土産
昭和三十六年。
泉町精工の工場は、以前とは見違えるほど大きくなっていた。
ホブ盤は増え、旋盤も増え、歯切りの音が一日中止むことはない。
従業員は百人を超えていた。
伊勢湾台風で泥に沈んだあの工場が、いまは別の顔をして立っている。
だが古い工員たちは、大雨のたびに排水溝へ目がいく癖だけは抜けなかった。
その日の午後だった。
「戻りました」
事務所の入口に立った男を見て、誠二が笑った。
「おう、信ちゃん」
伊東信成。
伊東家次男。
タキヤ電機から戻ってきた男だった。
色白で丸顔、きっちり分けた七三。
設計屋特有の、神経質な空気をまとっている。
小橋が煙草を咥えたまま言った。
「どうだった、タキヤは」
「面白かったです」
「それだけか」
信成は少しだけ笑い、鞄を机に置いた。
「土産があります」
出てきた図面に、空気が変わった。
立河三郎が最初に手を伸ばす。
そして止まった。
「……何だこれ」
歯が斜めに走っている。
さらに歪んでいるようにも見える。
見慣れた歯車ではない。
「スパイラルベベルギアです」
事務所が静かになった。
立河は図面を持ち上げたまま眉をひそめる。
「ベベルは分かる」
「だが、こんな歯は見たことがない」
信成は淡々と言った。
「タキヤが次にやるディスクグラインダー用です」
「高速回転工具です」
小橋が短く聞く。
「どれくらい作る」
「月一万台です」
誠二が思わず声を上げた。
「一万?」
数字が現実離れしていた。
信成は続ける。
「プロ用です」
「現場が変わります」
立河が図面を睨んだまま言った。
「……どうやって削る」
「グリムゾンです」
「アメリカ製の専用機」
小橋の眉が動く。
「聞いたことねぇな」
「日本にはまだ少ないです」
信成はノートを開いた。
そこには、数字が並んでいた。
加工時間。段取り時間。工具交換。サイクル。
小橋の視線が止まる。
「タキヤで見てきました」
「一台フルでも一日四十から五十個が限界です」
立河が低く言う。
「そんなに遅いのか」
「スパイラルは一歯ずつです」
「ギヤとピニオンで段取りが違う」
「時間がかかる」
事務所の空気が重くなる。
信成は続けた。
「四台必要です」
「月一万台を回すには」
沈黙。
隆則がそろばんを弾く。
途中で止めた。
「……三千二百万か」
信成が頷く。
「そのくらいです」
多々良正が黙ったまま帳簿を見ている。
数字は、現実の重さを持ち始めていた。
立河が低く言う。
「買って終わりじゃない」
「刃具も段取りも全部いる」
「保守もいる」
信成は即答した。
「だから今なんです」
「他が動く前にやる」
隆則が顔を上げた。
「そんなに売れるもんか」
「工具だぞ」
信成は迷わず言った。
「工具だからです」
そして続けた。
「今、大工も鉄骨屋も自動車屋も、みんな手で削っとる」
「ヤスリで」
「砥石で」
「タガネで叩いて」
「時間をかけて」
立河が口を挟む。
「昔からそうだ」
「でも遅いんです」
信成は言った。
「遅すぎる」
「現場はこれからもっと増えます」
「高速道路」
「団地」
「工場」
「造船」
「全部、今の速度じゃ追いつかん」
「ヤスリ一本の時代は終わるんです」
誠二がぼそっと言う。
「危ねぇもん、そんな簡単に変わるかよ」
「変わります」
信成は即答した。
「最初は嫌われる」
「でも現場は速さに勝てない」
図面を指で叩く。
「その時必要なのがこれです」
「高速で回る」
「振れない」
「小型で強い」
「そういう歯車を作れる会社は、まだほとんど無い」
信成の声が少し強くなる。
「だから今しかないんです」
だが事務所は、まだ揺れていた。
賛成でも反対でもない。
ただ、“分からない”が重く積もっている。
小橋が図面を見つめたまま言った。
「……こんなん、削れるんか」
誰も答えない。
立河も、誠二も、言葉を探している。
それは技術の話でありながら、まだ誰も現実として掴めていない領域だった。
隆則は電卓の上に手を置いたまま、黙っていた。
数字は出ている。
だが、その数字が意味する未来は、まだ形になっていない。
隆は、その空気を見ていた。
そして、静かに目を細めた。
事務所の中には、確かな熱があった。
だがそれはまだ、誰も踏み込んだことのない方向へ向いていた。
工場の外では、ホブ盤の音が途切れず続いていた。
だがこの瞬間だけは、泉町精工の時間が少しだけ先へずれていた。




