
柏原も気づく。
馬場は涙を拭かなかった。
ただ歌った。
三人の声が重なる。
何十年という時間を越えて。
栄商の校歌が、三人を繋いでいた。
甲山次晴。
社会人初登板。
被安打一。
完封。
柏原隆成。
新しい正捕手。
そして。
浅谷嘉一。
七代目四番。
倉地が四球を選び、浅谷が三塁打を放って決勝点を生んだ。
旧世代が最後に仕事をし。
新世代が、その仕事を受け継いだ。
泉町精工野球部の時代が。
この日、静かに動き始めた。




