異音
昭和二十六年。
タキヤ向け試作歯車のクレームは、
泉町精工の空気を変えていた。
「音がうるさい。」
その一言が、
工場全体へ重く残っていた。
歯車は回っている。
欠けてもいない。
止まってもいない。
だが、
駄目だった。
小橋伸夫は、
返却された歯車を何度も見ていた。
歯面を指でなぞる。
目立つ傷は無い。
寸法も合っている。
立河三郎が言う。
「少し逃がすか。」
小橋は顔を上げる。
「バックラッシュか。」
立河が頷く。
「詰めすぎると鳴く。」
「でも逃がしゃガタる。」
「今でも鳴いとる。」
現場が静まる。
誰も正解を知らなかった。
歯車は、
削れば終わりではない。
ようやく、
皆それを理解し始めていた。
その日の夕方。
隆が現場へ来た。
「明日、
タキヤ行くぞ。」
小橋が振り向く。
「俺もですか。」
「お前が行かな誰も説明出来ん。」
立河も呼ばれた。
さらに、
なぜか小島誠二もいた。
「お前も来い。」
誠二が目を丸くする。
「えっ、俺ですか。」
「荷物持ち。」
現場に笑いが起きた。
翌日。
一行は、
堀田駅から名鉄電車へ乗った。
呼続。
桜。
本笠寺。
戦後の煤けた町並みが、
窓の外を流れていく。
誠二だけが落ち着かなかった。
「大会社ですよね……。」
立河が鼻を鳴らす。
「ビビっとるな。」
「そりゃビビりますよ。」
小橋は黙ったまま、
窓の外を見ていた。
やがて、
今村の巨大工場群が見えてくる。
煙突。
搬入口。
貨車。
人。
泉町精工とは、
規模が違った。
タキヤ工場は、
まるで一つの街だった。
案内された会議室には、
既に数人座っていた。
設計部。
品質管理部。
営業。
机の上には、
問題の電動工具が置かれている。
分解され、
ギアケースが開いていた。
設計主任が口を開く。
「高速回転時、
かなり異音が出ます。」
品質管理担当が続ける。
「市場へは出せません。」
小橋が黙って歯車を見る。
「歯当たりは見ましたか。」
「確認済みです。」
「片当たりは。」
「大きくはありません。」
小橋は黙る。
立河が横から言う。
「少し遊び増やしたらどうです。」
設計主任が顔を上げる。
「バックラッシュですか。」
「詰めすぎると鳴きます。」
品質管理が口を挟む。
「ですが遊びが増えると、
耐久性が落ちます。」
空気が重くなる。
小橋が言う。
「今のままじゃもっと鳴く。」
設計主任も引かない。
「寿命が落ちれば、
結局市場クレームになります。」
誰も喋らなくなった。
その時だった。
後ろで工具を眺めていた誠二が、
不用意に本体へ触る。
立河が気付く。
「おい誠二——」
次の瞬間。
ギュイイイイイイイイ!!
凄まじい音が会議室へ響いた。
全員が固まる。
誠二が青ざめた。
「す、すみません!!」
だが、
小橋は動かなかった。
モーターが回っている。
ギアは付いていない。
それでも、
かなりうるさい。
品質管理担当が眉をひそめる。
設計主任も黙ったまま、
回転するモーターを見ていた。
やがて小橋が言う。
「……モーターもかなりうるさいな。」
静寂。
誠二だけが、
スイッチを切って慌てていた。
「すみません!
勝手に触っちゃって!」
誰も怒らない。
設計主任が、
小さく息を吐いた。
「完全にギアだけ、
という訳でもないか……。」
品質管理が腕を組む。
「ケース共振もあるかもしれません。」
立河が小橋を見る。
小橋も黙っていた。
初めてだった。
歯車だけではなく、
機械全体で音が決まる。
そんな事を、
泉町精工はまだ知らなかった。
しばらくして、
設計主任が口を開く。
「……バックラッシュ、
少しだけ増やしてみましょう。」
小橋が顔を上げる。
「いいんですか。」
「ただし最小限です。」
設計主任が図面を指差す。
「寿命は落としたくない。」
小橋は静かに頷いた。
会議室を出た後。
廊下を歩きながら、
立河が誠二の頭を小突く。
「お前、
勝手に触るな。」
「すみません……。」
だが、
小橋は珍しく笑っていた。
「まあ、
役には立った。」
誠二が顔を上げる。
「え?」
「ギアだけじゃねぇって、
分かった。」
立河も吹き出した。
「お前、
余計な事ばっかする癖にな。」
誠二は困ったように笑った。
帰りの電車。
夕焼けが窓へ流れていく。
四人はしばらく黙っていた。
やがて隆が煙草へ火を付ける。
立河がぽつりと言う。
「歯車ってのは、
いろいろと厄介なもんだ。」
小橋は窓の外を見たまま答える。
「……音だな。」
隆が煙を吐く。
「音?」
小橋が頷く。
「野球でも、
芯食った時は音が違う。」
立河が少し笑う。
「あぁ。」
「変な振動が無い。」
小橋は続ける。
「ガチッとも違う。
バキッでもない。」
誠二も聞いていた。
「スパン、
って抜ける。」
隆が煙草を持ったまま笑う。
「お前、
野球の話になると分かりやすいな。」
現場にいた時より、
少し柔らかい顔だった。
小橋は窓の外を見続ける。
「歯車も、
ああいう音じゃなきゃ駄目なんだろうな。」
誰も喋らなかった。
電車が揺れる。
夕暮れの工場煙突が、
黒く並んでいた。
泉町精工はまだ、
“良い歯車の音”を知らなかった。




