声
昭和三十二年。
泉町精工は、
少しずつ大きくなっていた。
タキヤ向け電動工具用歯車。
クラウザー向け工作機械部品。
受注は安定し、
工場には新しい機械が増えていた。
ボブ盤の並ぶ現場には、
以前より人の声が増えた。
旋盤工。
検査工。
出荷担当。
若い工員も増え始めていた。
始業前の工場は騒がしい。
切削油の匂い。
煙草の煙。
ベルト駆動音。
怒鳴り声。
笑い声。
戦後の小さなミシン針工場は、
いつの間にか、
“歯車屋”になり始めていた。
その頃、
社長の伊東隆は、
工場よりグラウンドを見ていた。
「人数が揃って来た。」
事務所で社員名簿を見ながら言う。
「そろそろ、
ちゃんと野球が出来るぞ。」
女事務員が苦笑いする。
「また始まりましたよ。」
隆は聞いていない。
「小橋はまだ投げれる。」
「馬場は捕れる。」
「立河は肩が強い。」
「林とかいうの、
あいつ飛ばしそうだ。」
完全に監督だった。
昼休みになると、
工場裏の空き地でキャッチボールが始まる。
ボールは油で黒ずんでいた。
小橋伸夫がノックを打つ。
「たっつあん!!
前だ前!!」
立河三郎は、
ぎこちなくグローブを構えた。
野球経験は無い。
だが妙に肩が強かった。
打球が飛ぶ。
立河が走る。
捕る。
そして、
ほとんど助走も無しに投げる。
矢のような送球だった。
若い工員達がどよめく。
「すげぇ……。」
小橋が笑う。
「たっつあん、
肩だけ職業野球だな。」
立河が顔をしかめる。
「ガキん頃、
山崎川で石投げとっただけだ。」
「野球じゃなくてか。」
「水切りだ。」
周囲が笑う。
立河は今でも、
何かあると山崎川へ行った。
河原で石を拾い、
黙って投げる。
何回跳ねたか、
それだけを見ている。
小橋は、
そういう立河を昔から知っていた。
その横では、
小島誠二が必死に素振りしていた。
だがスイングが波を打っていた。
馬場元が笑う。
「誠二、
振らん方が塁に出る確率が高いんじゃねえか?」
誠二が汗を拭う。
「でも打たなきゃ駄目じゃないですか。」
「お前は立っとれ。」
現場に笑いが起きた。
その頃、
伊東家では、
長男の隆則が畿内学院大学経営学部を卒業し、クラウザーへ修行に出ていた。
次男の信成は、
同立社大学理工学部へ進学していた。
帰省すると、
工場へ降りて来る。
ボブ盤を触り、
図面を眺め、
小橋へ質問ばかりしていた。
そして末っ子の征広だけが、
少し違っていた。
まだ十二歳。
野球にも、
工場にも、
そこまで夢中ではない。
ただ、
遠くから眺めていた。
工場の男達を。
怒鳴って。
笑って。
油まみれになって。
子供みたいに騒ぐ姿を。
その年の秋。
泉町精工野球部は、
堀川区工場対抗大会へ出場した。
相手は、
鋳物工場の岸原鋳鋼。
体格も大きい。
見るからに強そうだった。
試合前。
隆は既に酒を飲んでいた。
「絶対勝て!」
小橋が呆れる。
「まだ始まってません。」
「気合いだ!」
後妻の富士子が困ったように笑う。
征広はその隣で、
黙ってグラウンドを見ていた。
試合が始まる。
小橋は、
投げて、
怒鳴って、
走っていた。
完全に一人で試合を回していた。
だがその投球は、
昔ながらの豪速球ではない。
右肩を壊してから、
腕は少し横から出るようになっていた。
それでも速い。
しかも、
妙に食い込む。
小橋の球は、
右打者の内角へ滑り込んだ。
カンッ。
鈍い音。
打球は力なく転がる。
「ピッチャー!!」
小橋が自分で捕る。
一塁送球。
アウト。
次の打者。
また内角。
詰まる。
今度はキャッチャー前。
馬場が飛び出し、
一塁へ投げる。
「アウト!」
観客がざわつく。
「なんだあの球。」
「打ちにくそうだな……。」
さらに次。
ボテボテの三塁ゴロ。
柴田康が慌てながら前へ出る。
捕る。
送る。
林国晃が、
不格好な体勢でミットを伸ばす。
「おぉっと!」
観客がどよめく。
だが捕った。
林本人が一番驚いていた。
「捕れた……。」
立河が吹き出す。
「毎回言うなお前。」
小橋は笑わない。
帽子のつばを触りながら、
次の打者を睨んでいた。
三回表。
岸原鋳鋼が先制した。
連打ではない。
四球。
送りバント。
内野ゴロ。
そして犠牲フライ。
嫌らしい点の取り方だった。
隆がベンチで怒鳴る。
「何やっとる!!」
小橋が言い返す。
「うるさいです!」
工場のおばちゃん達が笑う。
「社長、
酔っとるわ。」
中盤。
二対一。
泉町精工は押されていた。
だが六回裏。
先頭の立河が出る。
詰まりながらも、
レフト前へ落とした。
そして、
とにかく走った。
次打者は柴田康。
経験者だが、
決して上手くはない。
小橋が叫ぶ。
「転がせ!!」
柴田が必死にバットを出す。
ボテボテの三塁線。
鋳物工場の三塁手が前へ出る。
焦った。
握り損ねた。
ボールが転がる。
「行けぇぇ!!」
立河が走る。
二塁を蹴る。
外野がもたつく。
立河は止まらない。
三塁を回る。
馬場が腕を回す。
「行ける!!」
立河が突っ込む。
送球。
間に合わない。
セーフ。
同点。
グラウンドが沸いた。
「たっつあん!!」
立河は息を切らしながら、
照れ臭そうに笑った。
「疲れた……。」
小橋が笑う。
その後、
試合は終盤までもつれた。
三対三。
最終回裏。
二死満塁。
泉町精工最後の打者は——
小島誠二だった。
ベンチが静まる。
誠二が青ざめる。
「……
こんな大事な場面で俺かあ…… 」
小橋がヘルメットを投げる。
「行け。」
「む、無理ですよ!」
「いいから立て!」
誠二は、
泣きそうな顔で打席へ向かった。
相手投手は完全に荒れていた。
一球目。
高い。
ボール。
二球目。
また外。
誠二が振り向く。
「小橋さん、
怖いです!」
「前向け!!」
三球目。
内角へ抜ける。
誠二がのけぞる。
観客がざわつく。
馬場が呟く。
「完全に崩れとるな。」
小橋が腕を組む。
「……振るなよ。」
誠二が叫ぶ。
「振ってません!!」
フルカウント。
グラウンドが静まる。
投手が投げる。
抜けた。
ボールは誠二の肘へ当たる。
ゴッ。
「うわぁっ!!」
次の瞬間。
三塁走者がホームを踏んだ。
サヨナラ。
一瞬、
誰も理解出来なかった。
そして——
「おぉぉぉぉっ!!」
泉町精工側が爆発した。
工員達が飛び出す。
帽子が舞う。
林が誠二を抱き上げる。
「すげぇ!!」
誠二本人だけが混乱していた。
「えっ……
俺、
打ってないですよ?」
立河が腹を抱えて笑う。
「お前らしいわ。」
小橋も笑っていた。
「だから振るなって言っただろ。」
隆は酒瓶片手に叫んでいる。
「これが泉町精工だ!!」
夕暮れのグラウンドで。
征広は、
泥だらけで笑う工員達を、
黙って見ていた。
その声だけは、
ずっと忘れなかった。




