加地がいない
平成七年、秋。
秋季中日本新聞杯開幕まであと一週間。
長引く不況の中でも、泉町精工野球部だけは、いつもと変わらぬ笑い声が響いていた。
朝練習前。
グラウンドでストレッチをしていた芝直樹の前へ、加地淳が照れくさそうに歩いてきた。
「芝さん。」
「ん?」
「今日から……。」
「佐久間って呼んでくれますか。」
芝は首を傾げた。
「何でや?」
「婿養子にでもなったんか?」
加地は目を丸くした。
「鋭いっすね。」
「何で分かったんですか?」
芝はニヤリと笑う。
「名字に変わる理由、それしかないやろ。」
加地は照れ笑いを浮かべた。
「資産家でも何でもないですよ。」
「資産家やったら、クラウンの33ナンバー買ってますわ。」
芝が吹き出した。
「アホか、お前。」
そして急に真顔になる。
「……って。」
「佐久間?……まさか相手は佐久間奈々子か?」
加地は少し照れながら頷いた。
「はい。知ってんすか?」
「嫁さん、奈々子です。」
芝は両手で頭を抱えた。
「マジかぁー!」
「あの奈々ちゃんか!」
「俺の同期で、高卒女子人気ナンバーワンやった子やん!」
加地がニヤニヤしながら聞く。
「芝さん。」
「惚れとったんですか?」
芝は慌てて手を振る。
「ちゃう、ちゃう!」
「人気者やったから知っとるだけや!」
加地は胸を張った。
「ほな。」
「俺の勝ちやな。」
芝は苦笑した。
「何の勝負や。」
周りで聞いていた選手たちは朝から大笑いだった。
芝はふと思い出したように加地を見た。
「そういや、お前。」
「昔、中日本ロジャースから誘われとったやろ。」
加地は「ああ」と頷く。
「ドラフト外ですけどね。」
「何で断った?」
「普通やったら行くやろ。」
加地はあっさり答えた。
「ドラフト一位か二位なら行ってやってもええかなとは思いました。」
「軟式だからドラフト外って言われたのも癪に触ったし。」
「ドラフト外じゃ、契約金でクラウンも買えへんですから。」
芝は笑った。
「またクラウンか。」
加地も笑う。
「それに。」
「泉町の野球、めちゃくちゃ楽しかったし。」
少し照れながら続けた。
「奈々子もおったし。」
芝は呆れたように笑った。
「お前……。」
「その頃からか。」
加地は照れ臭そうに頭をかいた。
「毎日会えるじゃないですか。」
「プロ行ったら遠征ばっかりで会えへんし。」
芝は天を仰いだ。
「全国大会MVPより。」
「奈々ちゃん取った方が人生のホームランやな。」
加地は笑った。
「芝さん。」
「加地で全国大会MVP獲りました。」
「次は。」
「佐久間で全国大会MVP。」
「それが俺の今の目標です。」
芝は静かに頷いた。
「ええ目標や。」
数日後。
秋季中日本新聞杯一回戦。
相手ベンチ。
監督がメンバー表を受け取るなり顔がほころんだ。
「よし。」
「加地がおらん。」
隣のコーチもメンバー表を覗き込む。
「ほんまですね。」
監督は笑みを浮かべた。
「久しぶりに泉町に勝てるで。」
コーチが首を傾げた。
「でも……。」
「さっき加地、グラウンドで見ましたよ。」
監督はもう一度メンバー表を見る。
「いや、おらん。」
「怪我でもしたんやろ。」
審判が声を上げる。
「プレイボール!」
場内アナウンスが流れた。
「一番。」
「センター。」
「佐久間。」
相手監督が顔を上げる。
センターには、いつも通りグラブを叩く加地の姿。
「おい!」
「あれ加地やないか!」
コーチは笑いを堪えきれない。
「いや。」
「ユニフォーム見てください。」
監督が目を凝らす。
背中には。
SAKUMA
「マジか……。」
「婿養子か!」
ベンチは爆笑だった。
⸻
試合が始まる。
初回。
佐久間は初球をセーフティーバント。
悠々セーフ。
三回。
ボテボテのゴロを内野安打。
五回。
ヒットで出塁すると、二盗、三盗。
七回。
スクイズを決め、自らも一塁へ滑り込む。
相手ベンチから声が飛ぶ。
「名前変わっても!」
「やること加地のままやないか!」
芝はベンチで腹を抱えて笑った。
「お前。」
「佐久間になっても加地やな。」
佐久間はニヤッと笑う。
「名前は変わっても。」
「野球は変わりません。」
試合終了。
泉町精工 七対一。
快勝。
ヒーローインタビュー。
記者が尋ねた。
「佐久間選手。」
「新しい名字には慣れましたか?」
場内が笑う。
佐久間も笑った。
「まだ違和感あります。」
少し間を置く。
「でも。」
「加地淳で全国大会MVPを獲りました。」
「次は。」
「佐久間淳で全国大会MVP。」
「それが俺の今の目標です。」
スタンドから大きな拍手が起こる。
ベンチでは芝直樹が腕を組みながら笑っていた。
「加地がおらん思たら。」
「もっとええ男がおったわ。」
秋空の下。
背番号一番――佐久間淳は、新しい名字を背負いながらも、これまでと変わらぬ全力疾走で一塁を駆け抜けていた。




