魔術師
昭和三十四年九月。
伊勢湾台風による死者・行方不明者は五千人を超えた。
那古野市南部は壊滅状態だった。
床上浸水、数十万戸。
泉町精工も、その中にいた。
翌日。
泥だらけの泉町精工へ、
一台のダイハツミゼットが入ってきた。
降りてきた男を見て、
誠二は思わず目を丸くした。
小さい。
百五十そこそこしかない。
ヨレヨレの作業着。
胸には、
『東條電機』
の刺繍。
兵隊帽。
チリチリの天然パーマ。
大きなメガネ。
無精髭。
どう見ても、
凄腕職人には見えなかった。
むしろ、
浮浪者に見えた。
男は誰にも挨拶しなかった。
そのまま工場へ入ってくる。
長靴がヘドロを踏む。
焼けた制御盤の前へしゃがみ込むと、
無言で扉を開けた。
焦げたリレーを指で触る。
焼けた臭いを嗅ぐ。
そして小さく言った。
「……バカたれ」
薄汚れた手帳を取り出し、
何かを書き始める。
誠二が後ろから覗き込む。
『正正』
『五五』
意味が分からない。
その瞬間だった。
花田が突然振り向いた。
ゴツン。
「いった!」
誠二と頭がぶつかる。
「邪魔だバカたれ!!」
工場中に怒鳴り声が響いた。
誠二が慌てて下がる。
花田はメガネを直しながら、
また制御盤へ頭を突っ込んだ。
「このバカたれどもが……
大方、とーしろーが乾いた思って電気入れたんやろ」
独り言みたいに言う。
だが、
全員に聞こえていた。
小橋の顔が引きつる。
立河は黙っている。
花田は焼けたモーターを見た。
「丸焦げだわ」
まるで他人事みたいに言う。
工員たちは顔を見合わせた。
本当にこんな男で大丈夫なのか。
隆ですら半信半疑だった。
だがタキヤ工業は言った。
花田さんなら何とかすると。
それだけだった。
しばらく工場を歩き回った後、
花田が小橋に突然言った。
「社長どこ?あんた社長?」
「あちらの奥にいるのが社長です。」
小橋がイラっとしながら答えた。
「おぉ社長〜、電話貸してくれや」
若い工員たちが顔を見合わせる。
社長相手に、
その態度だった。
隆は黙って受話器を渡した。
花田は泥だらけの手でダイヤルを回す。
「もしもし、第三電気さん?」
工場が静まる。
「ジジイおる?
ジジイに代わって」
やがて花田が笑った。
「おっ、ジジイ」
その瞬間だけ、
声が妙に柔らかくなった。
「堀田のバカたれどもがよ、
水入った機械回してモーター丸焦げだわ」
工員たちの顔が引きつる。
「うん?
台数?
まだ分からん」
花田は工場を見回した。
「最悪二十台」
空気が止まる。
「生きとるのもあるかもしれん」
花田は煙草を咥え直した。
「どうせ暇だろ?
こっち来て巻き直してくれや」
電話を切る。
カチャン。
工場は静まり返っていた。
誠二が小声で聞く。
「……巻き直し?」
花田は焼けたモーターを指で叩いた。
コン、コン、と鈍い音がする。
「モーターはな」
そこで初めて、
花田が全員を見た。
大きなメガネの奥の目だけが、
妙に鋭かった。
「巻ける」
翌朝。
東條電機のミゼットが、
また泉町精工へ入ってきた。
今日は若い助手がいた。
痩せっぽちで、
まだ十代後半くらいだった。
工具箱を抱えながら、
必死に花田について来る。
「おいバカたれ、
制御盤開けろ」
「は、はいっ!」
若造が慌てて工具を探す。
花田はもう次の制御盤を覗いている。
「ラジペ」
若造が慌てて手を出した。
「違うッ!!」
怒鳴り声が響いた。
「それはニッパだ!!
俺が言ったのはラジペ!!
ラジオペンチだわ!!」
「す、すみませんッ!」
若造が真っ赤になって持ち替える。
花田は巨大な制御盤へ頭を突っ込んだまま、
後ろ手だけをイライラ動かしていた。
兵隊帽から飛び出したチリチリパーマが揺れる。
大きなメガネもズレていた。
その様子を見ていた誠二が、
思わず吹き出した。
「ぶふっ」
花田が振り向く。
「何笑っとるバカたれ!!」
工場に、
数日ぶりの笑い声が戻った。
昼過ぎ。
第三電気商会のジジイが来た。
白髪。
痩せた身体。
口には煙草。
焼けたモーターを見るなり、
呆れた顔をした。
「おい花田」
「何だジジイ」
「おおかた泥水入ったまま通電したな」
「だからバカたれ言っとるだろ」
二人は笑った。
まるで戦場帰りの兵隊みたいだった。
後で誠二が知った。
二人とも、
元通信兵だった。
戦争中、
壊れた無線機を現地修理しながら、
南方を転々としていたらしい。
花田が回路を組み、
ジジイがコイルを巻く。
それで何度も部隊を救ったらしい。
その後3日間、泉町精工はまるで野戦病院みたいになった。
焼けたモーターが並ぶ。
ジジイが黙々と銅線を巻き直す。
花田は制御盤を全部組み替えた。
新しいマグネットスイッチ。
新しいリレー。
新しいサーマル。
「この配線違う!!」
「ラジペ持ってこいバカたれ!!」
「半田ぬるいわ!!」
怒鳴り声が飛び続ける。
だが、
工場は少しずつ生き返っていった。
三日目の夜。
一台目のボブ盤の前に、
全員が集まった。
工場は静まり返っている。
花田が制御盤を閉めた。
「……まぁ、こんなもんだわ」
小橋が唾を飲み込む。
誠二の顔が強張っている。
隆は祈るみたいに機械を見ていた。
花田が言った。
「入れろ」
若造がスイッチを押した。
全員が息を止める。
ゴウン……
低いモーター音が、
工場へ響いた。
ボブ盤が、
ゆっくり回り始める。
「……回った」
誠二が呟く。
だが、
誰もまだ喜ばない。
花田が言った。
「削れるか確認してくれるか?」
製品がチャックへ固定される。
ホブがゆっくり近づく。
切削油が落ちる。
全員が黙って見ていた。
送りが入る。
キュイイイイ……
低い切削音が響いた。
小橋の喉が動く。
立河は腕を組んだまま、
一歩も動かない。
ホブが抜ける。
静寂。
削り終えたワークを、
小橋が震える手で持ち上げた。
歯が切れていた。
ちゃんと。
綺麗に。
切れていた。
小橋の目から、
涙が落ちた。
「……出来とる」
次の瞬間だった。
「うおおおおっ!!」
工場中で歓声が爆発した。
誠二が泣きながら飛び跳ねる。
「回った!!
歯が切れたぞ!!」
工員たちが帽子を投げる。
まだ端々に泥が残る工場で、
皆が叫んでいた。
隆は涙を堪えきれなかった。
小橋は思わず花田へ抱きついた。
「ありがとうございます……
ありがとうございます……!」
花田は真っ赤になった。
「やめろバカたれ!!
暑苦しい!!」
だが、
その顔は少し笑っていた。
小橋が、
削上がった歯車を見つめる。
切削面は綺麗だった。
送りも滑らかだった。
異音も無い。
花田は煙草を咥え直した。
「ジジイが巻き直したんだわ」
モーターを親指で叩く。
「トルクは上がっとる」
そして制御盤を指差した。
「マグネットも一個上等なやつ入れた」
少し得意そうに鼻を鳴らす。
「電線も太くしといた」
誠二がぽかんとする。
「そんな変わるんですか……」
花田は呆れた顔をした。
「誰が直した思っとるバカたれ」
工場に笑いが起きた。
工場の隅では、
第三電気商会のジジイが、
煙草を咥えたまま言った。
「まぁ新品よりええわな」
立河は、
回り続けるボブ盤を見ながら、
静かに呟いた。
「世の中には……
ほんとすごい人がおるんだな」
小橋が涙を拭きながら頷く。
外では、
まだ泥の臭いが残っていた。
だが泉町精工には、
一週間ぶりに、
機械の音が戻っていた。




