再開
平成八年、春。
泉町精工本社。
役員会議室。
大連出張の報告会が開かれていた。
出席者は、社長・伊東信成。
専務・伊東征広。
常務・多々良重雄。
製造本部長・橋本登。
技術部長・石川満。
海外事業本部長・北沢弘。
そして、大連へ同行した伊東信裕だった。
スクリーンには、中国・大連で撮影した写真が映し出される。
北沢が静かに口を開いた。
「今回の視察で最も印象に残ったのは、現場の声でした。」
工場で働く技術者たちの写真が映る。
「現地メーカーから共通して聞かれたのは、保守性への不満です。」
「サーボモーターや五相ステッピングモーター、各種センサーの配線が減速機周辺に集中し、装置が複雑になる。」
「整備のたびに分解が必要となり、生産停止時間が長くなるという声が目立ちました。」
信成が腕を組む。
「つまり、減速機そのものより、周辺との取り合いが問題ということか。」
「はい。」
北沢は頷いた。
「一方で、現在橋本本部長を中心に耐久試験を進めている中空減速機は、その点を十分配慮した構造になっています。」
橋本へ視線が集まる。
「配線や配管を中心部へ通せるため、組立性、保守性ともに大きな改善が期待できます。」
石川が資料を見ながら頷いた。
「現場の要求と一致していますね。」
征広も続ける。
「売る側としても分かりやすい武器になる。」
北沢は最後の資料を閉じた。
「報告は以上です。」
一同が資料を閉じようとした、その時だった。
「あ、もう一つだけ。」
北沢が思い出したように言った。
「クラウザー営業部長の久保寺さんから聞いた話です。」
会議室が静まり返る。
「クラウザーでは、ワイヤーカット放電加工機の開発を再開したそうです。」
橋本の手が止まった。
その瞬間、彼の脳裏に、過去の記憶が一気に蘇る。
タナック。
四菱電機。
セディック。
かつて日本の工作機械業界で、ワイヤーカットという新しい領域に果敢に挑み、成功を収めた企業群。
その成功に刺激され、クラウザーもまた挑戦した。
だが結果は、成功には届かなかった。
精度は安定せず、ワイヤーの制御は不安定で、量産ラインには乗らなかった。
現場では「夢はあったが、現実には勝てなかった技術」と呼ばれた。
誰にも聞こえないほど小さな声。
「……やはりか。」
橋本は静かに立ち上がった。
「ミスター久保寺に会おう。」
北沢も席を立つ。
「私も同行します。」
橋本は穏やかに首を横へ振った。
「いや。」
「大丈夫だ。」
「私だけで十分だ。」
その一言には、二十年以上前にクラウザーを去った技術者だけが持つ、静かな覚悟が滲んでいた。
数日後。
那古野市堀川区堀田。
クラウザー本社ショールーム。
最新鋭の工作機械が整然と並び、白い照明に照らされている。
橋本はゆっくりと展示機の間を歩いた。
二十年以上前。
ここには、自分が設計に携わった機械も並んでいた。
懐かしさよりも、時代の流れを感じる。
その時だった。
「橋本さん!」
振り向く。
営業部長・久保寺俊夫が、大きく手を振りながら歩いてきた。
四十九歳。
クラウザー営業部長。
二人は固く握手を交わした。
「お久しぶりです。」
橋本は微笑んだ。
「元気そうだな。」
久保寺は照れくさそうに笑う。
「橋本さんこそ。」
「またクラウザーへ来ていただけるなんて、本当に嬉しいです。」
橋本はショールームを見回した。
「立派になった。」
「いい機械が並んでいる。」
久保寺が笑う。
「橋本さんが育ててくださった土台ですよ。」
橋本は首を振る。
「いや。」
「今のクラウザーを作ったのは君たちだ。」
しばらく昔話に花が咲いた。
若い頃の失敗。
徹夜続きの開発。
展示会で初めて受注した夜。
笑い声がショールームに響く。
やがて久保寺が表情を引き締めた。
「橋本さん。」
「実は、お話ししたいことがあります。」
橋本も頷く。
「ワイヤーカットだろ。」
久保寺は驚いたように目を見開き、苦笑した。
「やっぱり橋本さんには隠せませんね。」
「ええ。」
「開発を再開しました。」
橋本は静かに頷く。
「あの頃とは時代が違う。」
「今なら勝負できると判断したんだな。」
久保寺は力強く答えた。
「はい。」
橋本は展示機を見つめたまま、小さく笑った。
「そうか。」
「面白くなってきた。」
その目には、定年を目前にした技術者とは思えない輝きが宿っていた。
橋本の中空減速機の話に耳を傾ける久保寺の目も営業部長ではなく、一人の機械好きの青年の目に戻っていた。




