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6/12

昭和三十二年。



泉町精工は、


少しずつ大きくなっていた。


タキヤ向け電動工具用歯車。


クラウザー向け工作機械部品。


受注は安定し、


工場には新しい機械が増えていた。


ボブ盤の並ぶ現場には、


以前より人の声が増えた。


旋盤工。


検査工。


出荷担当。


若い工員も増え始めていた。


始業前の工場は騒がしい。


切削油の匂い。


煙草の煙。


ベルト駆動音。


怒鳴り声。


笑い声。


戦後の小さなミシン針工場は、


いつの間にか、


“歯車屋”になり始めていた。


その頃、


社長の伊東隆は、


工場よりグラウンドを見ていた。


「人数が揃って来た。」


事務所で社員名簿を見ながら言う。


「そろそろ、


ちゃんと野球が出来るぞ。」


女事務員が苦笑いする。


「また始まりましたよ。」


隆は聞いていない。


「小橋はまだ投げれる。」


「馬場は捕れる。」


「立河は肩が強い。」


「林とかいうの、


あいつ飛ばしそうだ。」


完全に監督だった。


昼休みになると、


工場裏の空き地でキャッチボールが始まる。


ボールは油で黒ずんでいた。


小橋伸夫がノックを打つ。


「たっつあん!!


前だ前!!」


立河三郎は、


ぎこちなくグローブを構えた。


野球経験は無い。


だが妙に肩が強かった。


打球が飛ぶ。


立河が走る。


捕る。


そして、


ほとんど助走も無しに投げる。


矢のような送球だった。


若い工員達がどよめく。


「すげぇ……。」


小橋が笑う。


「たっつあん、


肩だけ職業野球だな。」


立河が顔をしかめる。


「ガキん頃、


山崎川で石投げとっただけだ。」


「野球じゃなくてか。」


「水切りだ。」


周囲が笑う。


立河は今でも、


何かあると山崎川へ行った。


河原で石を拾い、


黙って投げる。


何回跳ねたか、


それだけを見ている。


小橋は、


そういう立河を昔から知っていた。


その横では、


小島誠二が必死に素振りしていた。


だがスイングが波を打っていた。


馬場元が笑う。


「誠二、


振らん方が塁に出る確率が高いんじゃねえか?」


誠二が汗を拭う。


「でも打たなきゃ駄目じゃないですか。」


「お前は立っとれ。」


現場に笑いが起きた。


その頃、


伊東家では、


長男の隆則が畿内学院大学経営学部を卒業し、クラウザーへ修行に出ていた。


次男の信成は、


同立社大学理工学部へ進学していた。


帰省すると、


工場へ降りて来る。


ボブ盤を触り、


図面を眺め、


小橋へ質問ばかりしていた。


そして末っ子の征広だけが、


少し違っていた。


まだ十二歳。


野球にも、


工場にも、


そこまで夢中ではない。


ただ、


遠くから眺めていた。


工場の男達を。


怒鳴って。


笑って。


油まみれになって。


子供みたいに騒ぐ姿を。




その年の秋。


泉町精工野球部は、



堀川区工場対抗大会へ出場した。


相手は、


鋳物工場の岸原鋳鋼。


体格も大きい。


見るからに強そうだった。


試合前。


隆は既に酒を飲んでいた。


「絶対勝て!」


小橋が呆れる。


「まだ始まってません。」


「気合いだ!」


後妻の富士子が困ったように笑う。


征広はその隣で、


黙ってグラウンドを見ていた。


試合が始まる。


小橋は、


投げて、


怒鳴って、


走っていた。


完全に一人で試合を回していた。


だがその投球は、


昔ながらの豪速球ではない。


右肩を壊してから、


腕は少し横から出るようになっていた。


それでも速い。


しかも、


妙に食い込む。


小橋の球は、


右打者の内角へ滑り込んだ。


カンッ。


鈍い音。


打球は力なく転がる。


「ピッチャー!!」


小橋が自分で捕る。


一塁送球。


アウト。


次の打者。


また内角。


詰まる。


今度はキャッチャー前。


馬場が飛び出し、


一塁へ投げる。


「アウト!」


観客がざわつく。


「なんだあの球。」


「打ちにくそうだな……。」


さらに次。


ボテボテの三塁ゴロ。


柴田康が慌てながら前へ出る。


捕る。


送る。


林国晃が、


不格好な体勢でミットを伸ばす。


「おぉっと!」


観客がどよめく。


だが捕った。


林本人が一番驚いていた。


「捕れた……。」


立河が吹き出す。


「毎回言うなお前。」


小橋は笑わない。


帽子のつばを触りながら、


次の打者を睨んでいた。


三回表。


岸原鋳鋼が先制した。


連打ではない。


四球。


送りバント。


内野ゴロ。


そして犠牲フライ。


嫌らしい点の取り方だった。


隆がベンチで怒鳴る。


「何やっとる!!」


小橋が言い返す。


「うるさいです!」


工場のおばちゃん達が笑う。


「社長、


酔っとるわ。」


中盤。


二対一。


泉町精工は押されていた。


だが六回裏。


先頭の立河が出る。


詰まりながらも、


レフト前へ落とした。


そして、


とにかく走った。


次打者は柴田康。


経験者だが、


決して上手くはない。


小橋が叫ぶ。


「転がせ!!」


柴田が必死にバットを出す。


ボテボテの三塁線。


鋳物工場の三塁手が前へ出る。


焦った。


握り損ねた。


ボールが転がる。


「行けぇぇ!!」


立河が走る。


二塁を蹴る。


外野がもたつく。


立河は止まらない。


三塁を回る。


馬場が腕を回す。


「行ける!!」


立河が突っ込む。


送球。


間に合わない。


セーフ。


同点。


グラウンドが沸いた。


「たっつあん!!」


立河は息を切らしながら、


照れ臭そうに笑った。


「疲れた……。」


小橋が笑う。





その後、


試合は終盤までもつれた。


三対三。


最終回裏。


二死満塁。


泉町精工最後の打者は——


小島誠二だった。


ベンチが静まる。


誠二が青ざめる。


「……


こんな大事な場面で俺かあ…… 」


小橋がヘルメットを投げる。


「行け。」


「む、無理ですよ!」


「いいから立て!」


誠二は、


泣きそうな顔で打席へ向かった。


相手投手は完全に荒れていた。


一球目。


高い。


ボール。


二球目。


また外。


誠二が振り向く。


「小橋さん、


怖いです!」


「前向け!!」


三球目。


内角へ抜ける。


誠二がのけぞる。


観客がざわつく。


馬場が呟く。


「完全に崩れとるな。」


小橋が腕を組む。


「……振るなよ。」


誠二が叫ぶ。


「振ってません!!」


フルカウント。


グラウンドが静まる。


投手が投げる。


抜けた。


ボールは誠二の肘へ当たる。


ゴッ。


「うわぁっ!!」


次の瞬間。


三塁走者がホームを踏んだ。


サヨナラ。


一瞬、


誰も理解出来なかった。


そして——


「おぉぉぉぉっ!!」


泉町精工側が爆発した。


工員達が飛び出す。


帽子が舞う。


林が誠二を抱き上げる。


「すげぇ!!」


誠二本人だけが混乱していた。


「えっ……


俺、


打ってないですよ?」


立河が腹を抱えて笑う。


「お前らしいわ。」


小橋も笑っていた。


「だから振るなって言っただろ。」


隆は酒瓶片手に叫んでいる。


「これが泉町精工だ!!」


夕暮れのグラウンドで。


征広は、


泥だらけで笑う工員達を、


黙って見ていた。


その声だけは、


ずっと忘れなかった。


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