いざ、大連へ
平成七年、晩秋。
泉町精工本社。
専務・伊東征広の執務室。
営業本部長・北沢弘が分厚いファイルを机に置いた。
「三カ年計画、第一弾ですね。」
征広は頷いた。
「まずは大連です。」
壁に貼られたアジア地図には、赤い印がいくつも付けられていた。
台湾。
大連。
韓国。
その中心に丸で囲まれているのが、
蔵宇座工業(大連)有限公司。
「北沢君、代理店網、販売ルート、競合メーカー、現地ユーザーまで全部、自分の目で見てきてください。」
「机の上の情報だけでは分からないことが必ずあります。」
北沢は力強く頷いた。
「分かりました。」
征広は少し考えるように窓の外を見た。
「それと。」
「一人、若手を連れて行ってください。」
「若手ですか。」
「ええ。」
「海外を知ることは営業マンにとって何よりの財産です。」
「私たちだけが経験して終わらせるのはもったいない。」
「次の世代を育てましょう。」
北沢は笑った。
「誰か候補は?」
征広も笑みを浮かべた。
「決めています。」
その時だった。
コンコン。
「失礼します。」
営業部へ配属されたばかりの新人が入ってきた。
伊東信裕。
社長・信成の長男である。
まだ二十三歳。
新品のスーツがどこかぎこちない。
「信裕。」
「はい。」
「北沢君と一緒に中国、大連へ行ってきなさい。」
信裕は目を見開いた。
「ぼ、僕がですか?」
「見るだけでいい。」
「海外を知ること。」
「世界を見ること。」
「それが今回のお前の仕事だ。」
北沢も優しく笑った。
「気楽に行こう。」
「若い目で見たことを、そのまま教えてくれ。」
信裕は勢いよく頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
翌日
会長室。
征広と北沢は隆則へ出張計画を説明していた。
「大連か。」
隆則は懐かしそうに呟いた。
しばらく考えると、机の引き出しから一枚の名刺を取り出した。
「北沢。」
「これを持っていけ。」
名刺にはこう書かれていた。
クラウザー観光株式会社
中国・大連駐在
伊東康則
「康則……。」
北沢が呟く。
「会長のご長男ですね。」
隆則は笑った。
「そうだ。」
「クラウザー大連法人へ出張する人間は、ほとんどクラウザー観光が手配しとる。」
「ホテルも車も通訳も、全部あいつに任せればいい。」
北沢は名刺を受け取り深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
征広が尋ねた。
「康則くん、大連は長いんですか。」
「三年目や。」
隆則はどこか誇らしげだった。
「大学を一年休学して世界中を旅してな。」
「二十三で卒業。」
「俺と同じ畿内学院大学経営学部を出た。」
「本当なら大手旅行会社へ行けた。」
「それでも本人が選んだのはクラウザー観光や。」
征広は静かに頷く。
隆則は微笑んだ。
「親が子どもの人生を決めるもんやない。」
「康則が選んだ道なら、それでいいわ。」
その言葉を聞いた北沢は、隣に立つ信裕へ視線を向けた。
信裕は何も言わず立っていた。
幼い頃から、
「お前は経営者になる。」
「会社を継ぐ男なんだから。」
そう言われ続けて育った青年だった。
その表情には、どこか硬さが残っていた。
北沢は心の中で思った。
(信裕坊ちゃん……少し肩に力が入り過ぎとるな。)
数日後。
中国・大連空港。
到着ロビーへ出ると、一人の青年が大きく手を振っていた。
「北沢さーん!」
ジャケット姿の青年が駆け寄ってくる。
人懐っこい笑顔。
日に焼けた顔。
「伊東康則です!」
「ようこそ大連へ!」
北沢は思わず笑った。
「会長とは雰囲気が全然違うな。」
康則は豪快に笑う。
「よう言われます!」
「さあ、荷物ください!」
「いや、自分で持つ。」
「遠慮せんでください。」
そう言うと康則は北沢だけでなく、信裕のスーツケースまで軽々と持ち上げた。
流暢な中国語で運転手と話し始める。
ホテルのチェックイン。
夕食の予約。
翌日の工場訪問。
すべて手際よく段取りしていく。
「明日は私も同行します。」
北沢が驚く。
「仕事はいいのか?」
「ありますよ。」
康則は笑った。
「でも、お客さんが仕事しやすい方が大事です。」
「通訳も私がやります。」
「三年も住めば、中国語ぐらい覚えます。」
北沢は感心したように頷いた。
その横で、信裕はただ圧倒されていた。
同じ伊東家の人間。
しかし、その肩には何の力みもない。
自由で、自然体だった。
夕食を終えた信裕は、自室へ戻るとネクタイを緩め、ベッドの端に腰を下ろした。
スーツケースから一冊のノートを取り出す。
今日見たこと、聞いたことを几帳面な字で書き留める。
そして受話器を手に取った。
国際電話の番号を、一つひとつ確かめるように押していく。
コール音が二回鳴る。
「……信成だ。」
低く落ち着いた声が聞こえた。
「父さん、信裕です。」
「ああ、着いたか。」
信裕はノートを開き、今日一日の出来事を報告し始めた。
「空港では、康則さんが迎えに来てくださいました。」
「ホテルも手配していただいて……。」
「北沢本部長からは、明日は販売部門を中心に見学するよう指示を受けました。」
「午後は現地ユーザーを訪問する予定です。」
一つひとつ確認するように話す。
信成は途中、一度も口を挟まない。
すべてを聞き終えると、短く言った。
「分かった。」
信裕は姿勢を正した。
「余計なことはするな。」
「北沢の言う通りに動け。」
「はい。」
「分からんことがあれば勝手に判断するな。」
「必ず北沢に聞いてみろ。」
「はい。」
「それから。」
一瞬、声が柔らかくなった。
「体調には気をつけろ。」
「はい。」
電話は静かに切れた。
信裕は受話器を置き、大きく息を吐く。
ようやく一日が終わった。
そんな安堵が表情に浮かんだ。
その頃。
信裕を迎えに来た北沢は足を止めた。
廊下で偶然、電話越しの会話が耳に入る。
信裕が電話を切る音を聞くと、静かに踵を返した。
廊下の窓から夜景を眺める。
「なるほどな。」
翌朝。
ホテルのロビー。
信裕はロビーのソファで新聞を読んでいた。
北沢がコーヒーを二つ持って歩いてくる。
「信裕くん。」
「はい。」
「少し話そうか。」
二人は並んで腰を下ろした。
北沢はコーヒーを差し出す。
「昨日の電話な。」
信裕の表情が強張る。
「……聞こえてましたか。」
「少しだけ。」
信裕は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。」
「謝らんでええ。」
北沢は穏やかに笑う。
「ただな。」
「君は、もう二十三歳や。」
信裕は黙って聞いている。
「自分の目で見て。」
「自分の頭で考えて。」
「自分の言葉で話せばええ。」
「お父さんに報告することは悪いことやない。」
「でも。」
「全部を報告せんでもええ。」
信裕は俯いた。
「……はい。」
返事はした。
しかし、その表情はまだ硬い。
北沢には分かった。
ほとんど届いてはいない。
クラウザー観光・大連事務所。
電話が鳴り響く。
「はい、伊東です。」
受話器の向こうから怒鳴り声が飛んできた。
「伊東!」
「お前、どこにおる!」
康則は苦笑いした。
「あ、部長。」
「クラウザー本社のお客さんを案内しております。」
「案内って、お前!」
「ホテルまで送れば終わりやろ!」
「現地スタッフが探し回っとるぞ!」
康則は書類へ判を押しながら笑う。
「いやぁ。」
「せっかく日本から来てもらったんです。」
「ちゃんと現場まで見てもらいたいじゃないですか。」
「仕事は!」
「後で片付けます。」
「康則!」
「すみませーん。」
電話を切る。
隣の女性社員が呆れたように笑った。
「また怒られてますね。」
「いつものことです。」
康則は肩をすくめた。
「怒られるより、お客さんに喜んでもらった方がええですから。」
ホテルの玄関。
ワゴン車が滑り込む。
運転席から康則が元気よく降りてきた。
「おはようございます!」
「お待たせしました!」
北沢が笑う。
「今日は仕事じゃないんかい?」
「ありますよ。」
「でも。」
康則は笑顔のまま答えた。
「お客さんが仕事しやすい方が大事です。」
「今日は私が通訳もします。」
「午前中は蔵宇座さんの販売部門。」
「午後は減速機を使ってるユーザーさんを二社回ります。」
「予定変更です。」
北沢は感心したように頷いた。
「助かるわ。」
三人は車へ乗り込んだ。
昼過ぎ。
高速道路を走る車内。
窓の外には、巨大な工場群が続いていた。
しばらく沈黙が流れる。
やがて信裕が小さく口を開いた。
「康則さん。」
「はい?」
「……少し、羨ましいです。」
康則はルームミラー越しに信裕を見る。
「何が?」
「自由で。」
康則は吹き出した。
「自由?」
「そう見える?」
信裕は頷いた。
康則は少しだけ考えたあと、笑顔で言った。
「信裕くん。」
「親父さんは親父さん。」
「君は君や。」
信裕は目を丸くした。
「親父さんの人生は歩けへん。」
「でも、自分の人生は歩ける。」
それだけ言うと、康則は再び前を向いた。
「今は焦らんでええ。」
「まずは仕事を好きになることや。」
「その先のことは、その時考えたらええ。」
信裕は返事をしなかった。
ただ窓の外へ目を向ける。
夕日に照らされた大連の街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。
父の背中だけを追い続けてきた人生。
その胸に、初めて別の道があるのかもしれないという小さな灯がともった。
その変化に、まだ信裕自身も気づいてはいなかった。




