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手紙

平成八年、春。


第二工場。


開発試験室。


低い駆動音が、静かな部屋に響いていた。


試験台の上で、中空減速機が回り続けている。


橋本登は腕を組み、その姿をじっと見つめていた。


隣には減速機事業部課長、三尾勝義。


「ミスター三尾。」


「耐久試験、何時間だ。」


「九百八十時間です。」


橋本はゆっくり首を横に振った。


「まだ足りん。」


三尾が苦笑する。


「橋本さん。」


「これだけ回して問題ないんですよ。」


「十分すぎる性能だと思いますが。」


橋本は試験機から目を離さない。


「丈夫なだけじゃ駄目だ。」


「世界一じゃなきゃ意味がない。」


三尾は笑う。


「相変わらずですね。」


橋本は机の上に置かれた資料を指差した。


東洋精工から届いた耐海水オイルシール。


「海で使う機械は、海を知らん奴が作ったら駄目だ。」


「ステンレスでも長期間海水に入れば変色する。」


「だから。」


「海水を中へ入れさせない。」


三尾が頷く。


橋本は少し笑った。


「市販品でも十分だ。」


「だが今回は違う。」


「泉町仕様だ。」


一拍置く。


「リミテッドエディション。」


三尾は呆れた顔をする。


「また名前を付けましたね。」


橋本は胸を張った。


「技術者には夢が必要だ。」


「ベリーグッドだ。」


三尾は笑った。



夕方。


橋本は会社を出ると、そのまま病院へ向かった。


病室。


窓際のベッド。


妻・橋本早苗が、穏やかな笑顔で迎えた。


「お帰り。」


「ただいま。」


橋本は紙袋からリンゴを取り出した。


「今日は私がむいてやる。」


包丁を入れる。


しかし。


皮は途中で何度も切れた。


早苗が小さく笑った。


「精密機械は世界一なのに。」


「リンゴは苦手ね。」


橋本は照れた。


「リンゴは専門外だ。」


二人の間に、久しぶりに穏やかな笑いが流れた。


その時。


早苗が机の上の封筒を手に取った。


「今日ね。」


「アメリカから手紙が来てた。」


橋本が見る。


封筒には、


MITSUTOMO HEAVY INDUSTRIES U.S.A.


と書かれていた。


橋本は眉を上げる。


「また英語か。」


早苗が笑う。


「読めるの?」


橋本は少し間を置いた。


「……雰囲気なら。」


「雰囲気?」


「国際的な感じだ。」


早苗は吹き出した。


「いつもミスターとかYouとか言ってるじゃない。」


橋本は真顔で答えた。


「あれは技術者の国際感覚だ。」


「英語ではない。」


早苗は笑いながら封を開けた。


そして、ゆっくり読み始める。


「あなたの開発した減速機は、世界最高水準です。」


「ぜひ、三友重機械工業USAでチーフプロダクトマネージャーとして働いていただきたい。」


橋本は黙って聞いていた。


早苗が顔を上げる。


「すごいじゃない。」


「世界があなたを認めたのよ。」


「行きたかったら、行ってきたら。」


「私は大丈夫だから。」


橋本は窓の外を見る。


長い沈黙。


「……嬉しい。」


「技術屋として、最高の褒め言葉だ。」


そして。


静かに首を振った。


「でも行かん。」


早苗が微笑む。


「どうして?」


橋本は少し笑う。


「英語分からんし。」


早苗は笑った。


「そこ?」


橋本も笑う。


「……違う。」


「泉町精工で始めた仕事だ。」


「最後も、ここで終わらせたい。」


「それだけだ。」


早苗は橋本の手を握った。


細くなった指。


医師から聞いていた。


ペースメーカーを入れれば、今より楽になる可能性がある。


しかし手術の日は、まだ先だった。


橋本は優しく言った。


「早苗。」


「中空減速機は必ず完成させる。」


「だから。」


「早苗も治せ。」


「元気になったら。」


少し照れながら。


「二人で、どこか行こう。」


早苗は笑った。


「やっと普通の日本語ね。」


橋本も笑う。


「たまにはな。」


その笑顔を見ながら。


橋本は心の中で思った。


(俺の心臓で済むなら、いくらでもくれてやる。)


しかし、その言葉だけは口にしなかった。



翌日。


第二工場。


橋本は朝から機嫌が良かった。


「ミスター三尾!」


「見たまえ!」


三尾が振り返る。


橋本はアメリカからの手紙を広げた。


「三友重機械工業USAだ。」


「私を必要としている。」


三尾が驚く。


「すごいですね。」


そこへ北沢が来た。


「橋本さん。」


「何です?」


「本当に行くんですか。」


橋本は胸を張った。


「……いや。」


「英語分からん。」


三尾が吹き出す。


「橋本さん。」


「いつもミスターとかYouとか言ってるじゃないですか。」


橋本は堂々と言った。


「あれは。」


「インターナショナルな雰囲気だ。」


「英語ではない。」


第二工場に笑い声が響いた。



数日後。


北沢は橋本を呼び止めた。


「橋本さん。」


「来年のことですが。」


橋本は察した。


「定年か。」


北沢は頷く。


「はい。」


「もしよろしければ、退職後も非常勤という形で残っていただけないでしょうか。」


「中空減速機もあります。」


「橋本さんの経験は、まだ必要です。」


橋本は試験室を見る。


静かに回る中空減速機。


「ありがたい話だ。」


「技術者として、これ以上嬉しいことはない。」


少し間。


「でもな。」


「断る。」


北沢は驚いた。


橋本は笑った。


「早苗と約束したんだ。」


「元気になったら、一緒に行こうって。」


「今まで俺は、機械ばかり見てきた。」


「最後くらい。」


「ワイフと一緒にいる時間を大切にしたいんだ。」


北沢は静かに頷いた。


「橋本さんらしいです。」


橋本は笑う。


「勘違いするなよ。」


「中空減速機は最後までやる。」


「完成した姿を見るまでは、辞めん。」


試験機は今日も回り続けていた。


橋本登。


技術者人生、最後の一年。


その集大成は、まもなく完成する。

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