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巨星墜つ

平成九年、冬。


朝八時。


泉町精工本社。


一本の電話が、社長室へ入った。


受話器を置いた信成は、しばらく動かなかった。


静かに目を閉じる。


やがて、低い声で呟いた。


「……小橋さんが、亡くなられた。」


享年六十八。


元常務取締役。

退任後は相談役。


創業期から泉町精工を支え続けた男。


野球部初代エース。


創業者・伊東隆から監督を引き継いだ二代目監督。


昭和の泉町精工を象徴する存在だった。


技術者を育て、

若者を見守り、

失敗した人間にも何度も立ち上がる機会を与えた。


その男が、静かに旅立った。


その日、工場の機械は一斉に止まった。


社員全員が作業帽を取り、黙祷を捧げた。


誰も言葉を発しなかった。


ただ、工場には機械が止まった時だけ聞こえる、静かな空気が流れていた。


⸻


通夜。


斎場には社員、取引先、野球部OBが次々と訪れていた。


祭壇中央には、穏やかに微笑む小橋の遺影。


まるで、


「何をそんな顔しとるんだ」


と笑っているようだった。


喪主は長男・正伸。


熊王株式会社に勤める正伸は、気丈に弔問客を迎えていた。


信成が焼香を終えると、正伸が静かに歩み寄ってきた。


その隣には、深く頭を垂れる立河製作所社長、立河三郎の姿があった。


創業期、小橋とともに油にまみれ


泉町精工の礎を築きあげた相棒――「たっつあん」だった。


目元を赤く腫らした正伸は、絞り出すような声で言った。


「社長……親父、息を引き取る寸前まで、うわ言を言っていたんです。」


信成と立河は正伸を見つめた。


「うわ言……?」


「はい……意識が朦朧としているのに、自分の家族の名前じゃなく……ずっと工場のことを。」


正伸は涙をこらえながら、父の最期を語った。


『……信ちゃん……頼んだぞ……人を……見捨てるなよ……』


『たっつあん……あのホブ盤の音……ちょっと高いな……刃を……替えんと……』


立河はかぶっていたハンチングを深く目深に引き下げ、片手で顔を覆った。


しわくちゃの大きな手が、激しく震える。


帽子の庇(ひさし)の隙間から、大粒の涙が床へ落ちた。


その隣にいた橋本登は、何も言わず、ただじっと遺影を見つめていた。


「トニーらしいな。」


小橋の声が聞こえたような気がしてギュッと奥歯を噛みしめて溢れそうになるものを必死に耐えていた。


正伸は唇を噛みしめた。


「最後の最後まで……親父の頭の中には、泉町精工と、社長やみなさんのことしかありませんでした。」


その瞬間だった。


張り詰めていたものが切れた。


「……小橋さん。」


声が震える。


「まだ……一緒に会社を見ていてほしかった。」


肩が震える。


「まだ、教えてほしいことが……いっぱいありました。」


膝から力が抜けた。


「小橋さぁぁん……!」


社長ではなかった。


泉町精工の社長ではなく、


ただ一人の男が、


恩人を失って泣いていた。


会場は静まり返る。


征広は唇を噛み、

多々良重雄は静かに目を閉じた。


誰も止めようとはしなかった。


それが、小橋と信成の関係だった。


⸻


習志野毅が祭壇の前へ進んだ。


遺影を見つめ、少し照れたように笑う。


「小橋さん。」


「三回も離婚した俺は。」


「普通なら、会社でも人生でも、とっくに見放される人間です。」


少し間を置く。


「でも、小橋さんは違った。」


「仕事で判断する。」


「人間、一回や二回失敗したぐらいで見捨てるな。」


「そう言ってくれました。」


習志野は深く頭を下げた。


「今の俺があるのは、小橋さんのおかげです。」


「ありがとうございました。」


⸻


続いて石川満が前へ出た。


「小橋さん……いや。」


「小橋監督。」


その一言で、野球部OBたちの目が赤くなった。


「腰を壊して、硬式野球を辞めた俺を拾ってくれた。」


「泉町精工でもう一回野球をやれ。」


「三愛商の魂を見せてくれ。」


「あの言葉で、俺の人生は変わりました。」


石川は静かに頭を下げた。


「ありがとうございました。」


⸻


その時だった。


会場後方がざわめいた。


娘に支えられながら、一人の老人がゆっくり歩いてくる。


内山義雄。


かつて泉町精工と共に繁栄を誓い合った元内山工業社長。


しかし今は身体は衰え、一人で歩くことも難しい。


娘・服部麻紀が寄り添っていた。


内山は祭壇の前で杖を置いた。


そして深く頭を下げた。


「小橋っちゃん……。」


声が震える。


「あん時……勝つ言うたやないか……。」


「糖尿病なんかに負けへんって……みんなの前で……言うたやないか……!」


唇を噛み、涙をこらえる。


「自分の会社潰したわしがな。」


「こんなところに来る資格なんか、ないんやないかと思った。」


息を整える。


「……でもな。」


「小橋っちゃんの最後だけは、見送らなあかんかった。」


唇を噛む。


「ありがとう言いたかったんや。」


激しく咳き込む。


「ゴホッ……ゴホッ……!」


麻紀が背中をさする。


「お父さん、もうええから。」


しかし内山は首を振った。


「……ええんや。」


「どうしても言いたかったんや。」


「小橋っちゃんは……最後まで、人を見捨てんかった。」


その言葉に、信成は再び涙を流した。


内山はゆっくり信成の前へ歩く。


震える手で肩を叩く。


「……信ちゃん。」


「今日は社長やない。」


「昔のままの信ちゃんでええ。」


信成は、子どものように泣き崩れた。


内山も涙を流していた。


創業期を知る男たちの涙に、会場中がもらい泣きした。


⸻


告別式。


棺が静かに運び出される。


社員たちは深く頭を下げた。


霊柩車が見えなくなるまで、誰一人顔を上げなかった。


昭和の泉町精工を支えた巨星は、


多くの人に見送られ、


静かに旅立った。


⸻


その夜。


社長室。


信成は机の上に、一枚の古い写真を置いた。


若き日の自分。


隣で笑う小橋。


二人で肩を並べて写った写真だった。


グラスへ酒を注ぐ。


「小橋さん。」


「あなたが残してくれたものは、売上でも、設備でもありません。」


写真を見る。


「人です。」


「あなたが信じた人間たちが、今もこの会社を支えています。」


「泉町精工がここまで来られたのは……。」


「あなたが、人を残してくれたからです。」


「本当にありがとうございました。」


窓の外。


工場の煙突から白い蒸気が、夜空へ静かに昇っていた。


⸻


翌朝。


泉町精工本社。


朝礼。


社員たちは、いつもより静かだった。


信成が壇上へ上がる。


しばらく社員を見渡す。


「昨日、小橋伸夫さんが亡くなられました。」


工場内が静まり返る。


「小橋さんは、技術だけを残した人ではありません。」


「人を残した人です。」


「失敗した人間を見捨てず。」


「若い人間を育て。」


「会社の未来を信じ続けた人です。」


信成は一度、深く息を吸った。


「泉町精工で一番大切なものは何か。」


「私は、昨日改めて教えられました。」


「人です。」


「小橋さんが守ってきたものを、我々が次の世代へ渡していきましょう。」


社員たちは静かに頷いた。


そして工場の機械が、一台、また一台と動き始める。


旋盤の音。


研磨機の音。


いつもの泉町精工の音が戻ってきた。


小橋伸夫という巨星は墜ちた。


しかし、その光は消えなかった。


彼が育てた人々の中で。


そして泉町精工という会社の中で。


これからも、静かに輝き続ける。

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「人を、人を」って言ってますけど、もう首斬りは終わったんですかね? 斬った方のことは知りませんけど斬られた方は忘れませんよ、死ぬまで。 私も斬られましたからパートのおばちゃん達の気持ちは分かります。言…
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