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決壊

昭和三十四年九月二十六日。



昼から降り続いていた雨は、夕方になっても弱くならなかった。


泉町精工のトタン屋根を叩く雨音が、ボブ盤の駆動音に混じって響いている。


樫野木製作所から入れたボブ盤。


山井産業の中古機。


鋳物の塊みたいな機械たちが、いつも通り歯車を削っていた。


現場ラジオでは朝から台風情報を繰り返していたが、誰も真面目には聞いていない。


『非常に強い台風十五号は——』


機械音にかき消される。


「今日、電車止まりますかね」


若い工員が笑う。


小橋伸夫は工具箱を跨ぎながら、


「止まる前に帰れ」


とだけ返した。


その程度だった。


立河三郎は、一度だけ工場の外へ出た。


雨はかなり強い。


だが山﨑川そのものは、まだそこまででもなかった。


用水路は増えている。


風も妙に生暖かい。


何か嫌な感じだけはした。


長く堀田で生きてきた勘が、少し引っかかっていた。


だが、それ以上ではない。


「どうです?」


後ろから若い工員が聞く。


立河は暗い空を見たまま、


「……分からん」


とだけ言った。


夜七時過ぎ、工場は閉められた。


「まぁ、明日は泥だらけだな」


誰かが笑う。


「勘弁してくださいよ」


工員たちも笑った。


その時はまだ、


誰も、


工場そのものが水に沈むとは思っていなかった。


立河だけが最後に一度、


風の音を聞いていた。


妙な風だった。


だが、そのまま帰った。


その夜。


伊勢湾台風は愛知県へ上陸した。


高潮が海から川を逆流した。


山﨑川。


天白川。


暗闇の中で、堤防が耐えきれなくなった。


堀田へ水が来たのは、その後だった。


誰もいない泉町精工へ、泥水が流れ込んだ。


シャッターを叩き、


工作機械を沈め、


油と海水とヘドロを工場へ撒き散らしながら。


翌朝。


星崎から堀田へ向かう道は、別の町みたいになっていた。


小橋は何度も自転車を降りた。


道路が泥で埋まっている。


畳。


木片。


壊れた桶。


いろんな物が道路脇へ引っかかっていた。


潮臭かった。


海から遠い町なのに、生臭い。


天白川の近くまで来た時、人だかりが見えた。


消防団の男たちが、泥だらけで何かを運んでいる。


毛布が見えた。


小橋はそっちを見ないように通り過ぎた。


だが、水を吸った小さな靴だけが妙に目に残った。


泉町精工へ着いた時、小橋は足を止めた。


シャッターに、茶色い線が残っていた。


胸の高さ近くだった。


そこまで水が来た印だった。


誰も喋らない。


立河が黙ってシャッターを開けた。


泥の臭いが噴き出した。


工場の床には、黒い汚泥が数十センチ積もっていた。


低い場所には、まだ茶色い水溜まりが残っている。


切粉。


図面。


木箱。


煙草の吸殻。


全部泥まみれだった。


二十台並んだボブ盤は、ヘドロをかぶったまま黙っている。


まるで墓石みたいだった。


誠二が壁を見上げた。


「……こんな高さまで来たのか」


壁には、はっきりと水位の線が残っていた。


小橋は、


一番奥のボブ盤へ近づいた。


樫野木から入れた機械だった。


去年、


皆で据え付けた。


まだ月賦も払い終わっていない。


ヘドロをかぶった送りハンドルへ、


小橋が触れる。


指が震えていた。


「……嘘だろ」


初めて、


小橋がそう言った。


立河は何も答えなかった。


停電は続いていた。


工場は暗かった。


その日から、全員で泥出しが始まった。


泥を掻く。


機械を拭く。


配電盤を開ける。


配線を乾かす。


油を差す。


誰も文句を言わなかった。


三日間、全員が泥だらけになった。


誠二は泥まみれのバケツを運びながら、何度も工場を走った。


だが途中で滑った。


「うわっ!!」


盛大に尻もちをつく。


泥水が飛び散った。


一瞬だけ、工場に笑いが起きる。


誠二も笑った。


だがその直後、


隣のボブ盤を見て黙った。


ヘドロをかぶった機械は、


やっぱり動かなかった。


夜になると工場は真っ暗だった。


ボブ盤は、一台も動かない。


ただ巨大な鉄の塊として並んでいるだけだった。


三日目の夜。


誰もいなくなった工場で、


隆は一人、


ボブ盤を拭いていた。


布が真っ黒になる。


何度拭いても泥が出る。


隆は突然、


布を床へ叩きつけた。


「クソッ!!」


誰もいない工場に、


声だけが響いた。


四日目の夕方だった。


事務所の裸電球が、


突然ぼうっと点いた。


「あっ……!」


誰かが声を上げる。


蛍光灯も遅れて明滅した。


「電気来たぞ!」


止まっていた空気が、一気に動いた。


小橋は思わず制御盤を見た。


三日間、


扉を開けっぱなしにして乾かした。


泥も掻き出した。


配線も布で拭いた。


皆、


もう大丈夫だと思いたかった。


若い工員が言う。


「……一回、入れてみます?」


誰も反対しなかった。


立河も黙っていた。


皆、動いてほしかった。


工員がスイッチを押す。


次の瞬間だった。


バチバチバチィッ!!


制御盤から青白い火花が吹き出した。


「うわぁっ!!」


工員が尻もちをつく。


モーターが低く唸った直後、黒煙を噴き上げた。


焼けた絶縁材の臭いが、一気に工場へ広がる。


小橋の怒声が飛んだ。


「おい、早く電気を切れ!早く!」


工場が凍りついた。


黒煙だけが上がっている。


立河が焼けた制御盤を覗き込む。


しばらく見た後、小さく言った。


「……駄目だな」


その一言で、誰も喋れなくなった。


隆は泥だらけの事務所へ入った。


受話器を持つ。


震える指でダイヤルを回した。


タキヤ工業。


何度目かで繋がった。


「……伊東です」


声が掠れていた。


「ボブ盤が……


全部、水に浸かりまして……」


電話の向こうで、工務課長は黙って聞いていた。


「制御盤も……


モーターも焼けました……」


長い沈黙。


やがて低い声が返ってきた。


『東條電機』


「……え?」


『花田さん呼べ』


隆は意味が分からなかった。


「いや……


制御盤も全部やられて——」


『いいから花田さん呼べ』


「ですが——」


『花田さんなら何とかする』


電話は切れた。


ツー……


ツー……


隆は受話器を持ったまま動けなかった。


背後では、


創業以来初めて止まった工場が、


静かに沈黙していた。


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