野球無くして泉町は成らず
平成七年、夏。
長引く不況は、泉町精工野球部にも暗い影を落としていた。
平成四年度から三年連続で新入部員採用はゼロ。
部費は大幅に削減され、毎年七、八大会に出場していた野球部も、春と秋の中日本新聞杯、そして全国大会予選だけの活動となっていた。
それでも選手たちは、毎朝誰一人文句を言わず白球を追い続けていた。
本社役員会議室。
議題は、野球部の今後だった。
社長・伊東信成が資料を閉じ、静かに口を開いた。
「野球部を、無期限休部にしたいと思います。」
空気が止まる。
「会社を守るためです。」
「今は一円でも無駄な支出はできません。」
誰も口を開かない。
その時だった。
会議室の扉が静かに開いた。
全員が振り返る。
常務取締役・小橋伸夫だった。
透析治療のため出社もままならず、役員会を欠席することが増えていた小橋の姿に、全員が驚いた。
足取りは明らかに弱々しく、顔色は透析の影響で青白く瘦せ細っていた。
「小橋さん……。」
小橋は笑いながら椅子へ腰を下ろした。
「話は聞いた。」
「野球部を休部にするそうやな。」
信成は小さく頷く。
「はい。」
「会社を守るためです。」
小橋はゆっくり信成を見た。
「会社を守りたい。」
「その気持ちはよう分かる。」
「だから、信ちゃんを責める気はない。」
一拍置く。
「でもな。」
「野球部だけは反対や。」
静かな声だった。
「わしはもう長くない。」
「透析もある。」
「この身体じゃ、常務も務まらんし。」
役員たちが顔を上げる。
「今日をもって。」
「常務を退かせてもらう。」
会議室がざわついた。
多々良重雄が思わず身を乗り出す。
「小橋さん!」
小橋は笑って手を上げた。
「後任は重雄。」
「お前なら任せられる。」
多々良は言葉を失った。
「頼んだぞ。」
そう言うと、小橋はゆっくり会長・伊東隆則へ視線を移した。
「会長。」
「最後は、会長が決めてください。」
隆則は静かに頷いた。
そして信成を見る。
「信成。」
「親父だったら、こう言う。」
信成の肩がわずかに震えた。
隆則は立ち上がり、力強く続けた。
「野球無くして、泉町は成らず。」
会議室が静まり返る。
「野球部は続けなあかん。」
「野球部は泉町精工の伝統や。」
「そして。」
「泉町の魂なんだ。」
「創業した頃。」
「仕事も人も無かった。」
「それでも人が集まり、会社が一つになれたんは野球があったからや。」
「親父はよう言っとった。」
『野球は勝つためだけにやるんやない。人を育てるためにやるんや。』
「その魂だけは失くしたらあかん。」
長い沈黙が流れた。
信成は俯いたまま、何も言わない。
やがてゆっくり顔を上げた。
目にはうっすら涙が浮かんでいた。
唇が震える。
「……だから。」
「だから辛いんだ……。」
言い返そうとした、その時だった。
隣に座る征広が、そっと信成の腕に手を添えた。
「社長。」
静かに首を振る。
「……もういいですよ、無理しなくても。」
信成は征広を見つめた。
征広は何も言わない。
ただ静かに頷くだけだった。
父・伊東隆の言葉。
その重みを、兄弟三人とも誰より知っていた。
信成は目を閉じ、小さく息を吐く。
「……分かりました。」
「野球部は続けます。」
その一言で、議論は終わった。
役員会が終わろうとした時、小橋がもう一度口を開いた。
「それと、もう一つ。」
「多々良。」
「常務は頼んだぞ。」
「はい。」
「必ず期待に応えてみせます。」
小橋は満足そうに笑った。
「安心した。」
透析で痩せた顔だったが、その笑顔だけは創業当時と変わらなかった。
泉町精工はまた一つ、世代交代の時を迎えようとしていた。
その夜。
野球部のグラウンドでは、いつものようにライトが灯っていた。
選手たちは、役員会の決定をまだ知らなかった。
それでも彼らは、誰一人文句を言わず、白球を追い続けていた。




