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世界の巨人タナック

平成七年、冬。


泉町精工本社。


専務・伊東征広の執務室。


机の上には、一冊の分厚い資料が置かれていた。


『T社 極秘調査資料』


征広は静かに資料を開く。


クラウザー工作機械の主力製品は、小型マシニングセンター。


通称、ドリリングセンター。


昭和四十年代以降、世界の工作機械は急速にNC化、すなわちコンピュータによる数値制御の時代へ突入した。


そのNCの世界で、圧倒的なシェアを築いた企業がある。


山梨県に本社を置く、タナック。


NC装置。


サーボモーター。


産業用ロボット。


FAシステム。


世界に先駆けて自社工場の完全無人化を実現し、NC業界では誰もが認める世界一のメーカーだった。


クラウザーも。


工作機械名門の熊王も。


自社製NC装置を搭載していた。


しかし海外へ輸出する工作機械の多くは、タナック仕様のNCへ変更して出荷していた。


世界中のユーザーが、タナックをデファクトスタンダード(世界標準〕としていたからである。


そんなタナックが、ついに工作機械市場へ参入した。


第一弾。


タナック・ロボットドリル。


世界中の工作機械メーカーに激震が走った。


だが、業界の反応は意外にも冷ややかだった。


「NC屋が工作機械を作るだと。」


「制御は一流でも、ハードは素人。」


「そんな簡単な世界じゃない。」


そう言って笑う者も少なくなかった。



征広は資料を閉じた。


「慢心ほど恐ろしいものはありません。」


向かいに座る総務部課長、福井明人が顔を上げる。


「私たちも、同じ失敗をしました。」


「タキヤの海外進出。」


「クラウザーの中国進出。」


「その兆候を知りながら、有効な手を打てなかった。」


「その結果が、今の泉町精工です。」


静かな口調だった。


「だから私は、タナックを笑いません。」


「世界一の企業には、世界一になる理由があります。」


福井は静かに頷いた。


「専務、私は何を?」


征広は引き出しから一枚の図面を取り出した。


開発中の中空ギヤードモーター搭載減速機。


「タナックと接触してください。」


「極秘で。」


福井は即座にメモを取る。


「目的は。」


「二つです。」


「タナックが減速機に何を求めているのか。」


「そして、この中空減速機を紹介してください。」


「承知しました。」


しかし征広は続けた。


「ただし、直接取引はしません。」


福井が顔を上げる。


「クラウザーさんへの配慮ですね。」


「ええ。」


「長年、泉町精工を支えてくださった最大のお客様です。」


「真正面からライバル企業へ納めるようなことは避けたい。」


征広は、もう一冊の資料を机へ置いた。


『協和機工商事株式会社』


「商社ですか。」


「静岡県沼津市の中堅商社です。」


「当初は大手商社も考えました。」


「ですが、大手は決裁が遅い。」


「今回は小回りが利く商社が必要です。」


福井は資料をめくる。


「タナックとの取引実績がありますね。」


「ええ。」


「しかも愛知県ではありません。」


「クラウザーに近すぎる商社は避けます。」


「情報が漏れる危険がありますから。」


福井は資料を閉じた。


「つまり。」


「協和機工商事を窓口に。」


「タナックとの接点を作る。」


征広は静かに頷いた。


「その通りです。」


「協和機工商事も調査してください。」


「担当役員。」


「営業責任者。」


「販売網。」


「信用力。」


「可能な限り。」


「承知しました。」


その時だった。


ドアが開き、橋本登が顔を出した。


「おう、ミスター福井。」


机いっぱいに積まれた資料を見るなり笑った。


「相変わらずよう調べるな。」


「さすが諜報部員、さしづめ泉町精工の009と言ったところやな」


福井は真顔で橋本を見る。


「それを言うなら007かと。」


「009はサイボーグのアニメなんで。」


橋本は腕を組み、しばらく考え込む。


やがて、ニヤリと笑った。


「んなこたぁないよ、ミスター福井。」


「君がコンピュータみたいに正確に調べてくるから、サイボーグ009って言っただけだ。」


「あはは!」


福井は小さく頷いた。


「なるほど。」


「そのご説明でしたら理解できます。」


橋本は満足そうに笑う。


「せやろ。」


福井は眼鏡を押し上げ、わずかに口元を緩めた。


「どちらでも差し支えありません。」


少し間を置き、照れくさそうに続けた。


「……どちらかと言えば、007の方には少し憧れますが。」


橋本は腹を抱えて笑った。


「お前、スパイになりたかったんか。」


福井も珍しく笑みを浮かべた。


「子供の頃の話です。」


征広は二人のやり取りを見て、小さく微笑んだ。


「福井さん。」


「よろしくお願いします。」


福井は表情を引き締める。


「承知しました。」


深く一礼し、資料を抱えて部屋を後にした。


数日後――。


静岡県沼津市。


国道沿いに建つ協和機工商事本社。


営業部長・杉山は、福井が差し出した中空ギヤードモーター搭載減速機の資料を食い入るように見つめていた。


「……これは面白い。」


「ですが、泉町精工さんはクラウザーさんとの関係が深い。」


福井は静かに答えた。


「だからこそ、御社にお願いしたいのです。」


「直接ではなく、商社を通して。」


杉山は腕を組んだ。


「相手は……タナックさんですね。」


「はい。」


しばらくの沈黙。


やがて杉山はゆっくり頷いた。


「分かりました。」


「一度、話を通してみましょう。」


福井は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。」


沼津駅へ向かう帰り道。


冬の澄んだ空を見上げながら、福井は小さく笑った。


「007には、ほど遠いですね。」


そう呟くと、コートの襟を立て、足早に駅へ向かった。


泉町精工の静かな反撃は、世界一の企業への扉を、今まさに叩こうとしていた。

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