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正式採用

平成八年、夏。


静岡県沼津市。


協和機工商事株式会社。


創業以来、機械工具と産業機械を扱い、中部一円はもちろん、全国にも販売網を広げる中堅商社であった。


従業員約二百名。


工作機械業界では、その名を知らぬ者はいない存在だった。


この会社には、創業以来受け継がれてきた独特の経営体制があった。


創業者には五人の息子がいる。


社長職は兄弟が年齢順に受け継がれ、


現在は四男が代表取締役社長。


長男は終身名誉会長。


次男は名誉会長。


三男は会長。


そして五男が専務取締役として次期社長を担っていた。


兄弟五人全員が現役経営陣。


業界では有名な同族企業だった。


その朝。


営業部長・杉山の机の電話が鳴る。


「はい、協和機工商事です。」


受話器の向こうは、タナック購買部だった。


「杉山さん。」


「泉町精工さんの中空減速機ですが。」


杉山は姿勢を正した。


「はい。」


「正式採用が決まりました。」


その一言で十分だった。


杉山はゆっくり目を閉じる。


「……ありがとうございます。」


「本当にありがとうございます。」


電話を切ると、大きく息を吐いた。


何年も営業を続けてきたが、これほど嬉しい一本の電話はなかった。


すぐに泉町精工へ電話を掛ける。


⸻


泉町精工本社。


営業企画部。


福井明人が受話器を取る。


「はい、福井です。」


「杉山です。」


「やりました。」


「正式採用です。」


福井は思わず立ち上がった。


「……ありがとうございます。」


「ありがとうございました。」


電話を切ると、そのまま専務室へ向かう。


「失礼します。」


伊東征広は書類から顔を上げた。


「どうした。」


福井は笑顔を抑え切れなかった。


「タナック。」


「正式採用です。」


征広は静かに立ち上がった。


「そうか。」


しばらく窓の外を眺める。


そして振り返った。


「まずは。」


「協和機工商事さんへ、お礼に伺おう。」




翌日。


協和機工商事本社。


征広。


福井。


そして非常勤相談役となった橋本登が訪れていた。


三人を出迎えたのは専務取締役だった。


「本日はありがとうございます。」


応接室へ案内される。


やがて、


「社長がお待ちしております。」


社長室の扉が開く。


現社長。


会長。


名誉会長。


終身名誉会長。


四兄弟が並んで座っていた。


杉山も少し緊張した面持ちで控えている。


社長が笑顔で口を開いた。


「伊東専務。」


「このたびは、おめでとうございます。」


「タナックさんとは、私が営業部長時代から築き上げた関係でしてね。」


すると会長が笑う。


「いやいや。」


「最初にタナックを開拓したのは私だ。」


「当時の工場長とは何度も酒を酌み交わした。」


名誉会長も負けていない。


「全国取引まで育てたのは私の代だ。」


終身名誉会長が静かに頷く。


「そもそも最初にタナックへ営業へ行ったのは、わしじゃ。」


四人は次々と昔話を始めた。


誰も譲らない。


その横で杉山は額の汗をハンカチで拭いていた。


(勘弁してくれよぉ……。)


今回の採用をまとめたのは自分だった。


しかし、そんなことを言える空気ではない。


専務も冷や汗を流しながら苦笑いしている。


「社長……。」


「その辺で……。」


誰の耳にも届かない。


橋本は思わず吹き出した。


「あはは。」


「皆さん、お元気ですなあ。」


ようやく歓談が終わり、一行はエレベーターホールへ向かう。


専務と杉山が見送りに出た。


扉が閉まる直前。


専務が深々と頭を下げた。


「伊東専務。」


「本日は、お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございませんでした。」


杉山も頭を下げる。


「お恥ずかしい限りです。」


征広は穏やかに微笑んだ。


「いいえ。」


「皆さんが、この会社を愛しておられることは十分伝わりました。」


専務はほっとした表情を見せた。




帰りの新幹線。


福井が苦笑する。


「賑やかな会社でしたね。」


橋本も笑った。


「あはは。」


「兄弟五人もおったら、ああなるわな。」


征広は静かに窓の外を眺めていた。


「確かに。」


「指示系統は少し複雑でした。」


「派閥もあるでしょう。」


「経営としては、あまり感心しません。」


福井は黙って頷く。


征広は続けた。


「ですが。」


「経営陣一人ひとりのバイタリティには目を見張るものがありました。」


「皆さん、自分の会社に誇りを持ち、自分の言葉で会社を語っていた。」


「あの情熱が、協和機工商事を二百人規模の会社まで育てたのでしょう。」


橋本は征広を見た。


征広は静かに微笑んだ。


「学ぶべきところは学ぶ。」


「真似してはいけないところは真似しない。」


「それが経営です。」


橋本は嬉しそうに頷いた。


「あはは。」


「専務も、ええ経営者になったのう。」




数日後。


山梨県。


タナック本社。


調印式。


購買部長が契約書へ判を押す。


続いて征広が署名する。


「本日より、泉町精工製中空減速機を正式採用いたします。」


固い握手が交わされた。


創業以来最大級の受注。


泉町精工の新たな歴史が始まった。




さらに数日後。


泉町精工。


減速機工場。


ホブ盤が唸る。


研削盤が回る。


組立ラインでは若い社員たちが手際よく減速機を組み上げていく。


非常勤相談役となった橋本も、この日は工場へ顔を出していた。


完成した減速機が木箱へ丁寧に梱包される。


箱には力強く印字されている。


IZUMIMACHI REDUCER


大型トラックへ積み込まれる第一便。


石川満が橋本へ声を掛けた。


「橋本さん。」


「いよいよ出荷です。」


橋本は静かに頷いた。


「ああ。」


「ここからが本番じゃ。」


トラックがゆっくりと正門を出ていく。


橋本は帽子を取り、小さく会釈した。


「行ってこい。」


石川も並んで見送る。


「橋本さん。」


「この減速機、必ず世界一に育てます。」


橋本は穏やかに笑った。


「あはは。」


「頼んだぞ。」


トラックが見えなくなるまで、二人はその場を動かなかった。


世界への第一歩が、静かに踏み出された。

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