別れ
平成八年、初夏。
泉町精工本社。
試験室。
開発本部長・橋本登は、静かに耐久試験機を見つめていた。
海水試験開始から、まもなく一千時間。
表示時間は――
九百九十八時間。
九百九十九時間。
試験室には張りつめた空気が流れていた。
若い技術者たちは固唾をのんで表示器を見つめる。
誰一人として口を開かない。
橋本だけが腕を組み、じっと試験機を見守っていた。
やがて――
表示が切り替わる。
一〇〇〇時間。
同時に試験機が静かに停止した。
担当技術者が慌てて測定器を確認する。
「軸受、異常ありません!」
「ギヤ摩耗、規格内!」
「オイルシール漏れ……ゼロ!」
「全項目、合格です!」
その瞬間だった。
「やったー!」
試験室は歓声に包まれた。
若い技術者たちは抱き合い、飛び跳ねて喜ぶ。
何人かは涙を流していた。
橋本は何も言わなかった。
静かに試験機へ歩み寄る。
慎重に中空減速機を取り外し、両腕で抱え上げた。
ずっしりとした重み。
鉄の塊。
しかし橋本には、それ以上の重みがあった。
何十枚もの設計図。
何十台もの試作品。
歯車を削り直し、軸受を変え、オイルシールを替え、また壊す。
その繰り返しだった。
橋本は油の付いた手で、減速機のハウジングをゆっくり撫でた。
ボルト穴をなぞる。
軸受部を確かめる。
自ら何度も設計変更した箇所を、一つひとつ愛おしむように指先で追っていく。
そして胸へ抱き寄せた。
まるで我が子を抱くように。
目を閉じる。
病床の妻・早苗の声が聞こえた気がした。
『貴方なら、できますよ。』
「世界一の減速機を作る。」
そう約束した日のことを思い出す。
橋本は減速機をぎゅっと抱き締めた。
肩が小さく震える。
やがて目を開き、優しく微笑んだ。
「……できたな。」
試験室にいた誰も、その背中へ声を掛けられなかった。
その一言に、橋本登という技術者の人生が詰まっていた。
数日後。
本社大講堂。
歯車事業部、減速機事業部の全社員が集まっていた。
壇上には大きな横断幕が掲げられている。
『橋本登相談役就任・定年退職セレモニー』
司会者が橋本の歩みを読み上げる。
「クラウザー工作機械入社。」
「泉町精工入社。」
「歯車事業の発展に尽力。」
「減速機開発責任者。」
「中空減速機完成。」
読み上げられるたびに、大講堂には大きな拍手が響いた。
「続きまして、花束贈呈。」
「新開発本部長、三尾勝義。」
三尾が花束を抱え、橋本の前へ進み出る。
「橋本相談役。」
「長い間、本当にありがとうございました。」
深く頭を下げる。
橋本は照れくさそうに笑った。
「ケケケッ。」
「まだ死ぬわけやない。」
会場が笑いに包まれる。
三尾も笑顔になった。
「これからも、ご指導よろしくお願いします。」
橋本は花束を受け取り、三尾の肩を軽く叩く。
「三尾ちゃん。」
「あと頼んだぞ。」
「はい。」
「橋本さんを超えられるよう努力します。」
橋本は満足そうに頷いた。
「その言葉が聞きたかった。」
再び拍手が起こる。
橋本はマイクを握った。
「最後に。」
「一人だけ。」
「礼を言いたい人がいます。」
会場が静まり返る。
橋本は客席の後方へ目を向けた。
「寺田。」
最後列。
平歯車課の作業服姿で座っていた寺田幸生が立ち上がる。
柳田と入れ替わるように運輸部から歯車課へ異動し、一年前から現場で汗を流していた。
橋本は壇上を降りる。
ゆっくりと寺田の前まで歩いた。
そして。
深々と頭を下げた。
場内の空気が止まる。
「……あの日は。」
「すまんかった。」
橋本は顔を上げない。
「本部長になって。」
「勘違いしとった。」
「肩書ばっかり見て。」
「人を見ることを忘れとった。」
静寂。
「寺田。」
「お前が正しかった。」
「泉町精工には。」
「役職より重いもんがある。」
「人との順番や。」
寺田の目から涙があふれる。
「橋本さん……。」
「もう、ええです。」
「俺も意地張っとりました。」
橋本は右手を差し出した。
寺田も震える手を伸ばす。
二十年越しの握手だった。
パチン。
最初に拍手したのは伊東征広だった。
続いて習志野毅。
信成。
石川満。
三尾勝義。
やがて大講堂は、割れんばかりの拍手に包まれた。
橋本は照れくさそうに笑う。
「ケケケッ。」
「泣いたらいかん。」
「男やろ。」
寺田も涙を拭いながら笑った。
「橋本さんも。」
「泣いてますよ。」
「汗じゃ。」
場内は笑いに包まれた。
橋本は最後に社員たちを見渡した。
「世界一の減速機もできた。」
「世界一の仲間もできた。」
「わし一人で作った減速機やない。」
「一緒に悩んで、一緒に汗を流したみんなのおかげだよ。」
「私は幸せ者じゃ。」
深く一礼する。
歯車事業部。
減速機事業部。
全員が立ち上がった。
鳴り止まない拍手が、大講堂いっぱいに響き渡る。
橋本登。
一人の技術者として歩み続けた人生は、この日、大きな節目を迎えた。
翌週。
取締役会。
「石川満。」
「取締役ならびに減速機事業部本部長を命ずる。」
石川は静かに辞令を受け取った。
橋本から受け継いだ役職。
その重みを胸に刻む。
その日の夕方。
野球部グラウンド。
練習を終えた部員たちが集められていた。
石川満監督の隣には、取締役製造本部長・習志野毅。
そして、運輸部の作業服姿の柳田仁が立っていた。
石川が静かに口を開く。
「今日をもって。」
「俺は野球部監督を退く。」
部員たちにどよめきが走る。
「会社から新しい役目を任された。」
「これからは会社に全力を注ぐ。」
「次期監督を発表する。」
「習志野から推薦があり、俺も同意見だ。」
習志野が頷く。
部員たちの視線は都築敏夫へ集まった。
しかし石川は柳田の肩に手を置く。
「新監督は、柳田仁。」
ざわめく部員たち。
佐久間が都築へ小声で尋ねた。
「トシさん。」
「それでいいんすか?」
都築は頭をかきながら笑った。
「もちろん。」
「俺、天然だから監督は向いとらん。」
部員たちから笑いが漏れる。
都築は柳田を見て頷いた。
「しっかり者の仁がピッタリだ。」
「俺は隣で好き勝手言うとるぐらいがちょうどええ。」
柳田は照れくさそうに笑った。
「……トシ。」
石川は満足そうに二人を見つめた。
「柳田。」
「頼んだぞ。」
「はい。」
力強い返事が夕暮れのグラウンドに響いた。
石川は帽子を脱ぎ、グラウンドへ向かって一礼する。
全国制覇。
幾多の激戦。
仲間たちと流した汗。
すべてが、この場所に刻まれていた。
「ありがとう。」
石川満は静かに歩き出す。
橋本から石川へ。
そして石川から柳田へ。
泉町精工のバトンは、確かに次の世代へ受け継がれた。




