嫉妬
平成七年、晩秋。
本社役員会議室。
重苦しい空気の中、専務・伊東征広が静かに立ち上がった。
机上には一冊の資料。
『泉町精工 三カ年計画』
役員たちの視線が一斉に征広へ集まる。
「本日、泉町精工再建に向けた三カ年計画をご説明します。」
資料を開く。
「最終的な目標は、泉町精工の過去最高売上である五百十億円の突破です。」
一拍置く。
「しかし、現在の売上は二百七十億から三百億円。」
「いきなり五百十億円を目指すのは、計画ではなく願望です。」
役員たちが静かに頷く。
「そこで今回は、現実的な目標を設定しました。」
「三年間で三割以上売上を伸ばし、四百億円へ復帰する。」
「これを第一目標とします。」
征広は役員一人ひとりの顔を見渡した。
「私は、新製品と商流さえ整えば、この数字は十分到達可能だと考えています。」
ページをめくる。
⸻
「一年目。」
「橋本減速機事業部本部長を中心に、中空ギアードモーター及び、中空ギアードモーター搭載減速機を開発します。」
橋本登が腕を組んだまま頷いた。
「同時に。」
「台湾滝谷股份有限公司。(タキヤ台湾法人)」
「蔵宇座工業(大連)有限公司。(クラウザー大連法人)」
「両社の販売網、代理店網、顧客層を徹底的に調査します。」
営業本部長・北沢弘が力強くメモを取る。
「二年目。」
「前半。」
「中空ギアードモーター並びに、中空ギアードモーター搭載減速機を上市します。」
橋本が口元を緩めた。
「ようやく市場へ送り出せるな。」
征広も笑った。
「後半。」
「クラウザー工作機械部門、最大のライバルであり、世界最大のNCメーカーT社。」
「工作機械メーカー。」
「木工機械メーカー。」
「産業ロボットメーカー。」
「順次アプローチします。」
「三年目。」
「台湾、中国、韓国。」
「三市場で販売網を完成させます。」
「そして売上四百億円への復帰。」
「以上が三カ年計画です。」
資料を閉じる。
「最後に申し上げます。」
「価格競争には参加しません。」
役員たちが顔を上げる。
「台湾にも、中国にも、泉町より安いメーカーはいくらでもあります。」
「価格で勝負した瞬間、我々に勝ち目はありません。」
「泉町を選んでいただく理由を作る。」
「他社にはない製品。」
「他社にはない技術。」
「そして。」
「他社にはない商流。」
「この三つで勝負します。」
沈黙を破ったのは社長・信成だった。
「計画は分かった。」
「だが。」
「開発費はどうする。」
「絵空事に資金は出せんぞ。」
会議室が静まり返る。
征広は橋本へ視線を向けた。
「橋本さん。」
「上市まで、いくら要りますか。」
橋本は即答した。
「二億あれば余裕や。」
少し笑う。
「せやけど。」
「一億五千万で仕上げてみせる。」
征広は頷いた。
「分かりました。」
「私の持ち株を少しずつ——」
その時だった。
会長・伊東隆則が静かに遮った。
「征広。」
「俺の株でいい。」
全員が隆則を見る。
「俺の持ち株を少しずつ資金化していこう。」
「一度に売れば株価は崩れる。」
「市場を見ながら少しずつ売ればいい。」
征広は首を振った。
「会長、それでは……。」
隆則は穏やかに笑った。
「俺はもう顧問になる身や。」
「この先、泉町を背負うんはお前や。」
「お前には先がある。」
「未来への投資や。」
征広は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
隆則は役員たちを見渡した。
「採決を取ろう。」
「三カ年計画に賛成の者。」
最初に手を挙げたのは多々良重雄だった。
「賛成です。」
「今の泉町には守りだけやなく、攻めも必要です。」
橋本。
「賛成。」
北沢。
「営業は結果を出します。」
習志野。
「歯車事業部も全面協力します。」
石川満。
「減速機事業部も異議ありません。」
役員たちの手が次々と挙がる。
ただ一人。
信成だけが腕を組んだままだった。
隆則が静かに宣言する。
「賛成多数。
三カ年計画を承認する。」
信成は苦虫を噛み潰したような表情で資料を閉じた。
「……分かった。」
「社長として、この決定には従う。」
静かに席を立ち、会議室を後にした。
人気のない廊下。
夕暮れの西日が窓ガラスを赤く染めていた。
征広の三カ年計画。
本来なら。
社長として、誰よりも頼もしく思うべき計画だった。
だが。
信成は、それ以上に恐ろしさを感じていた。
五歳の時、母を亡くした。
父・伊東隆は再婚し、富士子が伊東家へ入った。
富士子は優しかった。
信成にも、隆則にも、分け隔てなく接してくれた。
それでも。
母ではなかった。
征広は、その富士子の実の子だった。
幼い頃。
富士子の膝で甘える征広を、少し離れた場所から見つめていた自分を、今でも覚えている。
あの時、胸の奥で小さく疼いた感情。
羨ましかったのかもしれない。
そして、今。
経営者としての器。
先を読む力。
人を巻き込む求心力。
征広には、自分にはない何かがある。
そんな思いが頭から離れなかった。
ふと、小橋伸夫の顔が浮かんだ。
信成が専務になってからも。
社長になってからも。
一番近くで支えてくれた男。
人望の薄い自分に代わって、人の心を繋いでくれた男。
いつも最後は笑って言った。
「信ちゃんのやり方でええ。」
信成には自負があった。
突破力だけなら誰にも負けない。
その突破力で泉町精工をここまで大きくしてきた。
一時的にでも会社が五百億円企業に押し上げた。
だが、突破力だけでは、人はついて来ない。
そんな現実を、信成は薄々感じ始めていた。
透析で、小橋は会社へ来る日が少なくなった。
以前のように、夜遅くまで二人で経営を語り合うこともなくなった。
信成は今。
誰よりも孤独だった。
経営者として追い越されていく恐怖なのか。
それとも。
異母弟への嫉妬なのか。
信成自身にも分からない。
ただ一つだけ分かることがあった。
胸の奥で、血が沸々と煮えたぎっている。
信成は立ち止まり、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
苦虫を噛み潰したような表情だった。
「……征広か。」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
その一言には兄弟としての情があった。
しかし同時に。
社長として、自らの存在を脅かされる男の焦燥も滲んでいた。
泉町精工の反撃は、静かに始まった。
その陰で。
信成の胸にもまた、誰にも見せることのできない葛藤が、静かに渦を巻き始めていた。




